第2話
第2話
朝の教室は、チョークの粉と、誰かの髪から落ちる甘い柔軟剤の匂いが、しばらく混ざり合ったまま沈んでいた。
俺は鞄の持ち手を握ったまま、黒板の前で足を止めた。五月の連休が明けたばかりで、窓の外のイチョウはもう葉を広げ切っている。陽の当たる机の列で、男子が身を反らして笑っている。女子のグループが、携帯の画面を寄せ合って「これ、撮ったやつ送って」と囁き合う。
黒板の右端。白いチョークで囲まれた、文化祭実行委員の割り振り表。
軽音ステージ班、体育館装飾班、模擬店班、来場者誘導班。太字の班名の下に、すでに誰かが鉛筆で小さく自分の名前を書き込んでいる。人気のところから順に、あっという間に埋まっていく。
その一番下。
「屋上企画班」
他の班名より、半文字分くらい右にずれて書かれていた。担任が書いたのが面倒だったのか、チョークの筆圧が薄い。下の余白に、まだ誰の名前も入っていない。
百七十二センチのひょろ長い制服の影が、俺の足元で黒板に届かないまま途切れている。俺は指でネクタイの結び目をいつもより強く締め直した。首の内側に布の縁が食い込む。息を一度、浅く吸う。
屋上企画班、という文字を、俺は意味もなく二回読んだ。
読み終わった瞬間、鞄の底で、木刀袋の先端が、ほんの少しだけ膝の裏に触れた。
一限目の前の短い学活で、希望調査用紙が配られた。上から紙の束が回ってきて、前の席の男子が肩越しに押し付けてくる。紙の角で、俺の机の端を小さく叩くように。
「佐久間、はい」
俺は黙って受け取った。紙の右上に名前欄、その下に、第一希望から第三希望まで書く欄が並んでいる。
クラスは、ずっとざわついていた。
「俺、軽音ステージ入るわ、澤田が呼んでんの」 「じゃあ私も、ステージ衣装で入ろっかな」 「模擬店はクラス全体で決めるんだっけ」 「そうそう、だから三希望にとりあえず書いとけばいい」
聞こえてくる会話の全部に、俺の名前は入っていない。入っていなくてよかった。入っていたら、きっと俺は耳だけ熱くなって、鉛筆を握り損ねる。
俺は机の上で、希望欄を三つとも、空白にした。
鉛筆の芯先が、紙の繊維の上で、ほんの一瞬、止まったまま震えたのが分かった。書かない、と決めることは、書くよりも、手首に力が要った。
理由を書く欄だけ、少しだけ迷って、鉛筆の先で一度だけ丸を描いた。丸はへこみだけ残って、線にはならなかった。
紙を回収する係は、隣の女子だった。彼女は俺の机まで来ると、俺の白紙をちらりと見て、何かを言いかけて、言わずに、紙を束の一番下に挟んだ。
その挟み方が、少しだけ、気遣いに似ていた。
紙の縁が束の角と合わさる、ぱ、という乾いた音がして、彼女は俺と目を合わせないまま、次の机へ歩いていった。俺の空白が、束の一番下で、誰の視線にも最初には触れない位置に隠されたということを、彼女は多分、分かっていて、分かっていないふりをしていた。
昼休み前、担任が割り振り結果を淡々と読み上げた。軽音ステージ班、体育館装飾班、模擬店班、来場者誘導班。名前を呼ばれるたびに、その班の席近くで小さな拍手と歓声が起きる。
最後に、少しだけ、担任は紙から目を離した。
「屋上企画班」
教室が、静かになった。
その静けさが、やけに、短かった。誰かが誰かの耳元で「なにそれ」と囁いた。別の誰かが「ぼっち集めか」と小さく笑った。笑いは広がらなかったけれど、ぴ、という細い音で、俺の耳の奥に残った。
「佐久間、大岩、倉井、桐谷」
担任が四つ、名前を読み上げた。
桐谷。
三文字目で、俺の肩が、一度だけ、短く跳ねた。
隣の列、窓から二番目の席の女子が、静かに手帳を閉じるのが視界の端に映った。セーラーの襟。短い前髪。昨日、非常階段の踊り場で楽譜を拾ってくれた、あの横顔。
彼女は顔を上げず、鉛筆の先でノートの上に何かを書き足していた。その横顔は、ぼっち集め、という笑い声を、聞いていないことにしていた。
放課後、空き教室に集まるように、と担任は言い残して教室を出ていった。
昼休みの階段を、俺はいつもの踊り場まで上らなかった。弁当を膝で抱えたまま、二階の廊下の端で食べた。唐揚げの衣が、朝よりもっと冷たくなっている気がした。
チャイムが鳴って、放課後になった。
