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屋上から見える世界

第2話 第2話

第2話

第2話

「——あ」  その声は、給水塔の向こうから聞こえた。  俺は息を止めたまま、胸に押し付けたノートの表紙を両手で挟み込んだ。汗ばんだ掌に、安っぽい紙の繊維がくっつく。心臓の音が、コンクリートを伝って彼女に届くんじゃないかと本気で思った。  何秒沈黙が続いたか、わからない。体感では一時間、実際には多分三秒。俺はそっと、給水塔の角から、顔の半分だけを出した。  細い背中だった。  紺のスカートの裾が、風にほんの少しだけ煽られている。白い制服のリボンは、緩く結ばれていた。三つ編みが一本、肩の前に垂れて、その先が彼女自身の呼吸に合わせて、かすかに震えていた。  篠宮雪乃だった。  同じクラスの、窓際の、いつも俯いて本を読んでいる、あの篠宮。  名前を覚えているのは、出席番号が俺のすぐ後ろだからだ。「しののみや・ゆきの」。朝のホームルームで担任が呼ぶ、低い澄んだ声の返事。それ以外、彼女の声を教室で聞いた記憶がない。  彼女の足元に、俺の書きかけの一枚が、白く落ちていた。四月の光の中で、それは嘘みたいにくっきりと輪郭を持っていた。主人公が昨日と同じ道を歩いていた、と始まる、俺のいちばん弱い一枚。  雪乃が、しゃがんだ。

 俺の身体が、勝手に動いた。  「——待って」  声が、ひび割れて出た。屋上の空気にまったく馴染まない、教室でも使わない、久しぶりに俺自身のために使った声だった。  雪乃の肩が、びくり、と跳ねた。しゃがんだ姿勢のまま、首だけを俺の方へ回す。  目が、赤かった。  泣いていた、というより、さっきまで泣くのをずっと我慢してきた目だった。白目の部分に細い血管が透けて、下まぶたの縁だけが、濡れて光っていた。俺の顔を視界に入れた瞬間、彼女の表情が、ぱっと硬くなる。怯えた、というより、知らない獣に出くわしたときの硬さに近かった。  「……クラスの」  か細い声が、唇の間から漏れた。  俺の名前までは、辿り着かなかった。俺は教室で、名字を呼ばれることすら、もう何ヶ月もなかった。  「それ、俺のです」  自分でも驚くほど、低い声が出た。震えていたけれど、震えたまま、言葉は途切れなかった。人生で何度目かの、俺の声が、ちゃんと他人に向かって飛んでいった瞬間だった。  雪乃は、地面の紙と俺の顔を、交互に見た。それから、しゃがんだまま、両手で膝を抱えるみたいにして、紙片を拾い上げた。拾い上げる指が、白かった。爪の先まで血が通っていないような、透ける白さだった。  風が、強くなった。  彼女が拾った紙の端が、指の中でぱたぱたと跳ねる。文字の列が、俺の視界の中で逆さまに踊って、読めない速度でほどけていく。  「……ごめんなさい」  雪乃の声は、屋上の風に、半分以上溶けた。  「走ってきたら、ここ、いて。誰か、いるって、知らなくて」  彼女は、自分の上履きの爪先を見ていた。白いゴムが、コンクリートに擦れて、灰色に汚れていた。そのつま先が、外側に少しだけ傾いている。長く歩き疲れた人間の、踏ん張れない立ち方だった。  「……俺も、同じ」  気がついたら、そう言っていた。  「俺も、ここに、逃げてきてる」  逃げてきてる、と自分の口から出た瞬間、それが本当のことなのだと、初めて自分で知った気がした。口に出すまで、自分がここでやっていることに、逃げる、という名前すらつけていなかった。ただ昼休みごとに階段を上がってきて、フェンスの錆の匂いの中に座っていた、それだけのことのはずだった。けれど、一度言葉にしてしまうと、その四十センチ四方のコンクリートの領土は、急に切実な意味を持ち始めた。  雪乃が、顔を上げた。  赤い目が、俺をまっすぐに見る。見られることに、俺はこんなに慣れていなかった。教室で誰にも見られない一年が、俺の目の皮膚をいつの間にか薄くしていた。その薄くなったところに、彼女の視線が触れた。  チャイムは、まだ鳴らない。五時間目の開始までは、確か、あと十分以上あった。  他人じゃなくなるかもしれない、十分。

