Novelis
← 目次

屋上のピアニスト、ぼっちを脱ぐ

第3話 第3話

第3話

第3話

火曜の放課後、空き教室の引手は前回より少しだけ重く感じた。指の腹に古い粘着の名残が貼り付いて、爪の間に、剥がしきれなかった糊の感触が薄く残った。

中に入ると、黒板の隅の「文化祭準備」の文字は、誰も書き足していなかった。蛍光灯は今日も片側だけで、窓からの五月の光と境界線を作っている。その境界の上で、空気中の埃が、片側だけ白く浮いて、片側では、見えなくなって消えた。

倉井結が、すでに窓際の机にいた。スケッチブックを開かないまま、その上に右手の親指を置いて、表紙の角の擦れた毛羽立ちを、一定のリズムで撫でている。一秒に一回。それだけが、この教室の時計だった。

「……どうも」

俺は、声を出した。出した、というより、口の中で潰れた音を、無理やり外に押し出した、に近かった。

倉井は顔を上げて、二度、瞬きをして、「どうも」と返した。語尾の「も」が、息と区別できない高さで鳴った。

椅子を引く音だけが、今日も大きい。床の古い傷の上で、ギ、と短い摩擦が走る。俺は前回と同じ位置に座った。同じ位置に座る、という選択が、なぜか、自分の意思のように感じられなかった。先週の俺が、今日の俺の場所を、もう決めてしまっていた。

桐谷美羽が、扉のガラスに、影を作った。

引手を引く前に、彼女は一度だけ、廊下の左右を見た。ガラス越しに、その短い前髪が、首の動きに合わせて揺れる。それから、扉が開いた。

「お待たせ」

入ってきた彼女の声は、教室の埃の上を、まっすぐ二メートルだけ進んで、止まった。鞄を机の上に置く。手帳を出す。鉛筆を出す。三つの動作の間に、彼女は俺と、倉井と、それから誰もいない四つ目の机を、順番に見た。

四つ目の机は、空いていた。

「……大岩は?」 「部活、らしい」

桐谷が、鉛筆の頭を回しながら言った。

「テスト前は早く出るって、朝、黒板に書いてあった。LINE、知らないし」

LINE、知らないし。その一言で、俺は少しだけ、肩の力を抜けた気がした。彼女も、知らない側だった。肩の力を抜けた、と気づいた瞬間、自分が今までどれだけ力んでいたのかが、遅れて分かった。両肩の付け根が、内側から、じん、と鈍く痺れた。

倉井がスケッチブックを、ようやく開いた。何も描かれていない真っ白なページが、蛍光灯の片側の光を、紙面の右半分だけ、白く照り返した。反射した光は、倉井の顎の下に、薄い三日月の影を作った。その影の中で、倉井の喉仏が、一度、上下した。

「テーマ、考えました」

倉井が、息を吸って、言った。

桐谷が顔を上げる。俺も、顔を上げる。

倉井は、左手の親指の爪を、右手の親指の腹で、一度だけ押した。それから、また口を開いた。

「……すみません、まだ、決まってません」

そこから、また、沈黙だった。

桐谷が、口の端だけで、ほんの少し笑った。怒っているのでも、呆れているのでもない、自分にも何かが言えないことを、了承する笑いだった。その笑いは、三秒ほどで、ほどけるように消えた。消えたあとの桐谷の口元は、真っ直ぐな線に戻って、その線の端に、言葉になりそこねた何かが、まだ少しだけ、引っかかっているように見えた。

俺たちは、それから三十分、ほとんど一言も交わさなかった。倉井は白いページに、四角を一つ、鉛筆で薄く描いた。描き終えてから、四角の中に、小さい丸を一つ、置いた。置いて、消しゴムで消した。消した跡の灰色が、紙の繊維に、粉として残った。桐谷は手帳に、屋上、と書いて、その下に「?」だけ三つ並べた。三つの「?」は、同じ大きさで並んでいるように見えて、よく見ると、三つ目だけが、少しだけ小さかった。俺は、机の木目の節を、目で数えた。十七個まで数えて、忘れた。忘れて、一から数え直して、また、十七の手前で、分からなくなった。

その三十分のあいだ、空き教室の窓の外で、吹奏楽部のチューニングの音が、途切れ途切れに聞こえた。Bの音が、一度だけ、半音下がって、また戻った。それを、たぶん三人とも、聞いていた。聞いていたけれど、誰も、何も言わなかった。