三年生の使っていない空き教室は、廊下の一番奥、階段の横だった。扉のガラスには古いテープの跡が二本残っていて、誰かが貼り紙を剥がしたあとの粘着が、薄く黄ばんでいた。俺は扉の引手に指をかけた時、その粘着の残り香のような匂いを、先に吸い込んだ。木と、古いワックスと、しばらく誰も窓を開けていない空気の、澱みの匂いだった。黒板の隅に小さく「文化祭準備」と白墨で書き足されていて、誰かが先に入ってきた跡に、机が二つだけ動かされている。床の埃の上に、椅子を引きずった跡が二本、はっきりと残っていた。窓際の一本は深くて、途中で止まっている。黒板寄りの一本は、迷ったみたいに斜めに折れていた。
俺が最後だった。
扉を閉めると、廊下の話し声が、一枚の板の向こうで急に遠くなった。蛍光灯は片側しか点いておらず、窓からの光とぶつかって、部屋の中央に、薄い境界線のような影が落ちている。
三つの視線が、俺の方に動いた。
窓際の椅子に座っているのは、身長百八十はありそうな男子だった。制服のボタンを一つ外していて、肩のラインがシャツを押し上げている。手首に黒のヘアゴムを巻いている。俺と目が合うと、口の端を軽く上げた。
「お、四人目」 「……佐久間、です」 「大岩。大岩隼人。よろしく、佐久間」
声が低くて、腹の底から出ているのが分かる声だった。喉で鳴らしている俺の声とは、出どころの深さが違っていた。
手を差し出された。俺は一瞬だけ迷ってから、握った。指の皮が、思っていたより硬かった。部活で何かの道具を握り続けた、そういう硬さだった。たぶん、野球かバスケか、あるいはそういう類の、球を掴むタイプの硬さ。木刀や竹刀を握り続ける俺の掌の、擦れて薄くなる硬さとは、出来上がり方が違っていた。俺は、自分の指の皮のできかたを、握っている時間の長さで読み取られたくなかった。
その隣、黒板寄りの席に、小さな肩を丸めて座っている女子がいた。細いフレームの眼鏡、襟元まで留めた制服。膝の上に大きめのスケッチブックを置いていて、その端に鉛筆が挟んである。
「倉井、結。よろしく、おねがいします」
語尾の「す」が、息の残量を測るみたいに、短く畳まれていた。
句読点を区切るみたいに、彼女は言った。声は小さいのに、一音ずつが、妙にくっきりしていた。
彼女はスケッチブックの端を、両手の親指で、左右対称に押さえていた。ページの隅が、少しだけ波打っている。開くのがこわいのか、閉じたまま安心しているのか、俺には、まだ分からなかった。
そして、窓から二番目の席。
桐谷美羽は、俺を見て、机の端に両手を置いたまま、ほんの少しだけ、頭を下げた。
会釈。
それだけだった。
けれど、その会釈の角度が、廊下ですれ違う他人のそれよりも、一度だけ深かった。俺は、それに気づいてしまった。深さ、というよりは、止まる時間の長さだった。顎が下を向いたまま、半拍、留まる。その半拍の中で、俺と彼女だけが共有しているはずの、昨日の非常階段の踊り場の、ひんやりとしたコンクリートの匂いが、頭の片隅でふわりと立ち上がった。気づいた瞬間、鞄の底の楽譜の端の、ぐしゃぐしゃになった皺が、背中越しに熱を持った気がした。
「一応、司会とかやっとくわ、俺」
大岩が椅子の背もたれを軋ませて言った。倉井が小さく頷く。桐谷が、視線だけで俺を見た。俺は、目を伏せて、机の木目を見た。
「で、屋上企画班って、何するやつ?」
大岩が笑い混じりに言った。笑いの中に、少しだけ、突き放したような響きが混ざっていた。笑っているのに、返事を待っている、そういう声だった。
答える者は、いなかった。
倉井はスケッチブックの端を、また左右対称に押さえ直した。桐谷は机の木目を、目だけで、縦になぞっている。俺は、足の裏で、上履きのゴムの縁を、床に押し付けた。
黒板には、さっき担任が書き殴った「テーマ未定」の四文字だけが残っている。「テ」の一画目が、途中で掠れていて、チョークの粉が黒板の下の溝に、白く溜まっている。窓から入ってくる五月の風が、カーテンの端を持ち上げて、また落とした。誰も、動かない。
俺は、黙ったまま、鞄の底に手を入れた。
指先が、木刀袋の布の縫い目を、縦に一度だけ、なぞった。
それから、楽譜の端の、昨日彼女の指が触れた場所を、親指の腹で、ほんのわずかに、押した。
誰にも、見られない動作のはずだった。
顔を上げた時、桐谷美羽の視線が、俺の鞄の口元を、静かに、ほんの一瞬だけ、見ていた。
「……来週の火曜、またここ集合でいい?」
その沈黙を割って、最初に声を出したのは、彼女だった。
大岩が「うっす」と返し、倉井が頷いた。俺は、声が出なかった。代わりに、椅子を引いて、立ち上がった。椅子の脚が、床の古い傷の上で、ギ、と短く鳴った。
鞄の持ち手を握り直した時、鞄の底の木刀が、太腿の骨に、昨日よりも、ほんの少しだけ、重く当たった。