第3話
第3話
フェンスの網目に、指の第一関節が、また食い込んだ。
昨日と、寸分たがわず同じ角度だった。寝る前まで赤く残っていた圧痕の、薄く白くなりかけた皮膚のくぼみに、金属の冷たさが吸いつくように重なる。これで二度目だ、と指のほうが先に気づいていた。
翌日の、放課後だった。
帰りの会の途中から、俺の右足のつま先は、校門の方向を向いていなかった。担任が連絡事項を読み上げるあいだ、上履きの中で、指先だけが、体育館の裏手のほうへ、こっそり丸まっていた。自分の身体に、勝手に縄張りを増やされた気分だった。
昨日、フェンス越しに見た、あの一年生の左手の、第二関節の歪み。
一晩、枕の中で、あの歪みが俺の瞼の裏で再生され続けた。歯磨きをしているときも、通学電車の窓を睨んでいるときも、英語の小テストで穴埋めを書いているときも、あの手首の斜めの角度だけが、どうしても消えなかった。ノートの四ページ目の、青ボールペンの矢印と、同じ向きだった。
鞄の内ポケットで、ノートの表紙の角が、また肋骨を突いた。
もう、二十分、このフェンスの前に立っていた。
ここは、射場の裏手の死角だった。弓を引く人間の背中側から見下ろす位置で、覗き見にはこれ以上ないくらい向いていた。けれど、西日で俺の影が、金網の菱形の模様になって、射場の土間の手前まで伸びていた。誰かが振り返れば、一瞬で見つかる角度でもあった。
ぱん、と、昨日と同じ音が一つ、射場の奥で弾けた。
的に中る音では、なかった。矢が的の脇の土囲に当たって、砂を一撫で鳴らす、鈍い音だった。
射場の中は、昨日よりはっきり見えた。
長い髪を後ろで一つに結んだ先輩。たぶん三年。背筋の線が、天井から吊られた糸みたいに、真っ直ぐだった。弓を下ろしてから、もう一人の一年のほうへ、足音を立てずに歩み寄る。道着の膝のあたりが、砂で薄く白くなっていた。何時間も、たぶん何日も、そこで同じ姿勢を繰り返してきた膝の白さだった。
その一人が、昨日と同じ女子だった。
体の小さい、肩幅の狭い、たぶん百五十センチもない一年。短い前髪が、汗で額に貼りついていた。弓を構えるとき、左手の手のひらが、手首から斜め上へ、ほんの数度だけ、捻れる。その捻れが、矢の飛ぶ角度を、毎回、右上に一センチずつ押し流していた。的まで二十八メートル、と何かで読んだ記憶があった。手前の一センチは、向こうでは、たぶん二十センチ以上の誤差になる。
もう一人、道着の少年がいた。
一年、だと思う。さっきから一本も引かずに、壁際に立って、自分の弓をぼんやり眺めていた。袴の裾の折り目が、まだ糊の利いた新品の折り目で、左足が少し内側を向いていた。射る前から、腰が逃げていた。
そして、三人。
顧問の姿は、どこにもなかった。
新入生勧誘のチラシの、画鋲の内側の、手書きの注釈が、頭の中でもう一度、くっきり焼き直された。『※部員三名・顧問不在』。あれは嘘ではなかった。むしろ、控えめな表記だった。
「もう一回」
先輩の声は、昨日と同じで、風の切れ目にしか届かなかった。ただ、声の芯が、昨日よりほんの少しだけ、疲れていた。先週から、同じ角度で同じ言葉を繰り返してきた人間の、疲れ方だった。
「腰から」
短く、補足が一つ。
「……はい」
と、一年生が、ほとんど吐息で返した。はい、と言いながら、本当のところは、わかっていない声だった。自分の手がどこから曲がっているのか、まだ、自分の身体からは見えていない声だった。
壁際の少年が、視線も上げずに、自分の弓の弦を、人差し指で一度だけ、軽く弾いた。ぴん、と細い音が立って、誰にも咎められなかった。部活としての緊張が、もうその音一つぶん、こぼれていた。
一年生の女子が、息を吸って、構え直した。
左手の第二関節が、また、斜めに歪んだ。
ぱん、と、今度も、矢が的の右上の土囲に吸い込まれた。
違う、と、胸の内側で、声にならない言葉が立ち上がった。
手首じゃ、ない。肘だ。
ノートの四ページ目に、そう書いてあった。肘の位置が、耳の高さよりも、たぶん三センチだけ、下に落ちている。そこを押し上げれば、手のひらは自然にまっすぐ弦に触れる。手首の形をいくら正そうとしても、治らない。肘から、遡って、正すしかない。
俺は、いつの間にか、フェンスの網目に額を押しつけていた。
気づいたら、そうなっていた。
金属の冷たさが、眉の上から頭の芯へ、一本の針みたいに、通った。ポケットの中のノートが、呼吸に合わせて、肋骨を四回、連続で叩いた。
誰の話だ、と自分に言い聞かせる。
