第3話
第3話
雨の日は好きだ。
正確に言えば、雨の日の放課後が好きだ。部活のグラウンド練習が中止になって、廊下を走る運動部の声が消える。傘を持っていない連中が昇降口で固まって、誰かの迎えを待つ。校舎の中が普段より静かになる。人の流れが変わって、東棟に来る人間がさらに減る。
防音室に通い始めて五日目だった。
昼休みだけでは足りなくなっていた。十五分で食べて、移動して、歌える時間はせいぜい二十分。喉が温まった頃にチャイムが鳴る。だから雨の放課後は、俺にとって特別な時間だった。六限が終わって、帰りのHRが終わって、教室から人がまばらになるのを待って、俺は東棟に向かう。
音楽室の鍵は、放課後は開いている。軽音部が使うからだ。でも雨の日、軽音部の練習場所は第二視聴覚室に移ることが多い。音楽室のアンプの数が足りないとかで、視聴覚室の機材を使うらしい。誰かがそう話しているのを廊下で聞いた。つまり雨の放課後、音楽室は空く。
ドアを細く開けて、中を確認する。暗い。人の気配がない。グランドピアノの白い布が、窓から差す灰色の光をぼんやり反射している。雨粒が窓を叩く音が、音楽室の広い空間に柔らかく響いている。
奥の防音室に滑り込む。ドアを閉める。世界が消える。
雨の音すら聞こえなくなる。自分の呼吸と心臓の音だけが残る。五日間でわかったことがある。この防音室は、ドアを完全に閉めると外の音をほぼ遮断する。同時に、中の音も外にはほとんど漏れない。昨日、昼休みに中で歌った後、廊下にいた生徒の様子を窺ったが、誰も何も気づいていなかった。
安全だ。
イヤホンを片耳に入れて、曲を流す。最近見つけたインディーズバンドの曲。知名度が低いから、万が一鼻歌が漏れても誰も原曲を知らない。そういう計算をしている自分が少し嫌になる。でも用心に越したことはない。
Aメロから入る。防音室で歌うとき、屋上とは感覚が違う。風がないから、声がどこにも飛んでいかない。壁の吸音材が全部受け止める。だから安心な反面、自分の声の粗が全部聞こえる。ピッチのズレ、息継ぎの雑さ、声の震え。屋上では風が誤魔化してくれていたものが、ここでは剥き出しになる。
でも、だからこそ、少しずつ丁寧に歌うようになった。
サビに入る。声が自然と大きくなる。防音室の空気が震える。胸の奥から声が押し出されてくる。この感覚が好きだ。体の内側にあるものが、喉を通って形になる瞬間。歌詞の意味なんて半分もわかっていないけれど、メロディに声を乗せると、自分の中の何かが解放される気がする。
二番のサビで、さらに声量が上がった。防音室だから大丈夫だと思っていた。目を閉じて、吸音材の壁に囲まれた小さな世界の中で、俺は初めてに近いくらい全力で声を出していた。
曲が終わる。イヤホンから次の曲のイントロが流れ始める。もう一曲——。
そのとき、防音室のドアが開いた。
光が差し込んだ。音楽室の灰色の光。その光の中に、人影が立っていた。
ショートカット。制服の袖をまくった腕。シルバーのバングル。
「——やっぱり」
金田夏帆だった。
体が固まった。声が喉に詰まって、呼吸すら止まった。目が合った。彼女の目は大きくて、黒くて、雨の日の光を映して少しだけ灰色がかっていた。驚きではなく——確信の顔をしていた。ずっと探していたものを、ついに見つけた人間の顔。
「屋上の、あんただったんだ」
彼女が半歩、中に踏み込んだ。俺は反射的に後ずさった。背中が吸音材の壁にぶつかる。逃げ場がない。防音室は二畳しかない。出口は彼女の背後のドアだけだ。
「待って、逃げないで」
彼女が手を上げた。制止のジェスチャー。でも俺の体はもう動いていた。考えるより先に足が出る。彼女の横をすり抜けようとした。肩が触れそうになる距離。彼女が身を引いた。その隙にドアの枠を掴んで、防音室から飛び出した。
音楽室を横切る。グランドピアノの角を避ける。廊下に出ようとドアに手をかけた——そのとき、足元のケーブルに躓いた。
床に這わされた黒いケーブル。音楽室の壁にあるスピーカー端子から伸びた、校内放送用の配線。普段は壁際にまとめてあるはずのそれが、なぜか床を横切っていた。
つま先が引っかかって、体が前のめりになる。咄嗟に手を伸ばして、壁のなにかを掴んだ。金属の感触。冷たくて、小さなスイッチのような——。
