第2話
第2話「震える手のクリアファイル」
クリアファイルを受け取った手が、まだ震えていた。
凛は俺の反応を待たずに、窓際の長机に腰を下ろした。さっきまで泣いていた場所。西日が傾いて、教室の影が少しだけ伸びていた。彼女は膝の上で両手を組んで、自分の指先を見ていた。爪の先が白くなるくらい力が入っているのが、離れた場所からでもわかった。
俺はドアの前に立ったまま、手の中のクリアファイルを見下ろした。A4の紙が五、六枚。手書きじゃない。プリントアウトされた文字が、クリアファイル越しに透けて見えた。フォントは明朝体で、行間が少し広めに取られている。読みやすいように整えてある。何度も推敲した人間の、紙面だった。
逃げる最後のチャンスは、たぶん今だった。「ごめん」と言ってドアを閉めれば、明日から何事もなかったように過ごせる。桐島凛は教室で笑い続けるし、俺は透明なまま卒業する。完璧な放課後が戻ってくる。
でも、さっき見た彼女の目が頭にこびりついていた。泣いた後の、疲弊した琥珀色。あれは、助けてほしいとか、慰めてほしいとか、そういう甘い色じゃなかった。もっと乾いた、諦めに近い何かだった。どうせ誰にもわからない——そう言い聞かせてきた人間の目を、俺は知っている。毎朝、洗面台の鏡で見ているから。
引き戸を閉めた。外側じゃなく、内側から。
凛がわずかに顔を上げた。何も言わなかった。ただ、俺が教室の中に残ったことを確認するように、一瞬だけ目を動かした。
向かいの長机に座った。ミシン台の名残の、天板が少し高い机。クリアファイルから紙を抜いて、一枚目を手に取った。
タイトルはなかった。いきなり本文が始まっている。
最初の一行を読んで、手が止まった。
——わたしは、どの季節にも馴染めない人間だった。
文章は一人称だった。語り手は高校生の女の子で、転校を繰り返すうちに「どこにいても外側の人間」になってしまった、という設定だった。春が来ても桜を一緒に見る友達がいない。夏祭りの花火は、アパートの窓から一人で見る。秋の文化祭は早退する。冬のクリスマスは、コンビニのケーキを買って帰る。
文章は荒削りだった。比喩が唐突に現れて、次の段落では消えている。視点がときどきぶれる。場面転換が急で、読んでいて一瞬迷子になる箇所が何度かあった。プロの小説とは違う。構成も文法も、粗を探せばいくらでも見つかる。
でも。
三枚目の中盤で、語り手が新しい学校の教室で弁当を食べるシーンがあった。周りはグループで固まっていて、語り手だけが自分の席で一人で食べている。箸で卵焼きをつまんだとき、隣のグループの女子が笑った。語り手のことを笑ったんじゃない。たぶん全然関係ない話で笑っただけだ。でも語り手は反射的に弁当箱を閉じかけて——そこで自分の手を見て、止まる。
——また逃げるの、と自分の指が言った気がした。卵焼きは冷めていた。でも、お母さんが朝五時に起きて作ってくれた卵焼きだった。だから蓋を開けたまま、最後のひとくちまで食べた。泣きそうだったけど、たぶん泣いてなかった。
この六行で、胸の奥が詰まった。
技術じゃなかった。構成でも語彙力でもなかった。ここに書かれている孤独は、誰かの想像から作られたものじゃない。体温がある。冷めた卵焼きの温度が、指先から伝わってくるような文章だった。
教室で笑っている桐島凛。友達に囲まれて、冗談を言って、誰からも好かれている桐島凛。あの笑顔の裏側に、この文章を書く人間がいた。
五枚目の途中で、物語は終わっていた。完結じゃなく、途中で途切れている。最後の一文は「駅のホームで電車を待ちながら、わたしは」で止まっていた。その先がまだ書けていないのか、書けなくなったのか。
紙をクリアファイルに戻した。
顔を上げると、凛がこちらを見ていた。さっきとは違う目。泣き腫らした赤みはまだ残っているけれど、そこに浮かんでいるのは怯えに近い緊張だった。感想を待っている目。一言で壊れるかもしれない均衡の上に立っている人間の目。
「……どうだった」
凛の声は小さかった。教室ではいつも、誰にでも届く声で話す。でも今の声は、この埃っぽい空き教室の空気に吸い込まれて、俺の耳にようやく届くくらいの音量しかなかった。
