第2話
第2話
五時間目の現代文が、妙に遠くで聞こえていた。
内ポケットのノートの角が、息を吸うたびに肋骨の下を突いてくる。鉛筆で削られた表紙の縁がシャツの繊維に引っかかって、浅く腕を動かすだけで、紙と布のこすれる音が、自分の耳の中だけでざらざらと鳴った。誰にも見えない、誰にも聞こえない音が、なぜか、教室の蛍光灯の白さよりもはっきりと、そこに在った。
前の席の男子が教科書を読み上げていた。文字を追っているふりをしながら、俺は机の下で右手の人差し指を、親指の腹に強く押しつけていた。爪が食い込んで、半月形の跡がつく。これ以上押すと出血するな、という瀬戸際のところで、ようやく、ノートの重みから意識を少しだけ引き剥がせた。
『これを拾った君へ。間に合わなかったぶんを、頼む』
さっき屋上で読んだ、鉛筆の薄い一行が、教師の音読の上に透かし絵みたいに重なる。『間に合わなかった』の『た』の字だけが、やけに強く紙を押していた。書いた人間は、たぶんあそこで一拍だけ息を止めた。書いたあとに、一度読み返して、消そうとして、消せなかった。そういう押され方だった。
窓の外で、四月の雲が校庭の砂を薄く光らせていた。
風が抜けるたびに、誰かの運動靴が砂の上で擦れて、きゅ、と鳴る。それは聞き慣れた、無害な音のはずだった。
けれど俺は、その音を、どこで自分が初めて怖いと思ったのかを、はっきりと覚えている。
教壇の、チョークの粉の匂い。
中学二年の、六月の朝の記憶だった。前の日に配られた班ごとの発表の順番で、俺だけが、くじ引きの結果で一番手に回されていた。朝の会のあと、国語の教師が「はい、じゃあ一番の子から」とだけ言って、俺の苗字を読んだ。
立ち上がるまでは、できた。
教壇まで歩くあいだ、上履きの底が床を擦る音だけが、やけにはっきりと耳に届いた。手に持っていた原稿は、前の晩に何度も読み直して、角の折れた便箋だった。『私の好きな本について』というタイトルだけが、自分の字で、震えずに書けていた。
教壇に立って、全員の目線が俺の胸のあたりに集まった、その瞬間だった。
喉の奥で、何かが、締まった。
息を吸う、そこまではできる。吐くときに、声帯のところで空気が一瞬、壁にぶつかるみたいに折れる。折れたぶんが、口の中で「ッ」という母音にもなりきれない小さな破裂音になって、先頭の一音を、どうしても発射できない。
三十秒、だったと思う。
あとで動画で見返したら、一分十七秒だった。
そのあいだ、一番後ろの席の男子が、机の下でスマホを構えていた。黒い画面の上に、白い○と赤い●が小さく浮かんでいた。録画のマークだと気づいたとき、俺はたぶん、自分の顔の筋肉がぜんぶ一斉に剥がれていくのを見られたくなくて、原稿の紙を両手で顔の前にかざした。
紙の向こうで、誰かが、ぷ、と笑った。
それが合図みたいに、教室の真ん中あたりから、ぱらぱらと笑いが広がった。
教師は、止めなかった。
あの一分十七秒で、俺の声は半分、どこかへ行った。
残った半分も、その夜、学年のグループラインにあの動画が流れた瞬間に、もう俺の身体のなかに返ってこないのだと分かった。
「――続き、読んでくれるか」
現代文の教師の声が、いま、ふいに耳の近さで聞こえた。
息が止まる。俺の名前だったらどうしよう、と、背骨が一瞬だけ硬直する。けれど、呼ばれたのは前の席の男子だった。ほ、と漏れそうになる自分の吐息を、歯の裏で潰して飲み込む。男子は教科書を持ち直して、何事もなかったように、次の段落を読み始めた。
誰も、俺の方を見ていなかった。見られなかった、ということに、安堵と、それから名前のつけにくい惨めさが、同時に湧いた。
ノートの角が、息に合わせて、また肋骨を押す。
『強者の型を真似るな。弱者は位置で戦え』
あの一行が、胸の内側で、どこにもなかった輪郭を持って立ち上がった。
強者の型、というのが何を指すのかは、正直わからない。けれど、弱者は位置で戦え、という言い方を、俺は、どこかで、ずっと待っていた気がした。
