第1話
第1話
屋上の鉄扉を肩で押すと、錆の匂いが鼻先で弾けた。
蝶番の悲鳴が午後の校舎にちりちりと響いて、俺は咄嗟に身を縮める。事務室の鍵束から、清掃当番のふりで借りたまま、もう三日返していない。返さなきゃいけないのは分かっている。けれど誰にも見つからずに昼休みを潰せる場所は、もうここしか残っていなかった。
トイレの個室は人が来る。図書室は読書感想文を書きに来る一年生で埋まっている。屋上だけが、鍵を持った人間以外には開かない、安全な真空だった。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、俺は弁当の包みを引き出しに押し込んで、誰よりも早く教室を出る。それがここ二週間で身に着けた最短ルートだった。中央階段を二段飛ばしで上がって、四階の踊り場で誰にも見られていないかを一瞬だけ確認して、職員室の前は息を止めて通り抜ける。屋上の鉄扉まで、教室から二十秒。
ステンレスの手すりに掌を置くと、四月の太陽で温められているはずなのに、骨まで沁みるくらい冷たい。給水塔の影に背中を預けて、コンビニの菓子パンの袋を破く。ビニールの裂ける音が、屋上では妙に大きく響いた。咀嚼しながら、舌の上で粉糖がざらりと砂みたいに崩れる。甘いはずなのに、味がしない。
下から、四階のどこかの教室の笑い声が、風に乗って細く昇ってきた。何が可笑しいのかは聞き取れない。届かない、ということが、たぶん俺がここに来る唯一の理由だった。
胸ポケットからシャーペンを抜いて、芯を一センチだけ繰り出す。爪の腹で押し折る。ぴき、と小さな音が立つ。それから、もう一度、ぴき。中学のとき、教壇で固まらないように覚えた癖だった。指先のどこかに意識を一点で繋いでおかないと、体ごと別の場所へ流れてしまいそうになる。
朝、教室で隣の席の女子が、消しゴムを落とした俺に「はい」と差し出してくれた。それだけで、俺は喉の奥を強張らせて、頷くしかできなかった。ありがとう、の四文字が、口の中で形を作る前に固まった。彼女はもう、二度と俺に消しゴムを拾ってはくれないだろう。たぶん、そういう仕組みでこの世界はできている。
中学のとき、声を失いかけた。
正確には、出そうとすると喉の奥が痙攣する時期があった。教壇に立たされて固まる俺を、誰かがスマホで横から録画して、その夜のうちに学年のグループラインに流れて、翌朝の廊下では知らない後輩まで、すれ違いざまに俺の名前を笑った。あの動画は、二年経った今も誰かの端末のフォルダのどこかで、たぶん完全には消えていない。一度ばらまかれた声は、回収できない。それを思い知ってから、俺は声を出すのをやめた。
高校に上がるとき、別人になることに決めた。喋らない人間。目立たない人間。誰にも好かれない代わりに、誰にも見つけられない人間。教室の隅で、ただシャー芯だけを几帳面に折り続ける人間に。
うまくやれている、と思う。今のクラスの誰も、俺の下の名前を呼ばない。先週の出席で先生が苗字すら正しく発音できなかったとき、誰一人として訂正しなかった。それで充分だった。誰の記憶にも残らない人間として、卒業まであと二年と十一ヶ月、息を潜めていればいい。それ以上を望むのは、俺にはもう、許されていない。
風で前髪が額に貼りついて、その下で目を細めた。
そのとき、給水塔の裏の、金網の根元に視線が落ちた。
コンクリートの継ぎ目に、何かが挟まっていた。
風で飛んできたプリント、と最初は思った。気にしないで目を逸らす。けれど五分経っても、十分経っても、それは同じ位置に同じ角度で挟まったままで、いっこうに動かない。風で飛んできたにしては、奇妙なくらい綺麗に収まっていた。誰かが、意図して、そこに置いたとしか思えない置き方だった。
立ち上がって、上履きの先で軽く突く。
ノートだ。
しゃがみ込んで、指でつまむ。表紙が湿気で重い。指の腹に、ざらりとした紙の繊維が触れた。雨に何度か濡れて、また乾いて、を繰り返したらしい。角は犬の歯みたいにささくれて、白い綿が覗いていた。背の糸綴じの一部が解けかけていて、そこからかすかに、湿った墨と、人の手の脂の匂いがした。
