第1話
第1話
四月の教室は、嘘みたいに白い。
窓から差し込む光がリノリウムの床を舐めて、新しいクラスの空気を無理やり明るく見せている。クラス替え初日。まだ誰の匂いも染みついていない机と椅子が、整列したまま主人を待っている。俺の席は窓際の最後列——出席番号順で自動的に決まった、いつもの場所だった。
天板に指先を滑らせると、消毒液の匂いがかすかに立ちのぼった。春休み中に業者が入ったのだろう。傷ひとつない机の表面が、まるで「ここから新しく始めましょう」と言っているみたいで、少し気持ちが悪い。新しさは優しさじゃない。ただのリセットだ。去年までの落書きも、テスト前に刻んだ爪の跡も、全部なかったことにされている。
始業のチャイムが鳴る前から、教室はもう出来上がっていた。
「うわ、マジ? 凛也と同じクラスじゃん!」 「こっちこっち、席近い!」
入口付近で声が弾ける。中学からの持ち上がり組がまず固まり、そこに部活つながりが合流し、三分もしないうちに教室の地図が引かれていく。窓側の前列を陣取ったのは藤宮凛也を中心にした五人。サッカー部のエースで、声がでかくて、笑うとき周囲を巻き込む引力がある。その隣に座りたがる女子が二人、斜め後ろに控えるのが藤宮の腰巾着の男子が二人。権力の配置図としては、教科書に載せてもいいくらいきれいな形をしている。
藤宮が何か冗談を言うと、周囲がほぼ同時に笑った。内容は聞き取れなかったが、タイミングだけは完璧だった。あの笑いの中に本当に面白がっている人間が何人いるのか。たぶん半分もいない。でも残りの半分も、自分が本心から笑っていないことに気づいていない。集団の空気に乗ることと、楽しいと感じることの区別がつかなくなるのは、たぶん十六歳の正常な機能だ。
俺はそれを、最後列から見ていた。
桐谷陽介。出席番号八番。趣味も特技も部活もない。春の教室で誰にも話しかけられない人間の朝は、とても静かだ。
窓の外で鳥が鳴いた。ウグイスではない、もっと地味な声。名前も知らない鳥の、名前も知らない鳴き方。俺とその鳥のあいだには窓ガラス一枚しかないのに、誰もその声に気づかない。教室の内側にいる人間の耳は、教室の内側の音しか拾わないらしい。
新しい担任が教壇に立つ。四十代の男性教師、名前は吉岡。着任の挨拶は手短で、すぐに出席確認が始まった。
「赤城——」「はい」 「石川——」「はーい」
名前がアイウエオ順に読み上げられるたび、それぞれの声が教室に落ちていく。大きい声、小さい声、ふざけた声。たったそれだけで、そいつが教室のどこに立とうとしているかがわかる。声は名刺だ。
「木下——」「はい」 「……河野——」「はい」
吉岡の視線が出席簿の上を滑り、一瞬だけ止まって、また動いた。
飛ばされた。
出席番号八番、桐谷陽介。名簿の上では確かに存在しているはずの名前が、吉岡の口からこぼれ落ちた。別に珍しいことじゃない。転入生でもなく、目立つ特徴もなく、訂正を求めて手を挙げる性格でもない人間は、こうやって最初の一日目から透明になる。
俺は何も言わなかった。
机の下で、右手を軽く握って、開いた。指先に力を入れて、抜く。ただそれだけの動作を二回繰り返して、呼吸を整えた。怒りでも悲しみでもない。この感覚にはもう名前をつけるのをやめた。名前をつけると、そこに意味が生まれて、意味が生まれると期待になる。期待は裏切られるために存在する感情だと、中学二年の夏に学んだ。
ただ、吉岡が藤宮の名前を呼んだとき、声のトーンが半音上がったことだけ、覚えておいた。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室は一瞬で組み替わる。机をくっつけるグループ、購買に走る二人組、廊下に消えていくカップル。俺はコンビニ袋を片手に、誰にも見られないまま階段を上った。
三階の踊り場を過ぎたあたりから、人の気配が消える。四階は特別教室しかないから、昼休みにわざわざ上がってくる生徒はいない。階段の手すりは冷たくて、蛍光灯の光が壁に薄い影を落としていた。靴底がコンクリートを踏むたびに、乾いた音が階段室に反響する。この音を聞いているのは俺だけだという事実が、不思議と心地よかった。
