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屋上から見える世界

第1話 第1話

第1話

第1話

チャイムの一音目で、俺は椅子を蹴った。机の縁に膝の内側をぶつけて、骨の奥がじんと痺れる。その痛みをわざと噛みしめながら、鞄からノートだけを抜き取って廊下に出た。 「——あ、また逃げた」  中心グループの誰かの声が背中を追ってきた。笑い混じりの、毒の薄められた声。俺はそれを耳から払う代わりに、スニーカーの踵を強く床に押し付ける。上履きではなく外履きを隠し持つようになったのは、去年の秋からだ。上履きは月に一度、便器に沈められる。だから俺は自分の足の裏に、廊下のリノリウムの冷たさを直接覚えさせた。  廊下の突き当り、非常階段の鉄扉を肩で押す。錆の匂いが鼻腔に刺さる。一段飛ばしで五階を登り切って、踊り場の奥——消火栓の陰に隠されたフェンスの隙間に、身体を横にして滑り込ませる。制服の胸ポケットが金網に引っかかり、糸が一本また切れる音がした。一年分の糸くずが、俺の聖域への入場料だ。  抜けた先は、屋上。  施錠された正面扉の、ちょうど裏側。誰にも踏まれていない四月の光が、そこには無造作に散らばっていた。 「……ただいま」  誰もいない空に呟く。空は返事をしないが、俺はそれで十分だった。

 給水塔の影に背中を預け、床に直接腰を下ろす。コンクリートの冷たさが、尻から脊椎まで登ってくる。鞄がないから弁当もない。代わりに、ポケットから取り出した栄養補助食品の銀色の包みを爪で裂いて、乾いたそれを奥歯で噛み砕いた。甘いのに、砂を噛んでいるみたいな食感。口の中の水分を全部奪っていく粉っぽさを、舌で無理やり唾液と混ぜる。それでも、教室で弁当を広げるよりはずっといい。  去年の五月、机の上に広げた弁当箱に、誰かが消しゴムの削りかすを落とした。白い米粒の上で、灰色のそれはまるで小さな虫のようにちらばっていた。箸の先でよけようとすると、隣の席の男子が「いいよいいよ、俺が食ってやるよ」と笑いながら、わざと俺の卵焼きを指で摘まみ上げた。指紋のついた卵焼きを、彼は口に入れないまま机の上に戻した。それを見なかったふりをして米を口に運んだとき、自分の中で何かが静かに諦めた。味はしなかった。喉だけが、機械みたいに動いていた。以来、俺は昼を屋上で食べないことに決めた。食欲を差し出す代わりに、この四十五分間をまるごと自分のために使うと。  ノートを開く。  B5、キャンパス、表紙無地。百円ショップで十冊まとめ買いしたうちの、もう七冊目だ。一番後ろのページから前に向かって書いている。最後まで辿り着いた瞬間に、俺の物語が終わってしまう気がしたからだ。左手で右手の甲を押さえて、シャーペンの芯を紙に落とす。芯がかすかに紙の繊維を噛む音がして、それだけで俺の耳は、教室の喧騒の残滓を少しずつ洗い流していく。  ——主人公は、昨日と同じ道を歩いていた。  一文目を書くと、肩の奥にこわばっていた何かが、ほろりと解ける。風がページの端を捲り、遠くで野球部の金属バットが空を叩く音が鳴った。校庭から湧き上がる男子の歓声は、ここまでは届かない。届いたとしても、薄い膜越しの、他人の国の祭囃子だ。すぐ耳元では、フェンスの向こうの電線が風に鳴る、低い唸りだけが俺のBGMだった。  教室では、俺は「空気」と呼ばれている。  正確には、一学期の最初に伊集院が「お前、空気な」と笑って決めた。それが定着した。返事をしても、しなくても、同じだけ無視される。机を蹴られても笑って済ませるのが俺の「役」だ。泣けば面倒になり、怒れば本物のいじめに昇格する。空気でいる限り、俺は透明だった。透明な人間は、殴られても痛くないことになっている。少なくとも、周りはそう信じていたし、俺もそう信じるふりをした。信じるふりをしているうちに、本当に痛みの角が丸くなっていく瞬間があって、俺はそれが一番怖かった。  けれど屋上にいる間だけ、俺は透明じゃない。  コンクリートの熱、金網越しの青、風に揺れる自分の前髪の感触。それを全部書き留めていると、自分の輪郭が、少しずつ、線になって戻ってくる。指先の皮膚に、さっきまでなかった温度が戻る。シャーペンを握る力が、ちゃんと紙に伝わる。その当たり前のことが、教室では当たり前じゃないのだ。