正直に言えば、感想を求められるのが一番困る。褒めればいいのか。慰めればいいのか。泣いていた相手に、下手なことは言えない。
でも、彼女が差し出したのは涙じゃなく原稿だった。
「——文章は、荒い」
凛の肩がびくっと動いた。
「比喩が急に出てきて消える。視点もたまにぶれてる。場面の繋ぎが雑なところがある」
言いながら、自分でも驚いていた。こんなに長い言葉を、誰かに面と向かって言ったのはいつ以来だろう。教室では必要最低限の返事しかしない俺が、止まらなかった。
凛の目が揺れた。指先が膝の上で白くなった。
「でも、三枚目の弁当のシーン」
声が少しだけ詰まった。咳払いをして、続けた。
「あそこは——すごいと思った」
凛が息を呑む音が聞こえた。小さな、喉の奥で鳴るような音。
「冷めた卵焼きを最後まで食べるところ。あれは、嘘じゃ書けない」
教室が静まり返った。吹奏楽部の音はもう聞こえない。西日が教室の半分まで後退して、俺たちのいる窓際だけがまだオレンジ色の中にあった。残りの半分は薄暗い。その境界線が、長机の端を斜めに横切っていた。
凛が唇を噛んだ。それから、ゆっくりと息を吐いた。長く、深く。何かを手放すような吐息だった。
「……変なこと言うね、あんた」
声が震えていた。でも、さっきまでの怯えとは違う震え方だった。
「普通、もうちょっとオブラートに包まない?」
「包み方を知らない」
本当のことだった。三年間、誰とも深い会話をしてこなかった人間に、気遣いの語彙があるわけがない。
凛が小さく笑った。泣きながら笑うという矛盾した表情が、夕日の中で不思議と自然に見えた。目尻に溜まった涙が光って、頬に一筋だけ流れ落ちた。彼女はそれを制服の袖で乱暴に拭った。
「……掲示板、見たよね」
俺は黙って頷いた。
「あそこに書かれてる。私が小説書いてること。内容まで知ってる人がいる」
凛の声は落ち着いていた。泣いた後の静けさがあった。
「見せたの、一人だけだったのに」
その一言に含まれた意味を、俺は正確に理解した。信頼した相手に裏切られた。それがどういう痛みなのかは想像するしかないけれど、一人でこの空き教室で泣いていた理由としては十分すぎた。
凛がクリアファイルを指差した。
「あんたで二人目。これ読んだの」
窓の外で、カラスが一羽鳴いた。校庭の方から、帰宅する生徒の笑い声が風に乗って届いてくる。世界はいつも通り回っている。この埃っぽい教室の中で起きていることなんか、誰も知らない。
「……感想、もっとちゃんと聞かせて」
凛が言った。さっきより少しだけ強い声だった。泣いた後の鼻声がまだ残っていたけれど、その奥に、折れかけた何かを必死に繋ぎ止めようとする響きがあった。
「直したいの。でも、自分じゃどこが悪いかわからない」
俺は凛を見た。夕日が完全に傾いて、教室のオレンジ色が薄れ始めていた。彼女の顔が半分だけ影に入って、片方の目だけが光を受けている。その目は、教室で誰かに向ける笑顔の中には絶対にない、剥き出しの真剣さを湛えていた。
書くことを、まだ諦めていない。掲示板に晒されて、泣いて、それでも原稿を手放さなかった。見ず知らずの——いや、隣の席にいるだけの俺に差し出してまで、感想を求めている。
答えは、もう出ていた。
「——明日も、ここに来る?」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。三年間、誰にも「また会おう」と言ったことがない人間が、何を言っているんだ。
凛が目を見開いた。それから、泣き腫らした目のまま、小さく頷いた。
「……うん」
帰り道、校門を出て駅までの坂道を下りながら、イヤホンを耳に入れた。再生ボタンを押す。いつもの音楽が流れてくる。でも、頭の中では別の文章がずっと繰り返されていた。
——また逃げるの、と自分の指が言った気がした。
冷めた卵焼きの感触が、まだ指先に残っている気がした。誰かの書いた言葉が、こんなにしつこく残るものだと、知らなかった。
鞄の中で、スマホが震えた。LINEの通知。登録のない番号から。
「明日、五枚目の続きも持っていく。——桐島」
いつの間に番号を知ったのか。出席番号表か。そこまで考えて、もっと根本的なことに気づいた。
俺の完璧な放課後は昨日終わったんじゃない。明日も、その先も、もう戻ってこない。