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声よ、空に届け

第1話 第1話

第1話

第1話

四月の教室は、花粉と埃と、新学期特有の落ち着かない空気で満ちている。窓から入る光が埃の粒子を照らして、それが緩やかに漂うのを見ていると、自分もああやってどこにも辿り着けずに浮いているだけなんじゃないかと思う。

俺はその空気の中で、できるだけ小さく息をする。窓際の最後列、壁に一番近い席。担任が「好きなところに座っていい」と言った初日に、真っ先にここを選んだ。誰の視界にも入らない場所。誰の会話にも挟まらない場所。教室という水槽の中で、俺は底に沈んだ小石みたいにじっとしている。周りの連中が軽やかに泳ぎ回っているのを、水圧に押しつぶされながら眺めている。

「桐生、次お前な」

国語の時間。教科書の音読が順番に回ってくる。三列前の女子が読み終わって、列が後ろに移る。俺の番だ。教科書を持つ手が、反射的に力を込める。指の腹が白くなるのが見える。

「すみません、喉の調子が——」

自分の声がひどく小さく聞こえる。蚊の鳴くような、空気に溶けて消えそうな声。

「またか。わかった、次」

担任の声に呆れが混じる。二年になってまだ一週間なのに、もう三回目だ。このままいけば、どこかで担任の堪忍袋の緒が切れる。わかっている。でも、声を出すことが怖い。教室で声を出すと、中学のときの記憶が喉元まで込み上げてくる。

——お前の声キモいんだよ。

——しゃべんなって言ってんだろ。

耳の奥で、もう存在しないはずの声がリフレインする。あのときの教室の蛍光灯の色まで思い出せる。冬の、やけに白い光。机に突っ伏した俺の後頭部に、丸めたプリントが飛んできた感触。紙がぶつかる軽い衝撃と、それに不釣り合いなほど重い屈辱。笑い声。複数の笑い声が重なって、一つの大きな塊になって俺を潰した。

「……」

シャーペンを握り直す。ノートの端に意味のない線を引く。授業はもう先に進んでいる。俺を置いて。いつもそうだ。世界は俺を待たない。教師の声が遠い国の言葉みたいに頭の上を通過していく。黒板のチョークが擦れる音だけが妙に鮮明に聞こえる。

昼休みのチャイムが鳴ると、教室は一気に騒がしくなる。グループができて、机がくっつけられて、コンビニの袋がガサガサ鳴る。笑い声、呼び合う名前、椅子を引きずる音。その全部が、俺とは関係のない世界で鳴っている。俺は購買で買ったパンを制服のポケットに突っ込んで、誰にも声をかけずに廊下に出る。

屋上への階段は、三階の奥にある。「立入禁止」の札がかかった鉄扉は、取っ手を持ち上げながら押すと開く。去年の夏に偶然見つけた。蒸し暑い教室から逃げ出して、あてもなく校舎の隅を歩いていたとき、この扉だけが錆びた蝶番の軋みとともに開いた。それ以来、ここが俺の場所だ。誰も来ない。来る理由がない。給水塔の裏側は、風が通り抜けるだけの場所だ。

コンクリートの壁に背中を預けて、パンを齧る。四月の風がまだ冷たい。制服のシャツ一枚では少し寒いが、その冷たさが逆に心地いい。体の輪郭がはっきりする。自分がここにいる、という感覚が薄れずに済む。屋上のフェンス越しに、校庭でサッカーをしている連中の声が聞こえる。遠い。ここからだと、全部が遠い。地上の人間たちが小さく見える。彼らの歓声は風に千切られて、意味を失った音の断片になって届く。

パンを食べ終えて、イヤホンを耳に入れる。スマホの画面をスクロールして、いつもの曲を探す。再生ボタンを押す前に、周囲を確認する癖がついている。給水塔の左右を覗き込む。鉄扉の方向に耳を澄ます。誰もいない。当たり前だ。ここには誰も来ない。

イヤホンを片耳だけ外す。

最初は、息を吐くだけだ。メロディに合わせて、唇がかすかに動く。音にならない音。それがだんだん、喉の奥から細い糸みたいに出てくる。風に紛れるくらいの声。自分にしか聞こえない声。喉が震えて、振動が胸骨に伝わる。その小さな共鳴が、体の内側にだけ広がっていく。

これが、俺の歌だ。

誰にも聞かせたことがない。聞かせるつもりもない。ただ、歌っているときだけ、胸の中の結び目がほんの少しだけ緩む。息がしやすくなる。世界が敵じゃなくなる、わずかな時間。教室にいるときはずっと水の底にいるみたいに息苦しいのに、ここで声を出すと、水面に顔を出せる気がする。

