第3話
第3話
翌日の放課後、僕は教室を出て昇降口に向かった。いつもと同じ動線。下駄箱で靴を履き替えて、校門に向かって——足が止まった。
昨日の雨が嘘みたいに晴れていた。四月の陽射しが中庭の木々を透かして、地面にまだらな影を落としている。風が吹くたびに、桜の最後の花びらが舞い上がって、すぐに落ちる。もう散り際だ。あと二日もすれば、全部なくなる。
手のひらを見た。赤みはとっくに引いているのに、バチを握っていた場所だけがまだ温かい気がする。気のせいだとわかっている。わかっているのに、指を曲げると昨日の振動が蘇ってくる。ドンドン、ドン。あの三連が、指先の奥で小さく脈打っている。
行くな。
自分にそう言い聞かせた。昨日と同じ台詞。でも昨日と違うのは、足がもう旧校舎の方を向いていることだった。
裏門を抜けて、旧校舎の裏口に回る。昨日と同じ錆びた取っ手を引くと、同じ埃っぽい空気が顔に当たった。廊下を歩く。あの部屋に近づくにつれて、音が聞こえてくる。規則的な打音。昨日より少し静かで、丁寧なリズム。基礎練習、というやつだろうか。
引き戸の隙間から覗くと、秋山凜が太鼓の前に立っていた。昨日と同じように袖をまくって、髪を束ねて。ただ、昨日のような激しさはない。一打一打を確かめるように、ゆっくりと打面を叩いている。
僕が床板を踏む音に、秋山が振り向いた。
「来たんだ」
驚いた様子はなかった。まるで来ることがわかっていたみたいに、バチを下ろして僕の方に向き直る。
「……雨宿りじゃないけど」
「知ってる。今日晴れてるし」
返す言葉がなかった。秋山は小さく口の端を持ち上げて、部屋の隅に歩いていった。積まれた机の裏から、もう一組のバチを引っ張り出してくる。
「はい」
「待って。僕、入部するとか——」
「別にそんな話してない。昨日の続き」
昨日の続き。その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。続きなら、いい。何かに所属するわけじゃない。ただ昨日の延長線上にいるだけだ。
バチを受け取って、太鼓の前に立つ。昨日と同じ場所。打面の黄色い皮が、蛍光灯の下で鈍く光っている。腕を上げて——振り下ろす前に、秋山が僕の横に来た。
「その持ち方だと手首痛めるよ。もっと下、ここ」
秋山の指が僕の手に触れて、バチの握り位置を三センチほどずらした。指先が冷たかった。
「軽く握る。卵持つみたいに。力入れすぎると音が死ぬから」
言われたとおりに力を抜くと、バチが手の中で少し遊ぶ。不安定な感じがしたけれど、振り下ろしてみると——昨日より澄んだ音が鳴った。
「そう、それ。じゃあ基礎打ちやるよ。右左交互に、テンポは私に合わせて」
秋山が隣に立って、自分のバチで机の縁を叩き始めた。カン、カン、カン、カン。一定のテンポ。僕はそれに合わせて太鼓を叩く。右、左、右、左。単純な交互打ち。それだけのことなのに、秋山のテンポに合わせようとすると自分のリズムが微妙にずれるのがわかる。
「走ってる。もう少し待って」
走ってる。速くなってるということか。意識して遅らせると、今度は遅れる。
「今度は重い。真ん中」
真ん中がわからない。頭で考えると余計にずれる。五分くらいそれを繰り返したところで、秋山がテンポを叩くのをやめた。
「考えすぎ。昨日の方がよかった」
「昨日はでたらめだったけど」
「でたらめでもリズムが生きてた。今は頭で数えてるでしょ。数えるな。聴け」
秋山がバチを置いて、腕を組んだ。窓の外を一瞬見てから、僕に視線を戻す。
「ところで、ひとつ聞いてもいい」
「何」
「うちの部、あと何人いると思う」
質問の意味がわからなくて、部屋を見回した。太鼓は一台。バチは二組。ペットボトルは一本。答えは明白だった。
「秋山だけ?」
「正解。去年の三年生が引退して、私一人。で、あの張り紙」
壁の廃部届の紙を、顎で示す。『活動人数不足により、本年度五月末日をもって廃部届を提出予定』。昨日も見た白い紙。
「六月に地区大会があるの。和太鼓のアンサンブル部門。最低四人で出場できる。でも五月末までに部員が四人揃わなかったら、廃部届が出て終わり」
秋山の声は平坦だった。感情を込めていないのではなく、何度も同じことを考えすぎて感情が擦り切れたような言い方。
「一年間、一人で続けてたの?」
「他にやることないし」
その言い方に、覚えがあった。僕が図書室で四十五分をやり過ごすのと同じだ。他にやることがないから、そこにいる。消去法で残った場所。
でも、昨日の演奏は消去法の音じゃなかった。あれは——もっと切実な何かだった。
