第2話
第2話
母は夜明け前に息を引き取った。
施設からの電話が鳴ったとき、俺は台所の蛍光灯を換えるための踏み台を、廊下から運び出している途中だった。スマホの画面に「松風園」の四文字が点いた瞬間、踏み台は俺の手から床に倒れて、軽い金属音を立てた。蒼太が奥の部屋から顔だけ出した。寝間着の襟がよれていた。
「父さん」
呼ばれて、俺は通話を押した。看護師の声は、昨日聞いたときと同じ抑揚で、ただ伝えるべきことだけを伝えた。三時十二分、と数字までが正確だった。
電車はもう動いていた。タクシーを呼ぶ余裕はなくて、始発の各駅停車に蒼太と並んで座った。蒼太はジャンパーの下に絵を一枚抱えていた。海の絵だった。昨夜テーブルの上に置いたままだったそれを、いつの間にか持ち出していた。電車の窓に映った蒼太の横顔は、半分眠っていた。膝の上で、絵の角だけがしっかりと指で押さえられていた。
施設の廊下には、消毒液の匂いと、誰かの朝食のために炊かれている味噌の匂いが、ふたつ重なって漂っていた。俺はその匂いを、ここに通うようになって二年で、ようやく嗅ぎ分けられるようになっていた。
母の部屋の引き戸を開けた。母は、もう母ではないものの形で、ベッドに横たわっていた。看護師がカーテンを半分閉めて、窓からの光が母の額に縞を作っていた。蒼太が俺の手を引いた。引かれるままに、俺は母の枕元に近づいた。蒼太は、母の頬の脇に、絵をそっと置いた。
「おばあちゃん、ここ、いっしょに行ったことにしようね」
口の中で、囁くような声だった。看護師がそっと退室する気配がした。母の頬は、もう温度を持っていなかった。けれど蒼太の置いた絵の縁が、母の頬にわずかに触れていた。
***
葬儀は、母が生前に契約していた家族葬の小さなホールで行われた。喪主の席に座ったのは俺だった。父は、葬儀の朝に俺が電話して、ようやく来た。黒いネクタイを忘れてきていた。受付係から借りたものを首に巻きながら、父は俺と目を合わせなかった。
美里は、夫を実家に置いて、一人で来た。子どもの行事は前日に終わったらしい。喪服のスカートに、まだ仕付け糸の白いひと目が残っていた。受付の椅子に座った美里は、参列者から預かった香典袋を、膝の上で一枚ずつ揃え始めた。指先で名前を確認しては、金額を電卓に打ち込んでいく。電卓のキーを叩く音が、ホールの隅でかちかちと続いた。
「お兄ちゃん」
通夜の弔問客が一段落したころ、美里が俺の隣に来て、低い声で言った。
「家のことなんだけどさ」
俺は、紙コップに注がれた茶を口元に運ぼうとしていた手を止めた。
「あの家、もう誰も住まないでしょ」
「……ああ」
「お父さんも今のところに落ち着いてるし。お兄ちゃんも、アパートのままなんでしょ?」
俺は頷いた。蒼太と住んでいるのは六畳ふたつの古いアパートで、母の介護のために実家を売る話は、二年前から先延ばしになっていた。
「私の知り合いに、不動産の人がいるの。査定だけでもしてもらおうと思って」
「今……その話か」
「今しないと、あとで揉めるから」
美里は目を伏せたまま、香典袋の束を電卓の脇に揃え直した。爪の先に、ピンクのマニキュアが薄く残っていた。透明に近い色だった。
父は、椅子の少し離れた場所に座っていた。背中を丸めて、手のひらを擦り合わせていた。話は聞こえているはずだった。父は俺の方を見なかった。美里の方も見なかった。父の視線は、ただホールの絨毯の、古い染みのあたりに落ちていた。
「査定くらいなら、いいだろ」
父が、ぼそりと言った。俺と美里の方を見ないままだった。
「父さんも、それでいいの」
「……ああ」
「分かった」
俺は短く答えた。それ以上の言葉を選ぶ気力が、もう湧かなかった。美里は安心したように頷いて、また香典袋の山に戻っていった。電卓のキーを叩く音が、再び始まった。
俺は紙コップを置いて、ホールの壁際を歩いた。母の遺影は、施設に入る前に撮った写真だった。髪をきちんと染めて、薄い口紅を引いていた。写真館で撮ったものではなく、たぶん父のフィルムカメラで撮られたものを引き伸ばしたのだろう、輪郭の線がやや甘かった。父は、その写真を選んだ理由を、俺に話さなかった。
