第2話
第2話
翌日から、屋上に行けなくなった。
階段の前を通るたびに足が止まる。鉄扉の向こうに、あの声の主がまだいるような気がして。昼休みのチャイムが鳴ると、いつもなら真っ先に席を立っていた。購買でパンを買って、三階の奥を目指して。でも今日は、机に突っ伏したまま動けない。パンすら買いに行く気力がない。教室の喧騒が頭の上を通過していく。誰かの笑い声、椅子を引く音、「今日カラオケ行かね?」という軽い誘い。全部が俺と関係のない周波数で鳴っている。
腹が鳴った。仕方なく購買に向かう。昼休みのピークを過ぎた廊下は、行き場を持った人間たちで緩やかに流れている。俺はその流れの端を、壁に沿って歩く。水槽の底を這う魚みたいに。
自販機の前でお茶を買っていたとき、背後の会話が耳に引っかかった。
「——屋上で歌ってた人がいたらしいよ」
心臓が跳ねた。ペットボトルを掴む指に力が入る。振り返らない。振り返ったら怪しまれる。自販機の取り出し口にしゃがんだまま、息を殺す。
「えっ、マジ? 屋上って立入禁止じゃん」
「軽音のカネダ先輩が言ってた。めちゃくちゃ上手かったって」
「カネダ先輩って、あの三年の?」
「ベースの。なんか、ボーカルいなくて文化祭ヤバいらしくて。その声の人をスカウトしたいとか——」
声が遠ざかっていく。二人の女子が廊下の角を曲がって消えた。俺はしゃがんだまま動けなかった。膝が震えている。ペットボトルの結露が指の間を伝って、制服の裾に落ちた。
カネダ先輩。知らない名前だ。でも、軽音部。屋上。歌声。線が繋がっていく。あの足音は——軽音部の人間だったのか。
探している。俺の声を聞いた誰かが、俺を探している。
背筋に冷たいものが走った。見つかったらどうなる。また教室で名前を呼ばれる。「あいつが歌ってたらしいよ」と広まる。視線が集まる。中学のときと同じだ。目立ったら終わりだ。声を出したら、標的になる。
五限目の教室で、俺はずっと窓の外を見ていた。屋上のフェンスが見える。あそこに、もう俺の場所はない。風が吹いて、フェンスに引っかかったビニール袋がはためいている。それが手を振っているみたいに見えて、目を逸らした。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、廊下の向こうから声が聞こえた。
「だーかーら、ボーカルいないと出られないんだって。エントリー締め切り来月だよ?」
「わかってるけど、急に見つかるわけないじゃん」
「だからあの屋上の人を——」
「誰かもわかんないのに?」
俺は靴紐を結ぶふりをして、顔を伏せた。声の方向をちらりと見る。廊下の突き当たり、音楽室の前。三人の生徒が立ち話をしていた。一人はギターケースを背負っている。もう一人は——女子だ。背が高い。ショートカットで、制服の袖をまくっている。腕にシルバーのバングルが光った。
「私、絶対見つける。あの声、本物だったから」
はっきりとした声だった。通る声。聞き覚えがある。
——今の声、誰?
あのときの。屋上の。
血の気が引いた。靴紐を結ぶ手が止まる。心臓が喉元まで迫り上がってくる。あの声だ。間違いない。俺を追いかけてきた足音の主。顔は——この距離じゃよく見えない。見たくない。顔を覚えたら、廊下ですれ違うたびに怯えることになる。
俺は靴を履いて、逃げるように昇降口を出た。
次の日も、その次の日も、屋上には行かなかった。
昼休みが来るたびに、教室で机に伏せるか、図書室の隅に座るかの二択。図書室は人が多い。静かだけど、視線がある。ページをめくる音、椅子が軋む音、誰かの咳。全部が気になる。本の活字を追っても頭に入らない。集中できない。ここは俺の場所じゃない。
三日目の昼休み、図書室を出て当てもなく廊下を歩いていた。一階の東棟は、昼休みになると人が減る。教室が少ないからだ。理科室、美術室、そして——音楽室。
音楽室の前を通りかかったとき、ドアが半開きになっているのが見えた。中は暗い。昼休みに音楽室を使う人間はいないらしい。授業は午後からで、軽音部の活動は放課後だけだ。
何の気なしにドアの隙間から中を覗いた。グランドピアノが白い布をかけられて眠っている。譜面台が並んで、壁際にパイプ椅子が積まれている。窓からの光が、埃の浮かぶ空気を斜めに切っている。
