第3話
第3話
チャイムの尾が、屋上の空気の中で、ゆっくりと溶けていく。 五時間目を告げるベルの残響が、風に持ち去られ切る前に、雪乃の唇が、やっと、音を伴った。 「これ——あなたが、書いたの……?」 震える声だった。 それは、教室で俯いて本を読んでいる篠宮雪乃の声じゃなかった。薄い膜を内側から引き裂くような、皮膚に直接触れてくる声。俺の耳は、そんな声を受け取るのに慣れていなくて、鼓膜の奥がきゅっと縮むのがわかった。耳の裏側の、普段は意識したこともない薄い皮膚の上を、その声が、細かい針の束みたいに、つう、と撫でていった。 答えなきゃ、と思う。けれど、喉の奥で、音にならないものがつかえた。唾を飲み下そうとすると、口の中が砂みたいに乾いていることに気づいた。舌の根が、上顎に貼り付いている。頷くという大きな動作さえ、今の俺の身体には重すぎた。指先が、勝手に、ズボンの布地の上で細かく震えていた。その震えを、雪乃に気づかれたくなくて、俺は右手をそっと左の掌の中に隠した。隠した瞬間、隠したということ自体が、たぶん、一番の返事になってしまったことに気づいた。 雪乃の目は、もう、答えを待っていなかった。 彼女は、ノートの表紙を、膝の上で、そっと、伏せた。本を閉じるように、丁寧に。表紙のざらついた紙に、指の腹をひととき預けて、それから——顔を上げた。 睫毛の先に張っていた透明な膜が、まばたき一つで、頬の上へ、つう、と滑った。 白い頬に、一本、線が引かれた。 俺は、その涙を、どうしたらいいのか分からなかった。俺の書いたものが、人を泣かせるなんて、想定したことがなかった。俺の小説は、俺を生かしておくためだけに、最後のページへ向かって後ろから前に進んでいる、ただの呼吸器だった。誰かを揺らすために、書いたのではなかった。紙の繊維に、俺の肺の代わりを押し付けていただけだった。それなのに今、その呼吸器の空気の一部が、目の前の人間の、目の縁から、こぼれ落ちている。 それなのに、雪乃の、細い線の滑り落ちた頬が、笑った。 笑った、という言葉を選ぶのに、少し迷う。口角が、ほんの数ミリ、上に持ち上がっただけだった。睫毛の下は、まだ濡れていた。それでも、それは、俺が今日、屋上に登ってくるまで、一度も見たことのない種類の表情だった。泣きながら笑う、というのは、本の中でしか存在しない表情だと、俺は思っていた。活字と活字の隙間にだけ許された、非現実の表情だと。その表情が今、現実の頬の上で、四月の光を受けて、濡れたまま持ち上がっている。 「続きが、読みたい」 雪乃が、そう言った。 声は、ほとんど風に攫われた。けれど、口の形は、はっきりと、「続き」と、「読みたい」と、動いた。 俺の膝の裏が、がくん、と抜けた。
気づくと、俺はコンクリートの上に座り込んでいた。尻の骨が直接床に当たる痛みで、自分が立っていられなかったことを後から知った。ノートを抱え直そうとして、指先がうまく折れ曲がらない。シャーペンを握りすぎた日の、あの、関節が棒になる感覚にどこか似ていた。 「……続きって」 自分の声が、上ずっていた。 「まだ、途中で」 「知ってる」 雪乃は、俺の言葉を途中で引き取った。 「途中、だから、読みたい」 彼女の指が、伏せたノートの表紙を、もう一度、軽く叩いた。とん、と、二回。表紙が、薄く、返事のような音を鳴らした。その二回の音が、俺の胸の内側で、やけに長く尾を引いた。 俺は、息を吸った。 吸った息が、肋骨の一本一本を、内側から持ち上げていくのがわかった。弁当箱に消しゴムの削りかすが落ちた日から、ずっと半分だけ吸って生きていた息の、残り半分が、今、ようやく戻ってきた。そう錯覚するくらい、深い息だった。深く吸いすぎて、咳が出そうになった。喉の奥が、久しぶりに使う蝶番みたいに、小さく軋んだ。 「……笑わない?」 喉に引っかかった声で、そう訊いた。 訊いてから、自分の質問の間抜けさに、頬が熱くなった。目の前で泣いている人間に、笑わないかと訊くのは、筋違いだった。けれど雪乃は、笑わなかった。代わりに、首を、横に、ゆっくり振った。