第1話
第1話
誰にも気づかれないまま、二年生になった。
始業式の体育館は四月の湿気を含んでいて、整列した生徒たちの間に汗と制汗剤の甘い匂いが漂っていた。壇上で校長が何かを話している。マイクが割れた音を拾って、体育館の天井に反響する。僕はその音を聞き流しながら、視線を足元に落としていた。体育館の床は去年と同じワックスの光り方をしていて、自分の上履きのつま先だけがやけに白く浮いて見えた。周囲の生徒たちは隣同士で肘をつつき合ったり、小声で春休みの話をしたりしている。僕の両隣には、誰もいなかった。正確には、一人分ずつ間を空けて座られていた。意図的なのか偶然なのかは知らない。どちらでも同じことだ。
新しいクラスの掲示板を見たとき、知った名前がいくつかあった。神崎、宮本、須藤。一年のときバスケ部で一緒だった連中が、また同じクラスに振り分けられている。偶然だろうか。それとも教師は何も知らないのか。どちらでもよかった。もう関係のない人間たちだ。
教室に入ると、最後列の窓際が空いていた。誰も座りたがらないその席に、僕は迷わず鞄を置いた。窓の外には桜がまだ残っていて、風が吹くたびに花びらが駐輪場のアスファルトに散っている。きれいだとは思わなかった。ただ、窓の外を見ていれば誰とも目を合わせなくて済む。それだけのことだった。
「桐谷だ、桐谷」
斜め前の席で、誰かがひそひそ話しているのが聞こえた。名前のあとに続く言葉は聞き取れなかったけれど、想像はつく。去年の夏から秋にかけて、クラス中に広まった噂。バスケ部を辞めた理由について、神崎たちが流した話。全部、嘘だった。でもそんなことは、もうどうでもいい。反論する気力も、誤解を解きたいという欲も、とっくに擦り切れていた。噂は僕の知らないところで勝手に育って、勝手に定着した。訂正しなかったのは認めたのと同じだと、誰かが言っていた。そうかもしれない。でも、誰に向かって否定すればよかったのか、僕にはわからなかった。
担任が自己紹介を促し、前の席から順に立ち上がっていく。自分の番が来たとき、僕は「桐谷蓮です」とだけ言って座った。三秒もかからなかった。誰かが小さく笑った気がしたけれど、振り返らなかった。
昼休みのチャイムが鳴ると、僕は教室を出て図書室に向かった。一年の三学期からずっとそうしている。図書室の奥の席、窓際のカウンター席が僕の定位置だ。本を読むわけじゃない。イヤホンをして、スマホで音楽を流して、四十五分をやり過ごす。司書の先生は何も聞かない。それがありがたかった。
イヤホンの中で、ドラムのビートが鳴っている。低音が腹の底に響くような、重たいリズム。一年の頃、バスケの試合前に聴いていたプレイリスト。消せばいいのに消せないまま、もう半年以上これを繰り返している。曲が変わるたびに、体育館の床を蹴る感覚がつま先に蘇る。あの頃の僕は、走ることが好きだった。コートの端から端まで、誰よりも速く。神崎にパスを出して、リターンをもらって、レイアップ。息が切れるのも忘れて。あのときの神崎は、まだ笑っていた。ナイスパス、と声をかけてくる横顔に、嘘はなかった——少なくとも僕はそう信じていた。いつから変わったのか、いまだにわからない。わかりたくもない。
でもそれは、もう去年の話だ。
放課後、僕は鞄を持って教室を出る。廊下ですれ違う生徒たちは部活のジャージに着替えていて、笑い声をあげながら走っていく。体育館の方向から、バスケットボールが床に弾む音が聞こえた。反射的に足が止まる。三秒だけ、その音を聞いた。ボールがリングに当たって跳ね返る、あの硬い金属音。誰かの「ドンマイ!」という声。半年前まで、あの輪の中にいた。いまは廊下の端で立ち止まっている人間がいることを、あの中の誰も知らない。指先が微かに動いたのは、ボールの感触を覚えているからだ。手のひらに残るゴムの粗い表面、指の腹で回転をかけるときの摩擦。身体が忘れてくれない。頭はとっくに諦めているのに、身体だけがまだあの場所に立っている。それから背を向けて、昇降口に向かった。