俺は弓を引いたこともないし、矢を番えたこともない。昨日、偶然ノートを拾って、たかだか一冊分の字面を舐めただけの、素人以下の人間だ。中に書いてあることが、本当に、この一年生の射型に当てはまる保証なんて、どこにもない。
それなのに、目の前の射場で、一年生がもう一度、同じ角度で指を歪ませて、先輩がもう一度、同じ声で「もう一回」と言うたびに、俺の喉のあたりで、何かが、少しずつ、焼かれていくような感じがした。
ぱん、と、また、矢が土囲を擦った。
一年生の女子が、弓を下ろして、唇を、噛んだ。小さな顎の筋肉が、一瞬だけ、ぐっと硬くなる。
それは、中学の俺が、教壇で顎をこわばらせたときの、たぶん、同じ筋肉の使い方だった。
フェンスの網目を、爪で、一度、強く掻いた。細かい錆の粉が、指の腹にざらりと付いた。黙っていろ、と、たぶん、二年前の俺が、今の俺の肩を、後ろから強く押さえていた。黙ってさえいれば、何事も起きない。何事も起きないまま、三年を、無事に、閉じられる。
でも。
――肘。
喉の奥で、音にならない一音が、発射に失敗した。
俺は、自分の口が、勝手に開いていたことに、気づくのが、少し遅れた。
もう一度、息を吸った。
今度は、ほんとうに、声にしようとした。
「――ひじ」
出た、と自分の耳で確認したのは、その音が風に乗って、金網のこちら側で一度、ひらりと折れたあとだった。
先輩の背中が、一瞬、止まった。
肩の、三角筋のあたりが、糸で一点、後ろに引かれたみたいに、ぴくりと動いた。
全身の血が、踵の奥へ、落ちていった。
声を、出してしまった。
高校に上がってから、必要のない場所で出したのは、たぶん、初めてだった。教室でも、電車でも、家でも、俺は頷きと短い母音だけで、一年の春を渡ってきた。それが、よりによって、見知らぬ先輩の真後ろで、破れた。
先輩が、振り返った。
長い髪が、一瞬だけ遅れて追いついてきて、うなじのあたりで弧を描いた。切れ長の目が、フェンスの網目の向こうにいる俺を、まっすぐに、射抜いた。
逃げろ、と体が決めたのと、足が決めたのが、別のタイミングだった。
俺は一歩、後ずさった。砂利が、かかとの下で、じゃり、と崩れた。
「待って」
先輩が、短く、言った。
命令でも、頼みでもなかった。ただ、いま目の前にある一つの事実を、取り逃がしたくない人間の声だった。
弓を、射台の脇に立てかける。道着の袖が、風で一度、ふわりと膨らんだ。それから、先輩は、足音を立てずに、射場の出入り口のほうへ、ほとんど走るような早歩きで、視界から消えた。
逃げろ、と頭のどこかで、警報が鳴っていた。
でも、足が、動かなかった。
フェンスの網目に、右手の指が、まだ、引っかかったままだった。引き抜こうとして、第一関節が、今度はさっきよりも強く、食い込んだ。爪の下に、細い痛みが一筋、走った。
射場の角から、道着の下の、黒いジャージの脚が、現れた。
先輩だった。
横顔の輪郭が、西日で橙色に光って、そのまま、俺のほうへ、砂利を踏んで近づいてきた。
「君」
先輩の声が、今度はフェンス越しじゃなく、直接、耳に届いた。
「いま、なんて、言った」
俺は、答えられなかった。
喉の奥が、また、中学二年の朝と同じ角度で、ぎゅっと閉じた。口の中で、「ひ」の音が、一度だけ、舌先の裏で折れて、そのまま、溶けた。
先輩の手が、フェンスの向こうから伸びて、俺の、手首を、掴んだ。
金属の網目を一枚挟んで、掌の熱が、俺の皮膚に、直に、伝わった。思っていたよりも、ずっと、熱かった。
「こっち側に、来て」
声が、まっすぐだった。
先輩は、俺の手首を掴んだまま、フェンスの切れ目の、古い鉄の扉のほうへ、ゆっくりと、歩き出した。
抗えなかった。抗おうとする筋肉の場所が、身体のどこにも、見つからなかった。
砂利の音が、二人ぶん、重なって、鳴った。俺の歩幅より、先輩の歩幅のほうが、わずかに広くて、俺の足は、その広い歩幅に、半歩、引きずられるようにして合わせていった。
内ポケットで、ノートの角が、肋骨を、今日いちばん強く、押し返してきた。
射場の入り口をくぐる直前、俺は、一度だけ、肩越しに、金網のこちら側――昨日まで、俺の居場所だった、覗き見の位置を、振り返った。
夕方の風で、菱形の影は、もう、そこには、伸びていなかった。
扉の向こう側の、土間の匂いが、鼻先で、弾けた。
藁と、松脂と、誰かの額の汗の、混じった、匂いだった。
手首を掴む先輩の指の、第二関節の位置が、ノートの五ページ目の図と、たぶん、同じだった。