『弱くても勝てる型』
油性マジックの、太い字で、表紙にそう書いてあった。
息が、一瞬、どこかへ行った。
タイトルの下に、小さく――ほとんど擦れて読めなくなっているけれど――『四月、屋上に置く』とだけ走り書きがあった。
ということは。
これは、俺のために置かれた。
いや、と思い直す。俺のために、というのは違う。屋上に来る誰かのために、置かれた。たまたま今日、それを開いたのが、俺だった。それだけだ。
それでも、心臓のあたりが、誰かに薬指でつままれたみたいに、きゅっと縮こまった。誰のために置かれた、というだけのことが、これほど指先を動かなくさせるとは思わなかった。
最初のページを開く。
びっしりと、青いボールペンの字が並んでいた。図形と矢印、間合いを示す数字、専門用語らしき頭文字の略号。
「八割ではなく六割で引け」 「狙うな、任せろ」 「強者の型を真似るな。弱者は位置で戦え」 「正面で勝てないときは、半歩、左にずれて立て」 「呼吸は、相手の二拍遅れに合わせろ」
どれも武道か競技か、何かの戦術メモらしかった。素人の俺には、半分も意味が取れない。それでも、書いた人間がここに「勝つ」ということを刻みつけるとき、異様なほど真剣だったことだけは、ページの密度から伝わってきた。同じことが、何度も書き直されていた。一度書いた図の上に、別の日付で訂正の矢印が伸びていた。一冊が、そのまま誰かの数年分の悔しさだった。
何ページかめくる。後ろの方は白紙のまま、何ページか飛ばすと、また文字が戻った。最後の方には、見開きで一枚、「弱者の五原則」と題された箇条書きがあって、そのうちの一行だけが、別の人間の筆跡で力強く丸で囲んであった。
『一、強者と同じ土俵に立つな』
囲みの内側で、その一行だけが、何度も鉛筆でなぞられて、紙が薄く擦り切れていた。
その囲みの隣の余白に、青でも黒でもなく、別の鉛筆で薄く、一行だけ書き加えられている箇所があった。
『これを拾った君へ。間に合わなかったぶんを、頼む』
息を、止めていた。
誰宛だ、これは。冗談か。それとも、誰かの遺品みたいなものなのか。
ページをめくる指先が、自分でも驚くくらい震えていた。風のせいではなかった。たぶん、紙の重さでもなかった。
この震え方を、俺は知っている。
中学のとき、教壇に立たされた朝の震え方だった。何かを始めなきゃいけない朝の、喉と指が同時に強張る、あの震え方。あの朝、結局俺は一言も発せられないまま、教師に肩を叩かれて席に戻された。
慌ててノートを閉じた。閉じた拍子に、表紙の裏に貼られた一枚の付箋が、はらりと指の腹に当たった。
『一日一頁。読み終わったら、射場へ』
射場、という単語が、頭の中で小さく弾けた。
一階の昇降口を出て、体育館裏に抜けたところに、古い射場があるはずだった。新入生勧誘のチラシで、一度だけ見た気がする。隅に手書きで「※部員三名・顧問不在」とあって、誰かが画鋲で適当に留めていた。チラシの隅は、たぶんもう誰にも捲られないまま、四月の中庭の掲示板で日に焼け始めている。
そのとき、はるか下から、ぱん、と乾いた音がひとつ届いた。
風に紛れて、すぐ消える音だった。けれど、たしかに聞こえた。何かが弦を弾いて、その先で布のような的を打った音。
普段なら、屋上のここまで届くはずのない音だった。
ノートを膝の上に伏せたまま、俺はもうしばらく、その音の余韻を耳の奥で聞いていた。射場へ、というのは命令なのか、誘いなのか。それすらも、まだ決められなかった。
予鈴が鳴った。
ノートを内ポケットに押し込むと、制服越しに角が肋骨を、ぐっと押した。
痛い、というほどではない。
けれど、その圧迫感だけが、屋上の鉄扉を内側から閉めて、階段を一段ずつ降りて、四階の自分の教室に戻って、誰の視線も合わせずに自分の席に座り直して、五時間目の現代文が始まって誰かが教科書を音読し始めても、ずっと――ずっと、消えなかった。
たぶん、もう、消えないんだろう、と思った。