そのとき、奥の壁に小さなドアがあるのに気づいた。
「練習室」と書かれたプレートが、蛍光灯の光を反射していない。暗い廊下側からだと見落とすような、地味なドアだった。試しに取っ手を引くと、重い手応えとともに開いた。鍵はかかっていない。
中は二畳ほどの狭い空間だった。壁一面に吸音材が貼ってある。灰色のウレタンが規則正しく並んで、外の音を吸い込んでいる。ドアを閉めると、世界が消えた。廊下の足音も、校庭の歓声も、何もかも。自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
心臓が静かになっていくのがわかった。
閉じた空間。外から遮断された空間。ここなら誰にも聞こえない。誰にも見つからない。屋上は風に声がさらわれる危険があった。風向き次第で、思わぬところまで届いてしまう。でもここは——壁が全部を吸い込んでくれる。
俺は吸音材の壁にそっと掌を当てた。柔らかい。指が少しだけ沈む。この壁が、俺の声を外に漏らさない。ここでなら——。
試しに、小さく声を出してみた。ほとんど吐息みたいな声。壁に吸い込まれて、反響しない。音が空間の中で死ぬ。外には何も漏れない。
もう少しだけ、声を出す。喉の奥が震える。メロディの断片が、自然と口からこぼれた。昨日イヤホンで聴いていた曲のサビ。声が防音室の空気を微かに揺らす。その振動が、壁に吸われて消える。出した端から消えていく声。それが、今の俺にはちょうどよかった。
目を閉じる。暗い。完全な暗闇じゃないけれど、瞼の裏は薄い赤で、屋上で感じたのと同じ色だった。でも風はない。風の代わりに、吸音材の匂い——少しだけ埃っぽくて、古い布みたいな匂いが鼻をくすぐる。
ここなら安全だ。
歌の途中で、不意にスマホが振動した。ポケットの中で、短い通知音。現実に引き戻される。画面を見ると、クラスのグループLINEだった。誰かが文化祭の話題を投げている。「軽音のライブ楽しみ」「ボーカル募集してるらしいよ」「屋上の幽霊歌手ってやつ?笑」。
幽霊歌手。
その四文字が、画面の中で光っている。スクロールすると、スタンプと笑いの絵文字が並んでいる。誰も本気にしていない。学校の噂なんてそんなものだ。来週には忘れられる。たぶん。でも「幽霊」という言葉が胸に刺さって抜けない。存在しないものの声。姿のない歌。俺の歌は、そういうものなんだろうか。
LINEを閉じて、スマホをポケットに戻した。防音室の静寂が戻ってくる。壁の吸音材が、俺を包んでいる。繭みたいだと思った。外の世界から隔てられた、小さな繭。ここに閉じこもっていれば、誰にも見つからない。
でも、繭の中にいるだけでは、何も始まらないことも知っている。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、壁越しにくぐもって聞こえた。立ち上がって、防音室のドアに手をかける。開ける前に、一度だけ振り返った。二畳の空間。灰色の壁。ここが、新しい居場所になるんだろうか。
音楽室を出て、廊下を歩く。教室に向かう生徒たちの流れに混じる。誰も俺を見ていない。透明なまま、水槽の底を這って戻る。
階段を上がるとき、掲示板の前で足が止まった。
「軽音楽部——文化祭出演者募集 ボーカル急募! 興味ある方は音楽室まで」
手書きのポスターだった。五線譜のイラストが添えてある。隅に小さく名前が書いてあった。
「二年 金田夏帆」
屋上の声と、この名前が一本の線で繋がった。探しているのは、この人だ。俺を。俺の声を。
ポスターから目を剥がして、教室に入った。自分の席に座る。窓の外、四月の雲が流れていく。風が吹いている。屋上の風とは違う、窓ガラス越しのよそよそしい風。
ポケットの中で、さっきの防音室の静寂がまだ指先に残っている。あの壁の柔らかさ。声が吸い込まれていく感覚。安全な場所。
でも、安全な場所は、いつも長くは続かない。
五限目の始業チャイムが鳴る。教科書を開く。文字の列がまた意味を失う。頭の中に、手書きのポスターの文字がちらつく。ボーカル急募。金田夏帆。屋上の声。全部がぐるぐると回って、授業の内容を押し出していく。
明日も、あの防音室に行こう。
そう決めた瞬間、小さな安堵と、それよりもう少し大きな不安が、胸の中で静かにぶつかった。