「だから入部して、とか言わない。そういうの、言われて入る人は続かないから」
秋山は僕から目を逸らさないまま、そう言い切った。
「ただ、ここは放課後誰も来ない。教師も来ない。あんたが何しに来てもいい。太鼓叩きたいなら叩けばいいし、座ってるだけでもいい。邪魔しないなら」
誰にも見つからない場所。
その言葉が、胸に落ちた。
図書室には司書の先生がいる。教室には神崎たちがいる。廊下にはすれ違う生徒たちがいる。家に帰っても、母さんの気遣いの視線がある。どこにいても誰かの視界に入っていて、誰かの認識の中にいて、でも誰にも見えていない。透明なのに、存在だけは観測されている。その矛盾がずっと息苦しかった。
ここには、それがない。
旧校舎の埃っぽい空気。錆びた窓枠。切れかけの蛍光灯。壊れかけの太鼓。そして、僕の過去を知らない——いや、知っていても何も言わない秋山凜。
「……練習だけなら」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
秋山は一瞬だけ目を見開いて、それからすぐにいつもの顔に戻った。でも口元が少しだけ緩んだのを、僕は見逃さなかった。
「じゃあ基礎からやり直し。さっきの交互打ち、テンポ六十から」
「六十って」
「一秒に一回。メトロノーム代わりにスマホ使うから」
秋山がスマホを取り出して、メトロノームアプリを起動する。規則的な電子音が部屋に響き始めた。カチ、カチ、カチ。その音に合わせて、僕はバチを握り直す。さっき言われたとおり、卵を持つように。
右。左。右。左。
単調な繰り返し。でも意識を音だけに向けると、さっきより楽に叩けた。考えるな、聴け。秋山の言葉を反芻しながら、メトロノームの間に自分の打音を落としていく。
「うん。そのまま。止めないで」
秋山が静かに言った。その声に、さっきまでとは違う色が混じっていた。柔らかい、というのとは少し違う。安堵に近い何か。一人で叩いてきた太鼓の横に、もう一人の打音が加わった——ただそれだけのことに、彼女は確かに何かを感じている。
僕は黙って叩き続けた。カチ、ドン、カチ、ドン。メトロノームと太鼓。二つの音が交互に部屋を満たしていく。窓の外では夕陽が傾き始めていて、埃の舞う空気が少しずつ橙色に染まっていく。
三十分ほど叩いた頃、秋山がメトロノームを止めた。
「今日はここまで。手、見せて」
言われるまま右手を開くと、親指の付け根が赤くなっていた。秋山がそれを見て、少しだけ眉をひそめる。
「明日までに皮が硬くなる。最初はみんなそう。でも続ければマメになって、マメが潰れて、そのうち何も感じなくなる」
「痛そうだな」
「痛いよ。でもその頃には、やめられなくなってるから」
秋山はそう言って、自分の手のひらを見せた。指の付け根と掌の中央に、硬くなった皮膚の層がいくつもある。何百時間も叩き続けた証。
僕はバチを秋山に返して、鞄を拾い上げた。廊下に出ると、旧校舎の空気が少しだけ変わって感じた。行きと同じ埃っぽさなのに、息が楽だった。
裏口のドアを開けると、夕暮れの空が広がっていた。雲の端がオレンジ色に燃えている。校庭の向こうから、野球部の掛け声が小さく聞こえる。
「桐谷」
振り返ると、秋山が廊下の奥に立っていた。逆光で表情は見えない。
「明日、テンポ八十やるから。覚悟しといて」
今度は、返事をした。
「わかった」
それだけ言って、旧校舎を出た。校門に向かって歩きながら、右手を握った。親指の付け根がじんじんする。昨日とは違う痛み。昨日の痺れは余韻だったけれど、今日の痛みは約束だ。明日もあの場所に行く。テンポ八十で叩く。その先に何があるかは知らない。
ポケットからイヤホンを出しかけて、やめた。
代わりに耳を澄ませると、下校する生徒たちの話し声や、遠くの電車の音や、風が木の葉を揺らす音が聞こえた。その全部がリズムに聞こえる。世界は最初から音で満ちていて、僕はずっとイヤホンでそれを遮断していただけだ。
家に着いて、部屋の机に座って、スマホを開いた。検索欄に「和太鼓 基礎打ち」と入力する。動画がいくつも出てきた。構え方、バチの軌道、腰の入れ方。秋山が教えてくれたこと以外にも、覚えることが山ほどある。
画面をスクロールする指が止まった。
あと二人。五月末までに、あと二人。
それは僕の問題じゃない。僕は「練習だけなら」と言っただけで、部員になったわけじゃない。廃部届がどうなろうと、関係ない。
——本当に?
手のひらの痛みが、嘘をつくなと言っている気がした。