第2話
第2話
「見てたなら叩いてみなよ」
差し出されたバチを、僕は見つめていた。木の表面が使い込まれて飴色に光っている。握る部分だけが少し白くて、誰かの手汗を何百回も吸ってきたのだとわかる。彼女の指先から、まだ微かに振動が伝わっているように見えた。
「……いや、僕は」
「通りすがり?」
「雨宿りで」
「ふうん」
彼女はバチを引っ込めなかった。腕を伸ばしたまま、こちらを見ている。試すような目ではなかった。ただ事実を確認するように、僕という人間を見定めている。その視線の強さに、覚えがあった。試合前の神崎が相手チームのポイントガードを観察するときの、あの目。観察というより、測定に近い。
「旧校舎に人が来るの、久しぶり」
彼女はそれだけ言って、バチを太鼓の上に置いた。タオルで首筋の汗を拭きながら、部屋の隅に歩いていく。そこにペットボトルが転がっていた。キャップを開ける音が、静かな部屋に響く。
僕はようやく部屋の中を見回す余裕ができた。
埃っぽい空気。天井の蛍光灯は一本だけ点いていて、残りは切れたまま放置されている。窓際に古い机が四つ、壁に沿って積まれている。その向こうの壁に、色褪せたポスターが二枚。一枚は文化祭の案内で、日付は三年前のものだった。もう一枚は——「和太鼓部 部員募集中!」。画用紙に手書きのマジックで、太鼓のイラストが添えてある。その横に、白い紙がガムテープで貼られていた。
『活動人数不足により、本年度五月末日をもって廃部届を提出予定。顧問・山中』
太鼓は部屋の中央に一台だけ。胴の部分に細かい傷がいくつもあって、打面の皮は端の方が少しめくれている。それでも、さっきあれだけの音を出していた。たった一台で、たった一人で。
「和太鼓部、なんだ」
「見ればわかるでしょ」
彼女は水を飲み終えて、タオルを肩にかけたまま太鼓の横に戻ってきた。それから僕の制服を見て、少しだけ眉を上げた。
「二年?」
「うん」
「何組」
「三組」
「私も。秋山凜」
名前を聞いて、記憶を探る。三組の秋山。始業式のとき、自己紹介で何か言っていたかもしれない。思い出せない。僕はあの時間、足元しか見ていなかった。
「桐谷蓮」
「知ってる」
その言葉に、背中が冷たくなった。知ってる。何を。噂か。神崎たちが広めた話か。身体が半歩引いたのが、自分でもわかった。
「席、最後列の窓際でしょ。いつも外見てる人」
それだけだった。秋山は特に何の感情もなさそうに言って、太鼓の上のバチを拾い上げた。一本を自分で持って、もう一本をまた僕の方に差し出す。
「で、叩かないの」
「叩いたことないし」
「だから叩いてみなって」
押しが強い。断る理由を探したけれど、出てこなかった。正確には、断りたくない自分がいた。さっきの音が、まだ耳の奥に残っている。床を通じて伝わってきた振動が、足の裏に焼きついている。あれを自分の手で鳴らしたらどうなるのか。その好奇心を、理性で抑え込む前に——手が動いていた。
バチを受け取った。思ったより軽い。いや、軽くはないけれど、握った瞬間に手に馴染む重さだった。バスケットボールを掴んだときとは違う。もっと細くて、もっと素直な感触。木の温度が、掌に伝わる。
「そこに立って。正面。腕を上げて——そう、もっと高く。振り下ろすだけ。簡単でしょ」
言われるまま、太鼓の前に立った。打面が目の前にある。黄色がかった皮の表面に、無数の打痕が刻まれている。全部、彼女がつけたものなのだろうか。
右手を振り下ろした。
ドン、と音が鳴った。——鳴った、というより、空気が揺れた。バチが皮に当たった衝撃が、手首から肘、肘から肩、肩から胸に伝わってくる。身体の真ん中を、音が通り抜けていく感覚。イヤホンで聴く音楽とは全く違う。自分が音の発生源になるということの、圧倒的な手応え。
もう一回。左手も振り下ろす。ドン。右、左、右。ドン、ドン、ドン。でたらめだった。リズムなんて考えていない。ただ腕を振り下ろして、音を出して、その振動を全身で受け止める。それだけのことを繰り返した。
三十秒くらい経ったところで、何かが変わった。