 今日のページには、昨日の続きの一行を書こうとして、手が止まった。  ——主人公は、昨日と同じ道を歩いていた。ただし、今日は、 「今日は」の続きが、出てこない。  シャーペンの先をこめかみに押し当てて、目を閉じる。閉じた瞼の裏に、朝の教室が浮かぶ。俺の椅子の背もたれに、誰かが貼ったメモ。『そこ空気の席だから座んないで』。マジックで書かれた太い文字の、二画目の端がわずかにかすれていた。誰の字かは、わざと見ないことにした。剥がす指が少しだけ震えた。その震えを、俺は物語の主人公に渡してやりたかった。震えてもいい、震えながら一歩だけ歩き出す主人公を書きたかった。  でも、まだ、書けない。  書けないということは、まだ俺自身が一歩も踏み出せていないということだ。主人公に渡せない勇気を、俺は自分の中にも持っていない。シャーペンのノックを、意味もなく三回、四回と押す。折れた芯が、膝の上に黒い点をひとつ残した。 「——あ」  自分の口から漏れた声に、自分で驚く。言葉じゃない、ただの呼気みたいな、小さな声。  鉄の扉が、鳴った。  正面の、施錠されているはずの扉が。  俺は飛び上がるようにノートを閉じ、ページを胸に押し付けた。心臓が制服の内側で跳ねている。一拍ごとに、シャツの布地がはっきりと押し上げられるのがわかるほどに。聞き間違いだ、と自分に言い聞かせる。あの扉は鍵が掛かっている。一年、毎日確かめた。誰も、ここには、来ない。  ガチャ、と錠の軋む音。  鍵が、回された音だった。  教員用の鍵を、誰かが持っている。  血の気が引くのが、こめかみから顎へ、さらさらと降りていくのがわかった。頭のどこかで、冷たい水が一滴ずつ垂れていくような錯覚。隠れなきゃ。ノートを、見られたら——机を蹴られて笑ってやり過ごせた俺が、これだけは、失いたくなかった。給水塔の裏側へ身体を押し込む。制服の背中がざらついたコンクリートに擦れて、きしきしと嫌な音を立てる。背中のコンクリートは、さっきと同じ冷たさなのに、今は皮膚に噛みついてくるみたいだった。  扉が、開いた。  蝶番の、長く伸びる軋み。四月の光の中に、足音が一つ、踏み出した。  細い足音だった。上履きの底が、砂を噛んでいる。歩幅が狭い。男子じゃない。野球部でも、体育教師でもない。——それなのに、その足音は、まっすぐ俺の聖域の中央へ向かって歩いてくる。迷いがない。まるで、ここに来ることをずっと前から決めていたみたいに。  ここが誰かに知られる日が来るなら、それは伊集院だと俺はずっと思っていた。嗤いながら俺のノートを取り上げて、教室で朗読する——そういう奴に、終わらされるのだと。だから俺は、その日が来たら抵抗せずに笑おうと決めていた。笑って差し出せば、物語ごと殺されて、それで終わりだと。  けれど今、屋上に踏み入ってきた足音は、嗤っていない。  むしろ、何かに追われているみたいに、急いていた。呼吸の乱れが、風に乗ってかすかに届く。細く、浅く、途切れがちな息。誰かを探す足取りじゃない。誰かから、逃げてきた足取りだ。

 給水塔の陰で、俺は息を止める。  ノートの背表紙が、胸骨にごつりと当たる。表紙の角が、肋骨の隙間に食い込む痛みだけが、今の俺を現実に繋ぎとめていた。  足音が、止まった。  俺の隠れている給水塔の、すぐ向こう側で。  息遣いまで聞こえる距離だった。吸って、止めて、それから長く吐く——まるで泣くのをこらえているみたいな、不規則な呼吸。  風が吹いた。閉じたはずのノートの表紙の下から、書きかけの一枚が、はらり、と剥がれて、四月の光の中に舞う。  白い紙片が、誰かの足元へ、落ちた。 「——あ」  今度は、俺の声じゃなかった。  初めて聞く、女子の、震えた声だった。

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