Novelis
← 目次

蒼太の描いた海

第3話 第3話

第3話

第3話

火葬場の駐車場に車が滑り込んだとき、空はようやく白みはじめたところだった。

砂利を踏むタイヤの音が、後部座席まで低く響いた。俺は窓の外に目をやった。建物は灰色のコンクリートで、入り口の脇に植えられた山茶花が、季節外れの蕾をひとつだけつけていた。葬儀社の男が先に降りて、後部のドアを開けた。父が助手席から降りるのに、思っていたより時間がかかった。借り物のネクタイの結び目を、父は両手で一度直してから、ようやく一歩を踏み出した。

蒼太は、絵を膝の上から自分の胸に抱き直した。ジャンパーの袖の先で、絵の角がわずかに皺になっていた。俺はそれを直してやろうとして、やめた。蒼太の手の力で、絵の縁が指の形に少しだけ凹んでいた。

控室は、カーペットが薄い茶色で、長椅子が二脚向かい合っていた。誰かが置き忘れていったのか、給湯ポットの脇に、緑茶のティーバッグが袋から半分はみ出ていた。美里は荷物を椅子の端に置くと、すぐにスマホを取り出した。指の動きで、メッセージを返しているのが分かった。

「お焼香の時間まで、まだ少しあります」

葬儀社の男が言った。父は長椅子の端に座り、両手を膝の上で組んだ。爪のあいだに、薄い土の色が残っていた。庭いじりの土ではない。たぶん、母の墓所を見にいったときのものだ。父は二週間前、一度だけ俺に断って、ひとりで霊園まで足を運んだらしかった。

蒼太は、長椅子に座らずに、控室の窓辺に立っていた。曇りガラスの向こうで、煙突が薄い影を作っていた。蒼太は絵を胸に抱いたまま、その影をじっと見ていた。俺は蒼太の隣に立って、同じ方向を見た。煙突の先には、まだ何も上っていなかった。

「そろそろ、お時間です」

職員の女性の声が、控室の入り口から届いた。

***

炉の前まで、母を運ぶのは葬儀社の男たちだった。

俺たちは、その後ろを歩いた。父、俺、蒼太、美里の順だった。廊下のリノリウムは、磨かれているのに古い擦り傷が一面に走っていて、靴底が踏むたびに、低い、くぐもった音がした。蒼太は俺のジャケットの裾を、指の先でつまんでいた。布越しに、その指の力が伝わってきた。離さない、と決めているような、固い力だった。

炉の扉の前で、葬儀社の男が手を止めた。最後の対面の時間です、と低く告げた。父が一歩前に出た。棺の窓越しに、母の顔があった。父はそこに、何も置かなかった。手を合わせもしなかった。ただ、棺の縁に右の掌をひとつ、置いた。指の腹が、白い木の表面で一度すべって、それから離れた。

俺の番だった。母の額に、まだ薄く化粧の白粉が残っていた。施設で母の髪を整えてくれていた介護士の名前を、俺は思い出そうとした。思い出せなかった。週に一度は顔を合わせていたはずの女性の名前が、ひとつも出てこなかった。俺は棺の縁に手を置いた。指先がわずかに震えた。震えを止めるために、もう一度、力を入れて押した。

蒼太は、爪先立ちにもならなかった。葬儀社の男が察して、踏み台を運んできた。蒼太は踏み台に上がって、棺の窓を覗き込んだ。海の絵を、両手で、母の顔の脇にもう一度、そっと差し入れた。ジャンパーの袖がめくれて、細い手首が見えた。

「いってらっしゃい」

蒼太が言った。

俺は息を止めた。いってきます、ではなかった。蒼太の口は、母の方に向かって、いってらっしゃい、と動いた。母は何も応えなかった。応えるはずがなかった。けれど蒼太は、応えを待つように、棺の窓の前で、しばらく動かなかった。

炉の扉が、ゆっくりと閉じた。鋼の扉の合わさる音が、廊下の天井で長く尾を引いた。

待合室に通された。窓の外に、煙突がよく見える位置だった。父は窓に背を向ける椅子を選んで座った。美里は、煙突の見える側の椅子に座って、スマホをまた取り出した。俺は、蒼太と並んで、窓のすぐそばに立った。

煙突の先に、何かが上りはじめた。

最初は、ほとんど見えないほど薄い、空気のゆらぎのようなものだった。それがやがて、白い細い帯になって、空に向かって立ち上っていった。風がほとんどなくて、煙はまっすぐに、垂直に伸びていった。