下校のチャイムが、思ったより早く鳴った。

「来週、また」

桐谷が言った。それだけだった。倉井が頷いた。俺も、頷いた。三人は、別々の速度で立ち上がった。

廊下に出ると、桐谷の鞄が、彼女の歩幅に合わせて、左右に揺れた。俺の前を、彼女は歩いた。倉井は反対側の階段に消えた。

階段の手前で、桐谷は一度だけ、振り返った。

「佐久間くん」 「はい」 「……じゃあ」

それだけ言って、彼女は階段を下りていった。ローファーの音が、踊り場の角で、消えた。

俺は、その場に立っていた。

「じゃあ」の後ろに、彼女が言わなかった音節が、何文字か、廊下の天井の、点いていない蛍光灯の下に、漂っていた気がした。三文字か、四文字か、それ以上かもしれない。言わなかった音節は、言われた音節より、いつも、重かった。

階段を、半分まで下りた。

二階と一階の間の踊り場で、俺は鞄を、足元の、古い消火栓の鉄箱の上に置いた。鉄板が、鞄の重みで、ぼ、と低い音を立てた。

ファスナーを開けた。

中の一番底。母の古い帯で縫った、細長い袋。樫の木刀の、先端の丸みが、布の上から指の腹に伝わる。袋の縫い目は、母の指の運びそのままに、糸の引き具合が、二目に一度、わずかに強い。その強い場所を、俺は順番に、三つだけ確かめた。三つ目の強い場所の下で、俺の指先は、一瞬、止まった。母が、この目を縫うとき、何を考えていたのか、俺は知らない。知らないまま、俺は、母の手の力を、指の腹で、借りている。

その隣に、楽譜。

茶色く変色した表紙。先週、桐谷の指が触れた、右下の端の、皺。皺は、もう紙の繊維になじんでしまって、伸ばしても元に戻らない位置にあった。俺は親指の腹で、その皺の上を、一度だけ、なぞった。

なぜ確かめているのか、自分でも分からなかった。

ただ、空き教室で何も言えなかった三十分の間、ずっと、この二つが、鞄の底で、俺の太腿の骨に当たり続けていた。当たり続けているもののことを、当たり続けている間は、考えないようにしていた。考えなかった分が、今、踊り場のコンクリートの匂いと一緒に、指先に集まっている。

そのとき。

階下から、声がした。

最初は、何かが落ちた音だった。金属の、平たい板が、床のリノリウムに叩きつけられる、ばん、という音。その音は、階段の吹き抜けを、下から上へ、一度、跳ねた。跳ねたあとで、俺の踵の裏に、遅れて届いた。続いて、低い男の声。

「だから、何回言わせんだよ」

声のあとに、別の声が重なった。

「ちが、違うんです、すみません、すみません」

謝っているのは、女子の声だった。語尾が、震えていた。震えながら、言葉になりきらないまま、もう一度「すみません」と繰り返した。一度目より、二度目の「す」が、半音、高かった。

軽音部だ、と分かった。一階の音楽準備室は、この階段の真下だった。先週、男子の誰かが「軽音、機材揃ったらしい」と廊下で言っていたのを、聞いていた。

俺の、足が、止まった。

止まった、というのは正確じゃない。動けなくなった、の方が近かった。膝の裏に、急に、別の重みが乗った。鞄の底の樫の木の重みと、太腿に当たる楽譜の紙の薄さが、同時に、内側から肌を押した。押した力は、外へ出ていく場所を探して、結局、どこにも出ていけずに、俺の膝の裏で、溜まった。

ばん、と、もう一度、何かが床に倒される音。

「弁償、できんのかよ。お前らみたいなのが、こういうの触んなって」

男の声は、二人ぶん、聞こえた。一つは、苛立ちで掠れている。もう一つは、その後ろで、低く、相槌のように笑っている。笑いは、声になる手前の、鼻から抜ける息だった。その息の抜け方に、俺は覚えがあった。中二の、あの体育館裏で、俺の後ろに立っていた誰かの、息の抜き方と、同じだった。

「ご、ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」

女子の声が、半泣きになっていた。半泣きの中に、別の女子の、息を呑む音が、薄く混じっていた。たぶん、二人。立っているのが、二人。

俺は、踊り場の手すりに、左手をかけた。

冷たい鉄が、掌の汗を、一瞬で吸った。

中二の、体育館裏の給水栓の、鉄の蛇口の冷たさを、掌の皮膚が、勝手に思い出した。あのとき、俺の指は、ノートの端を握り損ねた。握り損ねたまま、ぶつ、ぴ、という音を、ただ、聞いていた。

階下の、女子の声が、もう一度震えた。

俺は、鞄のファスナーを、閉めなかった。

開いたままの口元から、樫の木の先端が、半分だけ、覗いていた。

右足の踵が、コンクリートの段の縁から、半歩、前に出た。

出た、と気づいたのは、出てしまったあとだった。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!