第2話
第2話
二日目の朝も、教室は昨日と同じ顔をしていた。
違うのは、昨日まで消毒液の匂いがしていた机に、もう誰かの体温が染みついていること。たった一日で、人は場所を自分のものにする。ペンケースの置き方、椅子の引き具合、机に肘をつく角度。三十五人分の癖が、一晩で教室の空気を塗り替えていた。
俺の机だけが、まだ何も変わっていなかった。
窓際最後列。今日も日差しが斜めに差し込んで、天板の右半分だけを白く光らせている。左半分は自分の影。光と影の境目がちょうど机の真ん中を走っていて、ノートを開くとページの右側だけが眩しい。カーテンを引こうかと思ったが、隣の席は空席で、その隣の女子——たしか沢田——がカーテンを背もたれ代わりにしていたから、やめた。些細なことで存在を主張するのは、透明人間の流儀に反する。
チャイムが鳴って、吉岡が出席簿を持って入ってきた。
「じゃ、出席取るぞー」
昨日と同じ声、同じテンポ。吉岡の出席確認には癖がある。名前を読んで、返事を聞いて、次に進む。そのあいだに視線を上げて顔を確認する生徒と、名簿だけ見て流す生徒がいる。吉岡がどちらをやるかで、そいつが教師の中でどういう位置にいるかが分かる。
「赤城——」視線を上げる。 「石川——」視線を上げる。 「上田——」名簿だけ。 「大西——」名簿だけ。
規則性がある。というより、規則性しかない。吉岡の目が上がるのは、昨日の自己紹介で印象に残った生徒だけだ。声が大きかったか、何か面白いことを言ったか、あるいは容姿が目を引いたか。
「木下——」名簿だけ。
次は、桐谷のはずだった。
吉岡の唇が動いた。俺の名前の「き」の形を一瞬だけ作って、そのまま「こ」に滑った。
「河野——」 「はい」
今日も飛ばされた。
二日連続だ。一度目は事故だと思えた。名簿を見間違えた、ページが貼りついていた、いくらでも理由はつく。でも二日続けば、それは構造だ。吉岡の脳内の出席簿には、最初から俺の名前が印字されていない。
後ろの席の誰かが小さくあくびをした。欠番に気づいた人間は、この教室にいない。
俺は出席簿の代わりに、頭の中の地図を更新した。
教室の権力構造は、二日目にしてほぼ固まっていた。中心にいるのは藤宮凛也。昨日の観察に修正を加えると、藤宮の影響圏は俺が思っていたより広い。五人の取り巻きだけじゃなく、教室の半分近くが藤宮の引力に捕まっている。
窓際の前方三列が藤宮の領土だ。朝、藤宮が教室に入ると、最初に声をかけるのは右隣の中村。「おはよ」の一言で中村の一日が始まる。返事がなければ中村の顔は曇り、「おう」と返されれば安堵する。たったそれだけの儀式に、中村は自分の感情を賭けている。自覚はないだろう。あるいは、自覚した瞬間に壊れるから、無自覚でいることを選んでいるのかもしれない。
もうひとりの取り巻き、坂口は中村より賢い。藤宮に媚びるのではなく、藤宮と敵対する人間を先回りして潰す。昨日の自己紹介で転校生の男子がちょっとウケたとき、坂口が休み時間にその転校生に近づいて「お前おもしれーな」と言ったのを見た。あれは褒めているんじゃない。序列を教えている。お前は面白い側に置いてやるから、こっちに来い。その意味が分からない転校生は、今朝すでに藤宮グループの外縁に組み込まれていた。
女子側の構造はもう少し複雑で、もう少し残酷だった。
三上が情報の中継点だということは昨日の時点で見えていた。今日分かったのは、三上自身がその立場を戦略的に運用していることだ。朝のうちに三上は四人の女子と個別に話をした。それぞれ別の話題。でも全部に共通していたのは、会話の最後に「それ、まだ誰にも言わないでね」がついていたこと。
聞こえていたわけじゃない。窓際最後列からでは声は届かない。でも三上が人差し指を唇に当てる仕草を四回繰り返したのは見えた。「誰にも言わないで」は秘密の共有じゃない。情報を渡す代わりに忠誠を回収する取引だ。四人の女子はそれぞれが三上に借りを作り、三上は四人分の情報網を手に入れた。クラス替えからまだ二日だ。
そして吉岡。教壇に立つ人間が教室の権力構造に影響を与えないことは、原理的にありえない。吉岡は藤宮を贔屓しているが、本人に贔屓の自覚はない。数学の授業中、吉岡が問題を解かせるとき、最初に当てたのは藤宮だった。藤宮が正解すると「さすが」と言い、不正解でも「惜しい、いい線いってる」と言った。他の生徒が正解しても「はい、正解」だけだ。この差は教室中に伝染する。教師に褒められる人間の近くにいると、自分も少しだけ光を浴びた気分になれる。太陽に近い惑星ほど明るいのと同じ理屈で、藤宮の周りに人が集まる。