香典袋の山が、いつのまにか四つに仕分けられていた。会社関係、親戚、近所、その他。美里の指は、紙の重みを量るように、一枚ずつをめくっていた。
「お兄ちゃん、これ」
美里がノートを差し出した。一枚目には、参列者の名前と金額が、几帳面な字で並んでいた。父の同僚らしき名前のあとに、母の妹の名前があった。母の実家からは、誰も来ていなかった。
「あとで、お返しの目録、作ってもらうから。控えだけ持っといて」
俺はノートを受け取って、喪服の内ポケットに入れた。胸の上で、ノートの厚みが、心臓の上に薄く乗った。
***
蒼太が、ホールの隅で立ち上がる気配がした。
俺は振り向いた。蒼太は、絵を両手で持ったまま、棺の方へ歩き出していた。葬儀社の若い男が、道を空けるように一歩下がった。蒼太の小さな足音が、絨毯の上で吸い込まれた。
棺の蓋は、半分だけ開いていた。母の顔が、白い布の上にあった。蒼太は、棺の縁に手をかけて、爪先立ちになった。背丈が足りていなかった。俺は近づいて、蒼太の脇を抱えて、少しだけ持ち上げた。蒼太の身体は、思っていたより軽かった。
蒼太は、母の枕元に、海の絵を置いた。
「いっしょに、行こうね」
絵の角が、母の頬にわずかに触れた。さっき施設で置いたのと、同じ場所だった。俺は蒼太を下ろした。蒼太は、棺の前で頭を下げて、それから俺の手を握った。指の関節が、まだ細かった。
父が、椅子の上で身じろぎした。俺は父の方を見た。父は、棺の方を見ていた。蒼太の方も、俺の方も見ていなかった。けれど父の喉が、一度、上下した。借り物の黒いネクタイの結び目が、その動きでわずかに揺れた。
美里は、ノートの上にボールペンを置いて、目を上げた。蒼太の絵を見ていた。それから、絵の中の海の方を、わずかに首を傾げて見つめた。
「これ、蒼太ちゃんが描いたの?」
蒼太は頷いた。
「上手ね」
美里は、それだけ言って、また電卓に戻った。指先のキーの音は、さっきよりも少しだけ弱かった。
俺は、棺の脇に立ったまま、母の顔を見ていた。母は、もう何も食べられなくなる前の顔をしていた。施設の主治医が告げた一週間は、結局、五日に縮まった。五日のあいだに、俺は母にうどんを煮て持っていくこともできなかった。蒼太と二人で、海を見せに行くこともできなかった。代わりに、蒼太の絵が、母の枕元にあった。
俺は、ノートを内ポケットの上から、軽く押さえた。香典袋の名前と金額の控え。電卓の音。査定の話。家の処分。父の伏せたままの視線。それらの全部が、母の死とは別の輪郭で、俺の身体の中で、ひとつずつ重さを持ち始めていた。
蒼太の手が、まだ俺の手を握っていた。俺は、その小さな手の重みを、自分の掌でゆっくりと確かめた。指の節の固さ、爪の先の伸び、皮膚の薄さ。明日は朝のうちに切ってやろう、と昨夜思ったのに、俺は今朝、爪切りの場所を思い出すことすらできていなかった。
母は、最後の数ヶ月、ずっと俺の指のことばかりを言っていた。爪が伸びているとか、皮がむけているとか、ご飯はちゃんと食べているのかとか。俺はそのたびに、大丈夫、と短く答えた。母は、その短い返事を、いつも安堵したように受け取っていた。
蒼太の手の温度が、俺の掌の中で、母の頬の冷たさを少しずつ押し戻していった。
***
翌朝、出棺の時刻が来た。
霊柩車に棺を乗せ終えた葬儀社の男が、家族用の車のドアを開けた。父は助手席に座った。後部座席に、美里と俺と蒼太が並んだ。蒼太は窓側だった。膝の上に、海の絵を置いていた。
車が動き出した。火葬場までは三十分の距離だと、葬儀社の男が言っていた。窓の外で、街路樹の枝が灰色の朝の光の中を流れていった。父は前を見ていた。美里はスマホを取り出して、何かのメッセージを打ち始めていた。
蒼太の指が、絵の上を、ゆっくりと這っていた。防波堤の石のひとつ、海の上の二つの島影、麦わら帽子をかぶった俺の輪郭。蒼太の指の腹が、その上を撫でていた。
蒼太は指で島影をなぞったあと、ふっと、その手を絵の上で止めた。
「おとうさん」
囁くような声だった。
「ここ、いつ、行く?」
俺は答えなかった。答えが、口の中で言葉になる前に、車が信号で止まった。前を見ていた父の肩が、わずかに動いたのが、後部座席から見えた。