 雪乃の膝が、かくんと揺れた。  立ち上がろうとして、力が入らなかったらしい。彼女は、そのまま、コンクリートに片手をついた。もう片方の手は、俺の紙片を、胸に押し当てたままだった。  「座って、いい?」  俺は、頷いたのか、首を振ったのか、自分でもわからなかった。ただ、ノートを抱えた腕の力が、少しだけ緩んでしまった。  彼女は、フェンスに背を預けるようにして、その場に座り込んだ。スカートの裾を、丁寧に膝の下に折り畳む動作だけが、普段教室で見る雪乃の所作と、同じに見えた。  「……これ」  手の中の紙を、彼女は自分の膝の上に広げた。  「読んでも、いい?」  頭の中で、何かが、耳鳴りみたいに高く鳴った。  断れ、と俺の中の俺が叫んだ。奪い返して、ここから消えろと。けれど、同時に、別の声も鳴っていた。ずっと、ずっと、誰かに一ページでいいから読んでほしかった、あの声だ。教室で空気になっていた一年、ノートの最後のページへ向かって書き続けていた一年、俺はこの瞬間を、本当はずっと、待っていた。  「……一人、だけなら」  自分の声が、そう言った。  雪乃は、一度だけ、まばたきをした。睫毛が長かった。俯いたとき、それが頬に小さな影を落とすのが見えた。  彼女の指が、紙の端を、そっと摘まんだ。  読んでいる間、雪乃は、一度も顔を上げなかった。  俺は、突っ立ったまま、彼女の指先だけを見ていた。爪のかたち、関節の皺、紙をめくるときの、紙と皮膚がこすれる小さな音。その音は、俺が一年間、誰にも聞かせなかった秒針のような音に、どこか似ていた。静かで、けれど確かに時間を刻んでいて、ひとりきりの夜に自分だけを支えていた、あの小さな規則正しさ。それが今、俺の膝の高さで、他人の指先に鳴っていた。他人が俺の文字を読んでいる音を、俺は、生まれて初めて聞いた。教室で机を蹴られる音でも、弁当箱に消しゴムの削りかすが落ちる音でもない、俺の紙だけが出す、俺のための音だった。  屋上のコンクリートが、日差しを吸って、上履きの底に、ぬるい温度を返してきた。遠くでバレー部のボールを弾く音が、下のコートからぽつ、ぽつ、と昇ってくる。それらはすべて、俺と雪乃のあいだの沈黙に、遠慮して届いていた。  胸の奥が、熱くなったのではなくて、痛くなった。  痛いのは、嬉しいからだった。嬉しいのに痛い、という感覚を、俺はこれまで自分の語彙で持っていなかった。シャーペンの芯を紙に落とすとき、あれのもう少し深いところで鳴る音に、似ていた。  風が、また吹いた。  その風に、俺の足元から、もう一つ、何かが、軽く転がった。  ノートだった。  腕の緩みから、滑り落ちた、七冊目の、B5の、キャンパスの。  乾いた音を立てて、表紙が、雪乃の靴の前で、開いた。  俺の身体は、固まった。  雪乃の指が、紙片から、離れた。  彼女は、自分の足元に開いた、そのノートの、ページの上の文字を、見た。俺が裏から書き進めてきた、一番新しい、今日書きかけて止まった、あの一文を。  ——主人公は、昨日と同じ道を歩いていた。ただし、今日は、  雪乃の指が、ノートの表紙に触れた。  彼女は、俺を、見なかった。俺の許可を、もう、待たなかった。  白い指が、ゆっくりと、ページを、一枚、前に、捲った。

 めくる、という動作を、あんなに長く見たのは、生まれて初めてだった。  一枚、一枚、彼女の指は、俺が一年かけて書いた小さな世界を、後ろから前へ、遡っていった。書いた夜の匂いが、ページごとに違って、俺にだけ分かる順序で戻ってくる。インクの滲みが濃い日は、手が震えていた日。行間が詰まっている日は、息を殺していた日。雪乃の指先は、その日々の上を、何も知らないはずなのに、少しも急がずに歩いていった。雪乃の目が、左から右へ、上から下へ、ただ静かに動く。その動きが止まるたびに、俺の呼吸も、一緒に止まった。  やがて、あるページの、ある行の上で、彼女の指先が、止まった。  雪乃の肩が、一度、大きく、上下した。  俯いた顔の、頬の輪郭が、光の中で、揺れた。睫毛の先に、透明なものが、一粒、重みを持って膨らんでいくのが見えた。それは、落ちなかった。落ちる前に、彼女のまばたきが、それをどこかへ吸い込んだ。  彼女が、顔を上げる。  赤い目に、もう一度、新しい涙の膜が張っていた。  唇が、震えながら、小さく、開いた。  チャイムが鳴った。  五時間目を告げる、遠い、アルミのベルの音。  その音に遮られるように、雪乃は、俺に向かって、一つの言葉を、口の形だけで、作ろうとしていた。

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