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蒼太の描いた海

第1話 第1話

第1話

第1話

冷蔵庫の扉を開けた瞬間、酸っぱい匂いが鼻の奥を刺した。

牛乳パックを掴む。指先に、かすかにぬるい温度が伝わった。賞味期限は四日前。先週、母の施設へ向かう前に買ったまま、口をつけることも忘れていた。流しに傾けると、白い液体は途中で塊になって、ぼたぼたと音を立てて落ちた。

蛇口を捻る。水道の音だけが、台所に響いた。

手の甲が震えていた。空のパックを潰そうとして、二度、力が抜けて取り落とした。三度目でようやく半分に折って、ゴミ袋の口を縛った。台所の蛍光灯が一本、ジジ、と鳴る。換えなければいけない。けれど替えの電球がもう家にないことを思い出して、俺はその場にしゃがみこんだ。

四十二歳。会社員だった頃の名刺が、玄関の靴箱の上に一枚だけ残っている。営業二課課長、佐倉駿介。あれは、もう二年前の俺だ。

母が倒れたのが二年前の春で、その秋には施設に入った。介護休暇は三ヶ月で限界が来て、辞表を書いたとき、課長は俺の肩を軽く叩いただけだった。「戻ってこいよ」とは言わなかった。当然だ、と思った。戻る場所など、最初から用意されていない。

通帳を開く習慣を、俺はもう三ヶ月前にやめている。残高の数字を見ても、もう何も湧かなくなった。怒りも、焦りも、計画を立てようとする気力も。ただ、見ないというだけのことを、俺は習慣と呼んでいる。

***

奥の部屋から、紙を擦る音がした。

襖を細く開けると、蒼太がいた。座卓に肘をついて、スケッチブックに鉛筆を走らせている。八歳の背中は、こうして見ると思っていたよりずっと小さい。半年前に妻の美里が荷物をまとめて出ていった日から、蒼太は泣くことをやめて、絵だけを描き続けている。

座卓の上には、削りかすが小さな山になっていた。HBの鉛筆が三本、芯の長さを違えて並んでいる。蒼太はその中から一番尖ったものを選んで、紙の上に置く。手首の動かし方だけが、半年前よりずっと大人びていた。襖の隙間から差し込む台所の光が、蒼太のうなじを薄く照らしている。襟元の白いシャツは、洗濯のたびに少しずつ襟ぐりが伸びてしまっていた。

「ご飯、もうちょっと待って」

俺の声に、蒼太は振り向きもせず頷いた。鉛筆の先がページの上でかさかさと走る音。それだけが、この部屋の音のすべてだった。

冷凍庫に、安売りで買った冷凍うどんが二玉残っている。卵はもうない。ネギも切らした。かつおぶしの袋を振って、最後の一摘みを湯の中に落とした。

湯気が立ち上る。鍋の縁を持った左手の親指の腹に、いつのまにか古い火傷の痕が増えていた。覚えがない。母の食事を作っていた頃のものか、それとも、もっと最近のものか。痛みを感じた瞬間が思い出せないというのは、痛みに慣れたということなのかもしれない。あるいは、痛みを痛みだと数える余裕すらなくなっているのかもしれなかった。

「父さん」

呼ばれて顔を上げた。蒼太がスケッチブックを差し出している。

「これ」

俺はうどんの火を止めて、テーブルに座った。差し出された一枚を受け取る。鉛筆の濃淡だけで描かれた、男の顔。長い前髪の隙間から、目尻に皺を寄せて笑っている。

俺だった。

「上手いな」

口の中で、ぼそぼそと言った。蒼太は黙って俺の顔を見ていた。

俺は、こんなふうに笑ったことがあったか。

鏡を見るのは朝の歯磨きのときだけだ。電気剃刀の充電器も二週間前に壊れて、無精髭を伸ばしっぱなしにしている。蒼太の絵の中の俺は、目尻にちゃんと笑い皺があって、口角が上がっていて、首筋には日に焼けた痕すらあった。俺の知らない俺だ。

鉛筆の濃淡だけで刻まれたその皺は、ひとつひとつが俺自身の顔の上には今、存在しないものだった。けれど蒼太の手は、迷うことなくそれを引いていた。記憶にすら残っていない表情を、八歳の指がここまで具体的に描けるはずがない。だとすれば、蒼太の中には、俺の知らない俺が、確かに棲んでいるということになる。紙の表面を指の腹でなぞる。鉛筆の粉が、わずかに指先に移った。その粉の重みすら、俺には重たかった。