強くなれ、とは誰も教えてくれなかった。強くなれなかったから、俺はこうなった。それは分かっている。分かっている、のに、それでも――強くならなくても、戦う方法がある、と書いた人間が、この世界のどこかに、一人いた。
教卓の下で、手の甲を強く握る。
爪が皮膚に食い込む痛みだけが、たしかに、俺がいま、まだここで呼吸していることの証明だった。
六時間目が終わり、帰りの会も終わって、教室の掃除当番が箒を動かし始めたころ、俺はいつも通り、鞄を肩に引っ掛けて、誰よりも早く、けれど早く見えない速度で、昇降口へ向かった。
速く歩かない、というのは、二年生の春に身につけた技術だった。目立たないためには、誰かの記憶に引っかかる速度の外側を、ずっと歩き続けなきゃならない。
下駄箱で上履きを脱いだとき、靴のつま先に、朝からの砂が残っていた。指で払いながら、俺は、昇降口の外の中庭を眺めた。
掲示板の隅の、新入生勧誘のチラシが、四月の風で、端だけ持ち上がって、ぱたぱたと震えていた。
『弓道部 ※部員三名・顧問不在』
日焼けした画鋲の周りで、その手書きの注釈が、妙にくっきりと、俺の視界に残った。
いつもなら、昇降口を出たら、校門まで直線で歩く。
その直線のルートが、今日に限って、体のどこか一点で、折れた。
靴の紐を結び直す、というでもない。鞄を背負い直す、というでもない。ただ、右のつま先が、校門の方角ではなく、体育館のほうへ、半歩だけ、勝手にずれた。
その半歩に、他意はなかった――と、たぶん、明日の自分には言い訳をする。
けれど、体育館の裏手に回り込んで、足の裏に砂利の粒の手触りを感じながら、その先の古い木造の建物に近づいていったとき、俺は、自分がその半歩をどこで踏み出したのかを、もう忘れていた。
射場の裏手には、金属の網のフェンスがあって、その向こうで、弦を張る木の台が、西日を受けて橙色に染まっていた。
ぱん、と、また音がした。
屋上で聞いたのと、同じ音だった。
誰かが、いま、矢を放って、的を射た音だった。
フェンスの網目に、指の第一関節をかけた。
顔を近づけると、射場の中が、ちょうどフェンス一枚分だけ視界に入った。土間の奥で、長い髪を後ろで一つに結んだ女子が、ひとり、的前に立っていた。たぶん三年生。細い腕で、自分の身長よりも長い弓を、肩の線の上で静かに保っていた。
その隣で、体の小さい一年生らしい女子が、自分の弓を床に立てたまま、肩の高さで止まったきりになっていた。引く、のでも、放つ、のでもなく、途中で固まっているように見えた。
先輩らしい女子が、何かを小さく言った。
「そこ、じゃない」
声は、風の切れ目にしか届かなかった。俺の耳まで正確に届いた言葉は、それひとつだけだった。
でも、たぶん、俺の足が止まったのは、その声の中身のせいじゃなかった。
一年生の女子の、弓を握る左手の、第二関節が、斜めに歪んで弦に触れていたからだった。
その歪み方に、俺は、見覚えがあった。
ノートの三ページ目に、青いボールペンで書かれていた図。『引き尺・左手の癖』。正面ではなく、斜め上から描かれた、手のひらの歪みの矢印。
同じ、だった。
息が、止まった。
フェンスの網目から指を離そうとしたら、金属が第一関節に食い込んで、俺の指が、一瞬だけ、その場所に縫い留められた。
射場の中の時間と、俺の時間が、同じ速度で流れていないように感じた。一年生の女子が、歪んだ手のまま、ふっと息を吐いて、また構え直す。また同じ角度で、指が斜めに弦に触れる。
違う、と、胸の内側で言葉になった。
弦に触れる指の形は、手首じゃなくて、肘の位置で決まる。ノートの四ページ目に、そう書いてあった。さっき、屋上で、確かに読んだ。
俺は、そのことを、いま、射場の中にいる誰かに伝えなきゃいけない気がした。
伝える、って、どうやって。
喉の奥が、あの朝の教壇と同じ角度で、縮こまった。
フェンスから指を引き抜いた。金属の匂いが爪の先に残って、内ポケットのノートの角が、また肋骨を押し返してきた。
校門までの直線のルートに戻ろうとして、俺は、一度だけ、射場の扉の方を振り返った。
明日、このフェンスの前に、もう一度立てるかどうかは、まだ、分からなかった。