屋上へ続く踊り場。正確には屋上じゃない。屋上は施錠されていて出られないから、その手前の踊り場が俺の昼飯の定位置だ。コンクリートの段差に腰を下ろすと、階下から吹き上がってくる風が少しだけ温い。四月の風だ。冬の名残と春の予感が混じった、どっちつかずの温度。
鮭弁当のフィルムを剥がしながら、スマホを開いた。
クラスのグループLINEは、三時間目の途中にはもう作られていた。藤宮が「クラスLINE作ったわ〜」と宣言して、周囲がQRコードを読み取って、五分で三十二人が参加した。三十五人クラスで三十二人。入っていない三人のうちの一人が俺だということに、たぶん誰も気づいていない。気づいていたとして、わざわざ声をかける理由がない。
別に傷ついてはいない。傷つくには、期待が必要だ。
弁当の卵焼きを箸でつまみながら、午前中の情報を頭の中で整理した。藤宮グループの結束は強いが、腰巾着の片方——たしか名前は中村——は目が笑っていなかった。媚びてはいるが、好きでやっているわけじゃない。いずれ離れるか、裏切るか。女子のほうは前の席の三上が情報の中継点になっている。誰と誰が付き合っている、誰が誰を嫌っている、そういう話が全部あの子を経由して流れていく。自覚があるかどうかは分からない。
吉岡は藤宮を贔屓する。あれは意識的じゃなく、単純に声の大きい生徒に引っ張られるタイプだ。裏を返せば、声を出さない人間は存在しないのと同じ。教師としては三流だが、利用する分には楽な相手だ。
——利用。
我ながら嫌な言葉が浮かんだ、と思った。利用する予定なんかない。俺はただ見ているだけだ。見ているだけで、何もしない。それがいちばん安全で、いちばん楽で、いちばん正しい。
鮭弁当の最後のひと口を飲み込んで、割り箸をコンビニ袋にしまった。米粒がひとつ、袋の底に落ちた。拾おうとして、やめた。誰も見ていない場所での行儀を気にする理由がない。——いや、違う。誰も見ていないからこそ気にするべきだ、と昔どこかで読んだ気がする。結局、米粒を指先でつまんで口に入れた。どっちの理由で拾ったのか、自分でもよく分からなかった。
踊り場の窓から校庭が見えた。桜がまだ残っていて、風が吹くたびに花びらが地面に散る。体育の授業だろうか、ジャージ姿の生徒たちがグラウンドを走っている。ここからだと、誰が誰だか見分けがつかない。
みんな同じに見える。
それは多分、向こうから見た俺も同じだ。
六時間目が終わり、帰りのHRが三分で片づいた。教室を出ると、昇降口までの廊下に文化祭の掲示物が貼り出されていた。
『第五十三回 翔陽祭 テーマ募集中! 実行委員も各クラスから募集します』
ポスターの隅に、実行委員の仕事内容が小さく列記されている。企画立案、広報、装飾、会計——そして一番下に、「搬入・設営等の裏方業務」。
毎年、誰もやりたがらないやつだ。
ポスターは画鋲で四隅を留められていて、右下だけが少し浮いていた。紙の端が風でめくれて、壁との隙間から廊下の向こうが細く見えた。その隙間に、下校していく生徒たちの影がちらちらと過ぎていく。表側から見る者と、裏側から覗く者。一枚の紙に隔てられているだけなのに、見えている景色がまるで違う。
靴を履き替えながら、ポスターをもう一度だけ見た。
「……今年も裏方か」
声に出したつもりはなかった。けれど、口の中で言葉が転がったのは確かだった。裏方。誰にも見られない場所で、誰にも気づかれない仕事をする。それは俺の日常そのもので、だからこそ、ほんの少しだけ引っかかった。
透明人間にしかできない仕事が、この学校のどこかにあるんじゃないか。
そんな予感を振り払うように、俺は校門を出た。四月の風が背中を押して、桜の花びらが一枚だけ、鞄の上に落ちた。払い落とす前に、風がさらっていった。
明日もたぶん、誰にも話しかけられない。
それでいい——はずだった。