「いつの父さん」

訊いた。

「わかんない」

蒼太は短く答えて、また鉛筆を握り直した。

***

うどんを啜る音が、向かい合った二人の間で交互に鳴った。

蒼太のスケッチブックは、テーブルの端にめくれたまま置かれていた。風もないのに、ぱらりと一枚、紙が捲れる。蛍光灯の白い光の下で、俺の目は、その奥に挟まっていた一枚に止まった。

ボール紙のように厚いケント紙。鉛筆だけではない、色がついていた。

俺は箸を置いて、それをそっと引き抜いた。

海だった。

砂浜ではない、岩の多い、陽の差す浅い海。手前に石垣の防波堤があって、遠くに緑色の島影が二つ重なっている。空は淡い水色で、雲が一筋、長く尾を引いている。子どもの絵の筆致なのに、潮の匂いが立ちのぼってきそうだった。

防波堤の石は、ひとつひとつが微妙に違う灰色で塗り分けられていた。手前の岩には、たぶん牡蠣殻だろう、白い斑点まで丁寧に打たれている。空の水色には、薄く桃色が混ぜられていて、それが時刻を、たぶん午後の早い時間を告げていた。蒼太がこんなに細かく色を重ねた絵を、俺はこれまで一度も見たことがなかった。

色鉛筆の箱は、たしか去年の誕生日に、半額シールが貼られたまま俺が買い与えたものだった。十二色しか入っていない安物で、蒼太はその夜、礼も言わずに箱を抱え込んで眠った。あの十二色を、こんなにも丁寧に重ねていたのか。空の水色の上に淡く乗った桃色は、たぶん何度も塗り直したのだろう、紙の繊維がうっすら毛羽立っていて、光の角度を変えるとそこだけ別の質感を持っていた。

その手前に、三人いた。

母が、いた。施設に入る前の、まだ髪を染めていた頃の、笑っている母だった。母の隣に蒼太がいて、その向こう側に、俺がいた。麦わら帽子をかぶった俺だった。

俺はこの海を知らない。

母を連れて旅行など、一度もしたことがない。蒼太と二人きりの旅行も、近所の公園の先まで行ったことがない。岩の多い海、防波堤、二つの島影。どこにも、覚えがなかった。

「ここ、どこだ」

声が、思っていたよりかすれた。蒼太は箸を口の前で止めて、絵を覗き込んだ。

「行ったことない」

「……でも、描いたじゃないか」

「行ってみたかったの」

蒼太はそう言って、また箸を動かした。

行ってみたかった。

過去形だった。八歳の口から出た、たった一言の、過去形。

俺は絵をテーブルの上に置いて、両手を膝の上に揃えた。掌の汗で、ジーンズの膝に二つ、濡れた跡ができた。台所で湯が冷めていく音。冷蔵庫が、こと、と低く唸る音。

その音のひとつひとつが、いつもの夜よりやけに大きく耳に届いた。蒼太の麦わら帽子の鍔の影が、絵の中で母の頬に薄くかかっている。母は笑っていた。歯を見せて、目を細めて、施設のベッドに横たわるあの母とは別人のように笑っていた。俺は息を吸った。鼻の奥に、まだ酸っぱい牛乳の匂いが残っていた。

蒼太が、おばあちゃんの絵を描いたのは初めてだった。

***

母は十日前から、ものを飲み込めなくなっている。

施設の主治医に呼ばれたのが昨日だ。「あと一週間か、十日でしょう」。淡々とした声に、俺は淡々と頷いた。淡々と頷くしかなかった。妹の美里に電話したら、「お兄ちゃんに任せていいよね、私、子どもの行事があって」と言われた。父はもう二年も母を見舞っていない。

帰り道、駅前のスーパーで、賞味期限の近い牛乳を半額で買った。ポイントが二十円ぶん、財布の中で増えた。

蒼太が口を開いた。

「父さん、おばあちゃんに見せに行こう」

「絵を?」

「うん。一緒に行ったことにしてあげよう」

俺は何も言えなかった。蒼太は箸を置いて、絵をそっと自分の方に引き寄せた。指先で、海の上を、二つの島影のあいだを、撫でた。爪の先がほんの少しだけ伸びている。明日、切ってやらないといけない。そんなことが、ふいに頭をよぎった。

「ここ、行こう」

座卓の蛍光灯が、また一度、ジ、と鳴った。

立ち上がる。膝の関節が、乾いた音を立てた。電球を換えるよりも先に、俺はスマホを取って、施設の番号を呼び出した。指先がまだ少し震えていた。けれどそれは、さっきまでの震えとは、もう違っていた。

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