サビに差しかかると、少しだけ声が大きくなる。自分でも気づかないうちに。風が強く吹いて、下の校庭の声をさらっていく。その風に乗せるみたいに、俺の声も空に溶けていく。目を閉じると、瞼の裏が四月の陽光で赤く透ける。その赤い暗闇の中で、声だけが自由に伸びていく。

歌っている間は、中学のことを忘れられる。

合唱コンクールの練習で、ふざけて一人だけ大きな声で歌った。気持ちよかった。音楽室の天井に自分の声が反響して、体ごと震えるみたいな感覚があった。でもその直後、クラスの男子に「調子乗んな」と言われた。練習後の教室で、四人に囲まれた。壁際に追い詰められて、胸ぐらを掴まれたわけじゃない。ただ立っていただけだ。でもあの四つの視線の圧力は、拳よりも重かった。その日から、声を出すたびに笑われるようになった。最初は合唱だけだった。それが、授業中の発言に広がり、休み時間の会話に広がり、最後には存在そのものが「ウザい」ということになった。

声を出さなければ、消えていられる。

消えていれば、傷つかない。

高校に入って、知り合いのいない環境を選んだ。市内の端にある公立校。中学の連中はほとんど来ない。ここでなら、最初から「いない人」として始められる。透明でいられる。

それでいいと思っていた。

給水塔の裏で歌うこの時間さえあれば、それでいい。

——と、思っていた。

風向きが変わった瞬間、足音が聞こえた。

コンクリートの上を踏む、軽い足音。スニーカーだ。ゴム底がざらついたコンクリートを擦る、乾いた音。屋上の鉄扉が、かすかに軋んだ音を立てて閉まる残響。

俺の声が、喉の奥に引っ込んだ。

全身が凍りつく。指先からスマホが滑り落ちそうになるのを、かろうじて掴み直す。イヤホンのコードが首に絡まる。心臓が耳の内側で鳴っている。血液が一気に頭に昇って、視界の端がちらつく。

足音が止まった。

給水塔の角を曲がれば、俺が見える距離。今、ここに誰かがいる。俺が歌っていたのを——聞いた?

背中が壁に張りつく。息を止める。一秒。二秒。風が吹いて、校庭の歓声が遠くで上がる。自分の心臓の音と、風の音と、遠い歓声。三つの音が重なって、時間が引き延ばされたみたいに長い。

「——今の声、誰?」

女の声だった。独り言のように、でも確かにこちらに向けて。高すぎず低すぎず、不思議と通る声だった。怒っている感じでも、からかっている感じでもない。純粋な疑問。それが余計に怖かった。

俺は考えるより先に動いていた。壁から背中を剥がし、給水塔の反対側に回り込む。しゃがんだまま、フェンス沿いに鉄扉まで走る。膝が地面を擦る。制服の裾が引っかかる。構わない。

鉄扉を引き開けて、階段に飛び込む。三段飛ばしで降りる。踊り場で足がもつれかけて、壁に手をついた。掌にコンクリートの冷たさとざらつきが残る。息が上がっている。心臓がまだ暴れている。

三階の廊下に出ると、昼休みの喧騒が戻ってきた。誰も俺を見ていない。当たり前だ。俺は透明人間だから。でも今、屋上にいた誰かには——。

聞かれた。

歌を。

俺の、誰にも聞かせたことのない声を。

教室に戻って、自分の席に座る。机に突っ伏す。心臓がまだ速い。指先が冷たい。シャツの背中が汗で張りついている。頭の中で、さっきの声が繰り返される。

——今の声、誰?

知らない声だった。同じクラスじゃない。たぶん。でも確信はない。そもそも俺はクラスメイトの声をほとんど覚えていない。誰とも話さないから。廊下ですれ違う女子の声なんて、全部同じに聞こえる。でもあの声は——いや、考えるな。考えても仕方ない。

大丈夫。聞こえたとしても、給水塔の裏に誰がいたかまではわからないはずだ。俺は走って逃げた。顔は見られていない。

大丈夫だ。

たぶん。

五限目のチャイムが鳴る。午後の授業が始まる。教科書を開く。文字が目に入らない。活字の列が意味を持たない黒い点の並びに見える。窓の外、屋上のフェンスが見える。あそこにまだ、さっきの誰かがいるんだろうか。

俺の居場所は、あの給水塔の裏だけだった。

もしあそこにもう行けなくなったら、俺にはどこにも——。

ノートに書いた意味のない線を、シャーペンでなぞる。何度も、何度も。同じ線の上を。インクが紙に食い込んで、裏まで跡がつく。芯が軋む小さな音が、自分だけに聞こえる。

窓から差す四月の光が、机の上に長い影を落としている。放課後までまだ三時間ある。教室の中で、俺だけが止まっている。

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