蒼太が、絵を胸からおろした。両手で広げて、窓ガラスの下の桟に、絵の縁を立てかけた。そうして、煙突と絵を、交互に見ていた。

「おとうさん」

蒼太が、俺の方を見上げた。

「もう、泣いていいよ」

***

俺は、すぐには、その言葉を理解できなかった。

蒼太の声は、囁きでもなく、慰めでもなく、ただ事実を伝える声に近かった。俺は窓の外の煙を見続けた。煙は途中で、薄い灰色に変わって、それから空気の中にほどけていった。

頬の上で、何かが動いた感覚があった。指の腹で触れてみた。濡れていなかった。涙ではなかった。けれど確かに、何かが、俺の顔の皮膚の表面を、内側から押していた。

俺の中で、何かが裂けた。

それは悲しみではなかった。母を喪ったことの悲しみは、もう二年前から少しずつ来ていて、今朝の電話で確定しただけのことだった。怒りでもなかった。誰に対する怒りなのか、輪郭がはっきりしなかった。それは、もっと冷たい、底のない衝動だった。胸骨の裏側から、喉の奥まで、細い針金のようなものが一本、まっすぐに立ち上がる感覚があった。

俺は、控室の方を、ゆっくりと振り返った。

父は、窓に背を向けた椅子で、両手を膝の上で組んだまま、目を閉じていた。眠っているのではなかった。父の喉が、一定の間隔で、上下していた。借り物のネクタイの結び目が、その動きに合わせて、わずかに揺れていた。父は、煙を見ようとしなかった。一度も、振り返らなかった。

美里は、スマホの画面に親指を滑らせていた。画面の光が、美里の頬を青白く照らしていた。スカートの仕付け糸の白いひと目は、まだほどかれていなかった。美里の隣の椅子の上に、香典の控えのノートが置かれていた。表紙に、几帳面な字で、母の名前と日付が書かれていた。

俺はその二人を、蒼太の隣で、しばらく見ていた。見ているうちに、胸の中の針金が、少しずつ、別のものに変わっていった。

帰ろう、と思った。

帰って、通帳を開こう。三ヶ月前にやめた習慣の続きをやろう。残った金額の数字を、ちゃんと見よう。それから、家の査定の話を、断ろう。父にも、美里にも、誰にも相談せずに、断ろう。

蒼太のもう片方の手が、絵の上をゆっくりと這いはじめた。指の腹が、防波堤の石のひとつをなぞり、海の上の二つの島影をなぞって、それから、麦わら帽子をかぶった俺の輪郭の上で、止まった。蒼太の爪は、まだ伸びたままだった。今朝も、切ってやれていなかった。

「おとうさん」

蒼太は、煙突の方を見たまま、もう一度、囁いた。

「ここ、行こう」

絵の上の、二つの島影。蒼太の指の先が、その島と島のあいだの、薄い水色の海を、そっと撫でた。色鉛筆の桃色が薄く重なった、午後の早い時間の、俺の知らない海だった。

俺は窓ガラスに手をついた。掌の下で、ガラスは思っていたよりも冷たかった。煙はもう、ほとんど見えなくなっていた。けれど、俺の中で立ち上がった針金のようなものは、まだ、まっすぐに残っていた。

***

骨を拾うとき、蒼太は俺の手を握っていた。

長い箸を、二人で一本ずつ持って、母の喉仏の小さな骨を、白い壺の中に落とした。蒼太の箸を持つ手は震えていなかった。俺の手の方が、わずかに震えていた。蒼太は、その震えを、握った手の力で、静かに止めようとしてくれていた。

控室に戻る廊下で、父が、俺の方を一度だけ見た。何か言いたそうに、口が薄く開いた。けれど、言葉は出てこなかった。父はまた、視線をリノリウムの床に落とした。

美里が、ノートを抱えて、葬儀社の男と何かを相談していた。お返しの目録の話だった。美里の指の先で、ピンクのマニキュアが、控室の照明の下で薄く光っていた。

俺は、蒼太の手を握り直した。蒼太のもう片方の手は、絵を抱えていた。今朝、車の中で蒼太が指でなぞった、二つの島影の絵だった。

帰ったら、まず、爪を切ってやろう、と俺は思った。それから、通帳を開こう。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!