校門を出たところで、空が暗くなっていることに気づいた。スマホの天気予報は傘マークだった。朝は晴れていたから、傘を持ってきていない。
最初の一滴が額に落ちたのは、校門を出て五十メートルほど歩いたところだった。すぐに雨足が強くなって、制服のシャツが肩から濡れ始める。冷たかった。四月の雨はまだ冬の名残を含んでいて、首筋を伝う水滴がやけに冷たい。コンビニまで走るか、学校に戻るか。少し迷って、僕は校舎の方に引き返した。昇降口はもう施錠されているかもしれない。裏門の方なら、旧校舎の軒先で雨宿りができる。
旧校舎は、三年前に新校舎ができてからほとんど使われていない建物だった。一階の一部が倉庫として残っているだけで、二階から上は立入禁止のはずだ。僕はその軒先に駆け込んで、鞄から水滴を払った。雨の匂いがした。アスファルトと土と、少しだけ錆びた鉄の匂い。旧校舎の外壁に背中を預けて、イヤホンを耳に戻す。濡れたシャツが肌に貼りつく不快感を、音楽でごまかそうとした。
そのとき、イヤホン越しに何かが聞こえた。
最初はノイズだと思った。音楽に混じって、低い振動のようなものが断続的に響いている。イヤホンを外すと、それははっきりと聞こえた。規則的な、けれどどこか荒々しいリズム。壁を叩いているような、いや——何かを打ちつけているような重たい音。旧校舎の中から響いてくる。
雨はまだ止まない。僕は軒先を離れて、旧校舎の裏口に回った。ドアは閉まっていたけれど、鍵はかかっていなかった。錆びた取っ手を引くと、埃っぽい空気が顔に当たった。薄暗い廊下の奥に、かすかに光が漏れている。
音が、大きくなる。
一歩ずつ近づくごとに、空気が振動しているのがわかった。床を通じて、足の裏にまで伝わってくる。こんな音は聴いたことがない。イヤホンの中のドラムとは違う。もっと生々しくて、もっと近い。身体の内側を直接揺さぶるような低音。胸の奥の、自分でも触れたくない場所を、誰かが外側から叩いているような感覚だった。足が勝手に前に進んでいた。引き返そうという考えが浮かばなかった。
廊下の突き当たり、引き戸が半分開いていた。隙間から夕陽が——いや、雨雲の隙間からわずかに射し込む西日が、埃の粒子を金色に染めていた。その光の中に、人影が見えた。
錆びた窓枠。積み上げられた古い机。壁に貼られた、色褪せたポスター。その部屋の真ん中に、一台の太鼓が置かれていた。そしてその前に、一人の少女が立っている。
髪を後ろで一つに束ねて、制服の袖を肘までまくり上げて、両手にバチを握って。彼女は太鼓を叩いていた。全身を使って、跳ねるように、叩いていた。
僕は息を止めた。
音が、すごかった。たった一人で、たった一台の太鼓で、こんな音が出るのかと思った。リズムが加速して、彼女の身体が弾んで、バチの先端がぶれて見えなくなる。汗が飛ぶ。西日に光る。打面に当たるたびに皮が震えて、その振動が空気を伝って僕の肌を撫でていく。速い。重い。熱い。バスケのゲーム中、ゾーンに入ったときの感覚に似ている——周りの音が消えて、視界が狭くなって、世界が自分と一つのものだけになるあの瞬間。彼女はいま、まさにそこにいた。最後のひと打ちが空気を裂いて、それから——静寂。
彼女の肩が大きく上下している。息を整えるその数秒の間に、僕は後ずさろうとした。見てはいけないものを見た気がした。あれは練習じゃない。あんな打ち方は、誰かに見せるためのものじゃない。足が、古い床板を踏んだ。
ぎし、と音が鳴った。
彼女が振り向いた。暗い廊下に立っている僕を、まっすぐに見た。驚いた顔ではなかった。汗で額に張りついた髪の向こうから、真っ黒な目がこちらを射抜いている。
数秒、沈黙があった。雨の音だけが遠くに聞こえていた。
それから彼女は、右手に持ったバチをこちらに差し出した。
「見てたなら叩いてみなよ」
その声は、思ったより低くて、思ったより近かった。僕の心臓が、久しぶりに音を立てた。