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透明人間の観察ノート

第3話 第3話

第3話

第3話

文化祭実行委員の最初の仕事は、思った通り地味だった。

職員室で渡された資料は、段ボール二箱分の備品リストと、使用可能な教室の一覧表。去年の実行委員が残した引き継ぎノートには、搬入経路と倉庫の鍵の場所がボールペンで走り書きされていた。インクが薄くなっている箇所があって、書いた人間の疲労が透けて見えるようだった。

「桐谷くんは力仕事いける?」

瀬川凛が資料をめくりながら聞いた。俺たちは放課後の教室に残って、最初の段取りを確認していた。他のクラスの実行委員とは来週の全体会議で顔を合わせるらしいが、それまでに自分たちのクラスの出し物の下準備を進めておく必要がある。

「まあ、普通に」

「じゃあ、旧館の空き教室に去年の装飾材が残ってるらしいから、使えそうなの選んで持ってきてくれない? 私は企画書のフォーマット作るから」

瀬川の話し方には無駄がなかった。仕切るというより、最短距離を引く感じ。俺が頷くと、彼女は「よろしく」とだけ言って、ノートパソコンを開いた。画面の光が眼鏡のレンズに反射して、一瞬だけ瀬川の目が見えなくなった。もう俺のことは視界に入っていない。その切り替えの速さが、どこか心地よかった。

旧館は本館の裏手にある三階建ての校舎で、今は特別授業と部活の一部にしか使われていない。一階の廊下を歩くと、蛍光灯が一本切れていて、等間隔の明暗が床に縞模様を作っていた。四月の午後四時の光が、廊下の突き当たりの窓から差し込んでいる。埃が光の中でゆっくり回転していた。ここまで来ると、本館の喧騒が嘘みたいに遠い。どこかの教室から、吹奏楽部の基礎練習らしい単音が断続的に聞こえてくる。同じ音を繰り返しているだけなのに、この静けさの中ではやけに鮮明だった。

引き継ぎノートに書かれていた教室は、旧館二階の一番奥だった。ドアを引くと、金属のレールが軋んで甲高い音を立てた。中は思ったより広い。壁際にスチール棚が三列並んでいて、段ボール箱やビニール袋が雑に積まれている。窓は一つだけ開いていて、カーテンが風に揺れるたびに、部屋の中の光が波打った。閉め切った空間に特有の、紙と埃と古い木材が混ざったような匂いがした。

棚のラベルを一つずつ確認していく。「52回文化祭・装飾」「51回・看板材料」「49回・模擬店備品」。数字が大きいほど上の段に置かれている。去年のものは一番上だ。背伸びをして段ボールの端を掴み、引きずり出す。テープが劣化していて、軽く引っ張っただけで蓋が開いた。中身は造花と色画用紙とガムテープの束。使えないことはないが、色褪せがひどい。

二列目の棚に移る。ここは備品というより、雑多なものが押し込まれていた。古い掃除用具、壊れたCDラジカセ、黄ばんだ体操服。棚の奥に手を伸ばすと、指先に何か硬いものが触れた。本の感触だ。背表紙をつまんで引き出すと、B5サイズのノートだった。

表紙がない。

正確には、表紙だったものが剥がされている。糊の跡が残っていて、最初のページがそのまま表紙の代わりになっていた。何も書かれていない。裏表紙も同じで、背は製本テープで補強されている。誰かが意図的にカバーを剥がし、匿名の一冊にしたように見えた。

開いた。

最初のページに、細かい字がびっしり並んでいた。日付は——七年前。万年筆のインクで、几帳面な字が連なっている。

『四月十五日。文化祭予算の配分表を入手。各団体への配分額と、実際の執行額に差異あり。生徒会費の総額から逆算すると、約十二万円の使途が不明。』

予算の話だ。俺は棚に背中を預けて、ページをめくった。

『五月八日。不明金の行方を追跡。事務室の発注伝票と生徒会の支出記録を照合。特定の業者への発注が集中している。業者名は■■■■(名前は伏せる)。』

伏せ字の部分は黒いペンで塗りつぶされていた。記録者自身が、後から隠したのかもしれない。

ページが進むにつれて筆跡が変わった。三年目あたりで丸みのある字になり、五年目からは角ばったボールペンの字に変わっている。少なくとも三人の人間が、このノートに書き込んでいる。内容は一貫していた。生徒会予算の不整合。特定の業者への発注集中。教師が関与している可能性を示唆する記述もあったが、どれも推測の域を出ていなかった。