自分でもわからない。ただ、右手と左手の間隔が一定になっていくのを感じた。速くなったり遅くなったりしていたリズムが、ある瞬間からぴたりと揃う。イヤホンで半年間聴き続けたドラムのビート——あの低音のパターンが、指先に降りてきたような感覚。頭で考えていない。身体が勝手に動いている。バスケでドリブルするとき、リズムは考えるものじゃなかった。手首のスナップと床の反発が自然に噛み合って、ボールが手の一部になる。それと同じことが、いま起きている。バチと打面と、その間にある空気。全部が一つのリズムの中に収まっていく。
ドンドン、ドン。ドンドン、ドン。
三連のパターンが自然に生まれて、繰り返しになった。テンポが少しずつ上がる。腕が熱い。手のひらが痺れてきた。それでもバチを放す気になれなかった。音が出るたびに、胸の奥の硬い塊が少しずつ溶けていくような——いや、溶けるんじゃない。叩き壊されていく。自分の内側にあるものを、自分の手で叩き壊している。
「——ストップ」
秋山の声で、手が止まった。息が上がっている。いつの間にか肩で息をしていた。額に汗が滲んでいる。制服のシャツはまだ雨で湿っていたはずなのに、それとは別の熱が身体中にこもっている。心臓がうるさい。
秋山は僕の正面に立っていた。さっきまでの淡白な表情が、完全に消えていた。目を見開いて、僕の手元——バチを握った手のひらを凝視している。
「何それ」
「え?」
「初めてって言ったよね、今」
「うん」
「嘘でしょ」
秋山が一歩近づいた。僕の右手からバチを取り上げて、打面に残った打痕を指でなぞる。それからもう一度、僕の顔を見た。さっきとは違う目だった。測定じゃない。もっと切迫した、何かを見つけた人間の目。
「打点がほとんどブレてない。初めて叩いた人間の音じゃない」
「でも、本当に初めてで」
「リズム感がおかしい。普通、初心者はテンポキープできない。なのにあんた、途中から三連を均等に刻んでた。しかも加速しながら」
そんなこと、自分では気づかなかった。ただ気持ちよく叩いていただけだ。身体が勝手に、としか言いようがない。
秋山が腕を組んだ。窓の外では雨がまだ降っていて、錆びた窓枠を水滴が伝っている。西日は完全に雲に隠れて、部屋の中は蛍光灯の白い光だけになっていた。廃部届の白い紙が、壁の上で静かに存在を主張している。
「あんた、何者?」
その問いに答える言葉を、僕は持っていなかった。
何者でもない。去年のいじめでバスケを失って、クラスでの居場所を失って、自分が何なのかもわからなくなった人間。最後列の窓際で外を見ているだけの、透明な存在。それが桐谷蓮だ。
でも——手のひらが、まだ痺れている。
バチを握っていた場所が、じんじんと熱を持っている。さっきの振動が、指の一本一本に刻まれたまま消えない。あの音。あの衝撃。自分の腕を振り下ろして、自分の力で空気を震わせた、あの感覚。
「……ただの雨宿り」
僕はそう言って、バチを秋山に返した。彼女は黙って受け取ったけれど、その目は僕から離れなかった。
廊下に出て、旧校舎の裏口から外を覗くと、雨は小降りになっていた。走れば帰れる程度の雨。
背中に、秋山の声が追いかけてきた。
「明日も来なよ。放課後、ここ」
振り返らなかった。返事もしなかった。雨の中に走り出して、校門を抜けて、濡れたまま家まで走った。
イヤホンは、つけなかった。
耳の奥にまだ、太鼓の音が鳴っている。秋山のでもない、自分が叩いた音。あの一打の振動が、胸の底で小さく、けれど確かに残響している。手のひらを開いて、握って、また開いた。赤くなった掌の真ん中に、バチの感触がまだあった。
明日の放課後。旧校舎。
考えるな、と自分に言い聞かせた。関わるな。期待するな。あの場所に行けば、また誰かと関わることになる。関わればまた——。
信号が赤に変わって、足が止まった。雨粒が睫毛に落ちる。目を閉じると、暗闇の中であの音だけが鳴っていた。
ドンドン、ドン。ドンドン、ドン。
自分が叩いた三連のリズム。手のひらの痺れ。秋山の、あの目。
——何者、って聞かれたのは初めてだった。