第1話
第1話
机の角に、肘の骨が当たる。その鈍い痛みが、今日の出席確認だった。
四月の始業式、二年一組の教室。俺は窓際最後尾、名簿の一番下に埋められた佐久間蒼という名前のまま、文庫本の背に顔を寄せている。ページの古紙の匂いが鼻先にある。カバーは外した。タイトルを誰にも読まれたくない。
三年生の教室から流れてくる校歌斉唱の音が、換気扇越しに低く揺れている。俺のクラスでは、同じ中学出身の女子グループが声を潜めて笑っている。誰と誰が付き合った、別れた、髪を染めた、染めなかった。そういう話。聞こえてしまうだけで、聞いているわけではない。
「あ、佐久間って、二組じゃなかったっけ」
斜め前の男子がこっちを見ずに言った。俺の名前を覚えている奴が一人でもいる。それだけで少し息が詰まる。
「一組」
俺は短く返した。視線は文庫本のまま。男子は「ふうん」と鼻を鳴らして、前の席の誰かと野球部の話を始めた。それで終わりだ。それでよかった。
百七十二センチの痩せぎすで、顔のパーツはどれも中途半端な位置に収まっている。鏡の前に立つたびに思う。透明人間を名乗るには、ちょうどいい寸法だと。黒いネクタイの結び目だけはきつめに締めている。首が絞まるくらいの方が、息の仕方を忘れないで済む。
ぼっちは、俺の制服だ。中学二年の春から、ずっとそう決めている。
担任が入ってきても、俺は本を閉じなかった。名簿の読み上げが始まって、自分の番で一度だけ小さく返事をする。はい、の二音だけ、喉の奥から絞った。それで教室の誰も俺の方を見なかった。見ないでくれてよかった。見られたら、多分、また、あの日のことを思い出す。
中二の、体育館裏の給水栓。あの水の鉄臭い味を、俺は四年経ってもまだ舌の奥に残している。
放課後、掃除サボりで水を飲んでいた男子三人が、俺のノートを拾い上げた。落としたのは俺だった。英語の小テストのプリントに挟んだ五線譜。裏の余白に、鉛筆で、好きな曲のタイトルと、一小節だけ音符を書いていた。
「これ、佐久間が書いたの?」一人が笑った。「うわ、まじか、何これ」もう一人が笑った。三人目は笑わなかった。一番仲が良いと、俺が勝手に思っていた奴だった。彼は俺と目を合わせたまま、ゆっくりとノートを、縦に、破った。
紙が裂ける音は、想像よりもずっと低かった。ぶつ、という繊維が切れる音の後に、ぴ、という高い残響。それが、俺の耳の奥で今も途切れない。三人の笑い声は覚えていない。ただ、蛇口から漏れていた水滴が、コンクリートに落ちる音だけが、やけに鮮明に残っている。
それだけの話だ。殴られたわけでも、物を盗られたわけでもない。ただ一枚の紙が破れた音が、俺の中でだけ、今も続いている。――あれから、誰にも、俺の音は見せていない。
チャイムが鳴って、担任の挨拶が終わった。昼休み。
俺は鞄を持って、二階の西階段をそのまま上る。三階、四階、屋上へと続く非常階段の踊り場。屋上の扉は鍵が閉まっているから外には出られない。でも、その扉の前のコンクリート段が、俺の席だ。三年間、誰とも場所を取り合ったことがない。
座ると、太腿の裏からコンクリートのひんやりが上がってくる。鞄を膝に置く。
母が朝、冷蔵庫の残り物で詰めた弁当。唐揚げは冷めている。衣の油の匂いが、春の風に混じって薄くなっていく。割り箸を割る音が、階段の吹き抜けに妙に大きく響いた。
「いただきます」
誰にも聞こえない声で、俺は呟いた。
唐揚げを二つ食べたところで、鞄の内ポケットから、紙の端が覗いているのに気づいた。
楽譜だ。
去年の春に、近所の公民館の廃品コーナーで拾った中古の五線譜ノート。表紙は茶色く変色して、最初のページには知らない誰かの名前が消えかけている。その余白と裏面に、俺は一年かけて、一曲だけ、自分の音を書き込んでいた。
弾く場所はない。家には母と俺の二人だけで、ピアノどころか、鍵盤ハーモニカも、二千円のキーボードもない。だから俺は、指だけで弾く。机の上で、膝の上で、この非常階段のコンクリートの上で。音は鳴らない。でも、俺の指先はもう、全部の音を覚えている。