書き手が全員、同じ壁にぶつかっている。証拠が足りない。あるいは、証拠を持ったまま何もできずに卒業していった。

途中に数ページ、何も書かれていない箇所があった。三年前のあたりだ。その前後で筆跡が変わっている。空白のページを指で撫でると、紙の表面にわずかな凹凸を感じた。何かが書かれていて、消された——いや、違う。ページが破られた跡だ。ノートの綴じ目に、紙の切れ端が残っていた。誰かが数ページ分を引きちぎっている。

最後のページまで飛んだ。

直近の記述は二年前の日付で終わっていた。その最後の行の下に、一行だけ。他のどの筆跡とも違う、乱暴な走り書き。

『次はお前が書け。』

指先が止まった。

ノートに向けられた言葉じゃない。これは、このノートを次に見つける人間に向けた——。

背後で、音がした。

教室のドアが軋む金属音。さっき俺が入ってきたときと同じ、甲高いレールの音。反射的にノートを閉じて、棚の裏に押し込んだ。心臓が跳ねている。別に見られてまずいものじゃない。ただのノートだ。でも体が勝手に隠した。七年分の記録が詰まった無名のノートを、本能が「誰にも見せるな」と判断した。

振り返る。

ドアの隙間から、廊下の蛍光灯の光が細く差し込んでいた。人の気配がある。靴音が一歩、二歩。廊下を歩く足音が、教室の前で止まった。

風で開いたのか。それとも誰かが開けようとしたのか。

俺は棚の影に立ったまま、息を殺した。ドアの向こうにいる人間の輪郭が、磨りガラス越しにぼんやり見えた。背の高さからして、教師ではない。生徒だ。男か女かは分からない。影は数秒そこに立っていて、それからゆっくりと遠ざかった。足音が廊下の奥に消えていく。

静寂が戻った。

自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえた。肩の力が抜けるまで数秒かかった。呼吸を整えて、もう一度棚の奥に手を伸ばした。ノートを引き出し、最後のページを開く。

『次はお前が書け。』

あの乱暴な字を、もう一度読んだ。書いた人間の手が震えていたのか、怒っていたのか、それとも急いでいたのか。どれかは分からない。でもこの一行だけが、他のどの記述とも温度が違った。七年分の冷静な記録の最後に、感情がひとつだけ残されている。

俺はノートを鞄に入れた。

空き教室を出るとき、廊下には誰もいなかった。蛍光灯の切れた一本が、相変わらず暗い縞模様を床に落としている。さっきの影がどこに消えたのか、確かめる術はない。

本館に戻ると、教室で瀬川がまだパソコンに向かっていた。

「あ、おかえり。使えそうなのあった?」 「造花と画用紙。ちょっと色褪せてるけど、裏方の装飾なら問題ないと思う」 「了解。明日運ぼう」

何も言わなかった。ノートのことは、まだ誰にも話す段階じゃない。数字の不整合が本当に存在するのか、自分の目で確かめてからだ。七年分の記録者たちは全員、証拠の壁にぶつかって筆を置いた。破られたページの意味も分からない。今ここで誰かに話しても、ただの与太話で終わる。

瀬川が画面から目を離さないまま、「旧館って暗くなかった?」と訊いた。何気ない口調だった。

「蛍光灯が一本切れてた」

「あそこ、出るって噂あるんだよね」

冗談めかした声だったが、俺は笑えなかった。出るのは幽霊じゃない。七年分の執念だ。

透明人間がノートを見つけた。それだけの話だ。

帰り道、鞄の中のノートの重さがやけに気になった。物理的にはB5のノート一冊、百グラムもないはずだ。でも鞄を肩に掛けるたびに、そこだけ密度が違う気がした。七年分の観察と、破られたページと、最後の一行。背中にずっと、誰かの視線を感じていた。

校門を出て、振り返った。旧館二階の一番奥の窓が、夕日を反射してオレンジ色に光っていた。さっきまで俺がいた場所だ。あの棚の奥に、何年ものあいだ誰にも見つからずにノートは眠っていた。見つけたのが俺だったのは、偶然だ。けれど、偶然にしては出来すぎている気もした。

透明人間だから見つけた。誰も見ない場所に手を伸ばせるのは、誰にも見られていない人間だけだ。

——『次はお前が書け』。

あの言葉が、帰り道の夕風の中で、ずっと鳴り続けていた。

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