三つ編みの先が、その動きに合わせて、肩の前で小さく揺れた。 「笑わない」 そう言ってから、雪乃は、少しだけ口ごもった。 「笑えない、って方が、近い」 彼女は、自分の膝の上のノートを、抱え直すように、両腕で、上から包んだ。小さな動物を寒さから守る人の、その抱え方だった。俺の百円ショップの、角の潰れた、一番安いノートが、そうやって抱えられているのを見ているのが、怖いくらい、くすぐったかった。ノートの角の、少し潰れて毛羽立った部分が、雪乃のセーラー服の紺色に、ほんの僅かに、繊維を擦り付けているのが見えた。その擦れた一瞬の、布と紙の微かな音まで、拾えそうな気がした。 風が、三人目の誰かみたいに、俺たちの間を通り抜けていった。 給水塔の裏の、錆の匂いが、少しだけ薄まった気がした。代わりに、雪乃の側から、洗い立ての綿の、どこか日向に似た匂いが、ふっと流れてきた。気づいてしまってから、気づかなかったことにしようとして、俺は視線をコンクリートの継ぎ目に落とした。 雪乃は、ノートを、両手で、俺の方へ、差し出した。 「……返す」 返す、という言葉に、俺の指は、すぐには動かなかった。 「貸して、じゃなくて?」 訊くつもりのなかった言葉が、勝手に、口から出た。 雪乃の目が、少しだけ、丸くなった。それから、また、あの、泣いたまま笑う顔が、ほんの数ミリだけ戻ってきた。 「……貸して、は、ずるいから」 彼女は、そう言った。 「全部、一気に、読みたくないから。続き、書いて、また、一枚ずつ、読みたい」 書いて、という言葉の、軽さと重さに、俺は殴られた。 一年間、俺は、書くことを、誰にも頼まれていなかった。頼まれていないものを、誰にも読まれないまま、紙の後ろから前へ積み上げていた。その作業に、初めて、外から手が伸びてきた。書いて、と、他人の口が、俺の未来の行動を指定した。それは命令ではなく、約束の予感だった。約束、という言葉の形を、俺の中の辞書は、長いこと、空欄のままにしていた。その空欄に、今、薄い鉛筆で、誰かが初めて、文字を書き入れようとしていた。 俺は、ノートを、受け取った。 雪乃の指先と、俺の指先が、表紙の角で、ほんの一瞬、触れた。冷たくはなかった。むしろ、ぬるかった。さっきまで涙を拭いていた手の、戻り切らない体温だった。その温度が、指の第一関節から、手首、肘、肩の順で、遅れて俺の身体に届いた。届き切る頃には、雪乃の手は、もう、自分の膝の上に戻っていた。
五時間目は、もう、始まっている。 遠くの校舎のどこかで、教師が出席を取っている声が、風に千切れて届く。俺の名前も、彼女の名前も、今日はきっと、空席のまま読み上げられるのだろう。 「……明日も」 立ち上がりかけた雪乃が、俺の方を見ないまま、言った。 「ここ、来る?」 俺は、ノートを胸に抱え直した。 「来る」 声が、かすれた。けれど、かすれたまま、言葉の輪郭は崩れなかった。 「昼休み、二十分くらい、いる」 雪乃が、頷いた。頷く、という動作の、一回の縦揺れ。それだけで、明日の昼休みの四十五分が、俺の時間割の中で、急に、別の色に塗り替えられた。 彼女は、スカートの裾を払って、立ち上がった。上履きの爪先の外向きの傾きは、さっきよりは、真っ直ぐに戻っていた。鉄の扉の方へ、二歩、歩きかけて、雪乃は、一度だけ、振り返った。 「——本当に、続き、書いてね」 念を押すような、けれど、懇願にも近い声だった。 俺は、頷いた。頷いた拍子に、胸に抱えたノートの角が、肋骨の隙間に、さっきよりも少しだけ優しく、食い込んだ。 扉が、閉まる。ガチャ、と鍵の音がして、また、屋上は俺一人のものに戻った。 けれど、さっきまでの一人きりと、今の一人きりは、明らかに別物だった。 俺は、震える指で、ノートを開いた。書きかけの一文が、昼前と変わらない筆跡で、俺を待っている。 ——主人公は、昨日と同じ道を歩いていた。ただし、今日は、 シャーペンのノックを、一回、押した。 芯が、紙の繊維を、噛んだ。 四月の光の中で、俺の右手が、明日の昼休みへ向かって、やっと、一歩、踏み出そうとしていた。