ブツン、と音がした。
壁の校内放送パネルだった。非常用のマイクスイッチ。音楽室から校内放送に直結する緊急用の回線。普段はカバーがかかっているはずのそれが、むき出しになっていた。配線工事の途中だったのか、カバーが外されて、スイッチが露出していた。
俺が掴んだのは、そのスイッチだった。
一瞬の静寂。それから、校舎中のスピーカーから音が鳴った。
最初はハウリング。キイイイン、という金属的な悲鳴が廊下に反響した。それが収まった直後——音楽室内の音が、校内放送のスピーカーから流れ出した。
イヤホンから漏れた曲のイントロ。そして、俺の声。防音室で歌っていた声が、配線を通じてパネルに拾われていたのか。数秒間——ほんの数秒間だけ。サビの残響が、校舎の廊下と教室のスピーカーから響いた。
俺は手を離した。スイッチが戻る。スピーカーが沈黙する。
廊下に、雨の音だけが戻った。
振り返ると、金田夏帆が音楽室の中に立っていた。目を見開いて、天井のスピーカーを見上げていた。それから視線を俺に戻した。何か言おうとした。口が動いた。でも俺にはもう何も聞こえなかった。
走った。廊下を、階段を、昇降口を。雨の中に飛び出した。傘は教室に置いたままだ。制服が一瞬で濡れた。冷たい。四月の雨は冬の名残を含んでいて、肌を刺す。構わない。走り続けた。正門を抜けて、通学路を走って、角を曲がって、もう一つ曲がって、息が切れて、膝に手をついて、雨の中でしゃがみ込んだ。
数秒だ。たった数秒。でもあの数秒で、俺の声が校舎中に流れた。放課後だから人は少なかったはず。でもゼロじゃない。部活の生徒がいた。教室に残っていた生徒がいた。職員室の教師がいた。
雨粒が頬を伝っている。涙じゃない。雨だ。そう思い込もうとしたけれど、視界がにじんでいた。
家に帰って、制服を脱いで、シャワーを浴びた。熱い湯が冷えた体を打つ。その物理的な刺激で、やっと呼吸が整ってきた。でも頭の中は止まらない。あの数秒間が、無限ループで再生され続ける。スイッチの感触。ハウリングの音。スピーカーから流れた自分の声。
部屋に戻って、スマホを見た。見なければいいのに。見ずにいられなかった。
学校の裏アカウントが、もう動いていた。
『放課後に校内放送から歌流れたんだけど何???』
『音楽室あたりからっぽい。めっちゃ上手くなかった?』
『幽霊歌手じゃんwww ついに正体現したかw』
『てか録音した人いる?』
『これ。途中からだけど』
動画のリンクが貼ってあった。押せない。押したくない。でも指が動く。再生される。雨のノイズと、スピーカー越しの歪んだ音。その中に、確かに俺の声があった。数秒間のサビ。音質は悪い。でも声は——はっきり聞こえた。
『うわ、まじで上手い。誰これ』
『軽音の人?』
『軽音じゃないっぽい。カネダ先輩が探してるってよ』
スクロールする手が止まった。
『てか目撃情報。音楽室から走って出てったの、二年の桐生じゃね?』
俺の名前が、画面の中に浮かんでいた。
『桐生って誰。全然知らないんだけど』
『一組の窓際。存在感ないやつ』
『あー、声聞いたことない人?笑』
『まさかの爆声で草』
スマホを裏返しにして、机の上に置いた。画面を下にして。光が見えないように。通知音が続けて鳴る。バイブレーションが机を小さく震わせる。
布団に潜り込んだ。頭まで被る。暗闇の中で、心臓がまだ速い。
明日、教室に入ったら。廊下を歩いたら。視線が来る。名前を呼ばれる。「あいつが歌ってたやつ」と指をさされる。透明でいられなくなる。二年かけて作った透明が、たった数秒で砕けた。
中学のときと同じだ。声を出して、目立って、標的になる。また同じことが始まる。
布団の中で膝を抱える。体を小さくする。スマホの振動がまだ続いている。世界が俺を見つけようとしている。俺は見つかりたくない。消えていたい。誰の目にも映らない場所に——。
明日、学校に行けるだろうか。
雨が窓を叩く音を聴きながら、目を閉じた。眠れるはずがない。頭の中で、スピーカーから流れた自分の声が、何度も何度も響き続けている。あの声は確かに俺のもので、そしてもう、俺だけのものではなくなっていた。