それと、木刀袋。鞄の底に縦に差し込んである、母の古い帯で縫った細長い袋。中身は、三年前に死んだ祖父の形見の、古い樫の木刀。
誰にも、見せたことがない。
春風が、不意に強く吹いた。
階段の手すりの隙間から、下から上へと吹き上げてくる風。花粉と、誰かの柔軟剤の匂いが混じっている。その柔軟剤の匂いは、母が使うものとは違う、もっと甘くて、どこか遠い教室の匂いだった。
楽譜の端が、ぱさり、とめくれた。
一枚、二枚。
俺が慌てて手で押さえるより先に、三枚目が、鞄からふわりと飛び出して、下の踊り場に、滑り落ちた。
「あ」
声が、出てしまった。
立ち上がろうとした、その瞬間。
階段の下から、誰かが上ってくる足音が聞こえた。
ローファーの、軽い音。
俺は固まった。箸を握った指先が、急に冷たくなる。心臓の音が、耳の裏でどくどく鳴っているのが分かる。今すぐ駆け下りて拾えば間に合うかもしれない。でも、身体が動かない。動けば、相手に見られる。見られれば、また、あの日の紙の音が鳴る。
踊り場の楽譜。俺の音が書かれた、一枚。
その紙を、上ってきた人影が、屈んで拾った。
俺からは、頭のつむじと、肩にかかったセーラーの襟しか見えない。短い前髪の下で、彼女の目が、俺の楽譜をじっと見ている気配だけが伝わってくる。
五秒か、十秒か。
やけに長かった。
その数秒の間に、俺は、彼女が楽譜を破る動作を、頭の中で何度も再生した。縦に、ゆっくりと、ぶつ、ぴ、と。でも、彼女の指は動かなかった。ただ、紙の上をなぞるように、指先が一度だけ、小さく揺れた気がした。
彼女は顔を上げて、踊り場の上の俺を見た。
知らない女子だった。リボンの色は、二年生の赤。
目が合った瞬間、俺の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
「……これ、あなたの?」
彼女が、楽譜を軽く持ち上げて言った。
俺は答えられなかった。喉の奥で、息が詰まった。弁当の蓋を閉める手が、中途半端なまま止まっている。
彼女はほんの少しだけ首を傾げて、それから、楽譜を両手で丁寧に揃えて、階段を上ってきた。
一段、一段、ローファーのゴム底がコンクリートに触れる音。その間隔が、俺の心拍とほとんど同じ速さで、重なった。
俺の目の前に立って、彼女は、その一枚を差し出した。
「落ちてたよ」
そう言って、彼女は笑った。目の端が、ほんの少しだけ下がる笑い方だった。口角よりも先に、目が笑う人を、俺は初めて見た気がした。
俺は楽譜を受け取った。指先が、彼女の指先に一瞬だけ触れた。彼女の指は、俺の指より一度だけ、冷たかった。
「……ありがと」
やっと、それだけ言えた。
自分の声が、四年分錆びついていることに、言ってから気づいた。
彼女は何かを言いかけて、口を閉じた。楽譜の上の音符を、もう一度だけ見たように、俺には見えた。その視線の動きは、音を読める人間のそれだった。少なくとも俺には、そう感じられた。
「じゃあ」
彼女は小さく頭を下げて、階段を下りていった。ローファーの音が、踊り場の角を曲がって、消えた。
俺は、楽譜を胸の前で握っていた。握る力が強すぎて、紙の端に、指の形の皺が残った。
一年かけて書いた、自分の音。
さっきの数秒で、知らない誰かに、見られた。
それが誰なのかすら、俺は知らない。
鞄の底の木刀袋が、膝の重みで少しずれた。樫の木の硬さが、太腿の骨に当たった。その硬さだけが、やけに、現実だった。
その夜、家に帰ってから、俺はクラスの名簿を開いた。二年一組の女子の名前を、順番に上から指でなぞっていった。
途中で、指が止まった。
桐谷美羽。
会ったこともない名前のはずだった。けれど、あの階段のローファーの音が、なぜかその三文字の上で、もう一度だけ鳴った気がした。
翌朝、黒板の端に、文化祭実行委員の割り振り表が貼り出されるらしい。俺はもちろん、何の希望も出していなかった。
教室に向かう階段の踊り場で、俺はもう一度、鞄の中の楽譜に、指先で触れた。
春風の匂いが、昨日とほんの少し、違って感じた。