俺は窓際最後列で、その引力圏の外にいる。冥王星よりもまだ遠い場所。でも遠いからこそ、星座の全体像が見える。渦中にいたら、自分がどの星の光を浴びているかなんて分からない。
四時間目のHRで、吉岡が文化祭の話を切り出した。
「えー、文化祭の実行委員、各クラス二名出すことになってる。やりたい人ー」
教室が一瞬だけ静まった。文化祭実行委員は、企画を考えるほうじゃない。搬入、設営、撤収、ゴミの分別、備品の管理。去年の実行委員が「二度とやらない」と言っていたのを、廊下で聞いたことがある。声の小さいその先輩は、文化祭の翌週から学校を三日休んだ。
藤宮が「俺パス」と笑って言うと、教室の半分がつられて笑った。残りの半分は曖昧に笑うか、黙って机を見つめた。吉岡も苦笑している。
「まあ、誰もいなかったら先生のほうで指名するけどー」
それは脅しだ。やりたくない仕事を誰かに押しつけるために、「自主的にやれ」と言う。誰もやらなければ教師が決める。決められた人間は被害者で、自分から手を挙げた人間は奇特な変わり者。どちらにしても、スポットライトが当たるのは一瞬で、その後は延々と裏方が続く。
誰もやりたがらない仕事。誰にも見られない場所で、誰にも気づかれない労働をする。
——それは俺の日常そのものだ。
昨日の帰り道、ポスターの前で口の中に転がした言葉が、また浮かんだ。透明人間にしかできない仕事。見ているだけじゃない何かが、あの裏方業務の中にある気がした。根拠はない。理屈もない。ただ、文化祭の実行委員になれば、この学校のもっと深いところまで入り込める。教室からは見えない場所——生徒会室の隣の倉庫、予算の流れ、教師間の力関係。透明人間の観察眼が、教室の外でも使えるかどうか、試してみたかった。
黙って、右手を上げた。
肩より少し上、指先は伸ばさず、軽く握ったまま。主張ではなく、ただの提示。ここにいます、という最低限の信号。
吉岡が一瞬遅れて気づいた。
「おっ……えーと、」
名前が出てこない。出席確認で二日連続飛ばした生徒の名前が、出てくるはずがない。吉岡が出席簿に目を落とした。指で名前をなぞって、止まる。
「桐谷、か。ありがとう。じゃ、あと一人——」
俺の名前を呼ぶとき、吉岡の声には何の色もなかった。感謝でも驚きでも、ましてや期待でもない。ただ名簿に書いてある文字を音にしただけだ。でも、それでよかった。必要なのは注目じゃない。文化祭の裏方に入り込む切符だけだ。
五秒後、廊下側の席で別の手が上がった。女子の手だった。視線を向ける前に、声が聞こえた。
「はい、私も」
見覚えのある横顔。昨日の放課後、昇降口付近ですれ違ったとき、文化祭のポスターをじっと見ていた女子がいた。腕を組んで、ポスターの細かい字を読んでいた。あのとき俺は靴を履き替えながらポスターを見ていて、彼女はその反対側——表側から、同じポスターを見ていた。紙一枚を隔てて、同じものを見ていた。
吉岡が出席簿を確認する。
「瀬川さんね。じゃ、二名決定。二人はあとで職員室に来て」
瀬川凛。名前と顔が一致したのは、そのときが初めてだった。
HRが終わり、教室がまた騒がしくなる。藤宮グループが放課後の予定を相談し、三上が誰かとひそひそ話を始め、中村が藤宮の冗談に引きつった笑いを返している。
鞄に教科書を詰めながら、俺は考えていた。
裏方の仕事が始まれば、教室の外に出る理由ができる。放課後の空き教室、倉庫、体育館の舞台裏。透明人間が足を踏み入れたことのない場所に、堂々と立ち入れるようになる。何が見つかるかは分からない。何も見つからないかもしれない。
でも、昨日までとは違う。昨日の俺は窓際最後列から見ているだけの傍観者だった。今日の俺は、裏方という名前のついた役割を持つ人間だ。名前のなかった席に、ほんの薄い輪郭が刻まれた。
廊下に出ると、職員室に向かう階段の途中で、瀬川凛が壁にもたれて待っていた。
「桐谷くん、だよね。一緒に行こう」
俺の名前を、出席簿を見ずに呼んだ。
それがどういう意味なのか分からないまま、俺は黙って頷いた。職員室までの廊下を、二人分の足音が響く。昨日まで一人分しかなかった反響が、倍になっていた。