第3話
第3話「窓際の長机に先着」
翌日の放課後、空き教室のドアを開けると、凛がもう座っていた。
昨日と同じ窓際の長机。ただし今日は泣いていない。鞄の横にクリアファイルを置いて、スマホをいじっている。俺の気配に気づいて顔を上げると、教室で見せるのとは違う、どこか探るような目をした。
「……早いな」
「あんたが遅い」
時計を見ると、授業が終わって十二分。いつもの空き教室に来るペースとしては普通だ。つまり、彼女の方が早く来て待っていたということになる。
凛がクリアファイルを持ち上げた。昨日のものより少し厚い。
「五枚目の続き、書いてきた。あと、前の部分も少し直した」
俺は向かいの長机に座って、ファイルを受け取った。昨日の紙と新しい紙が混ざっている。直した箇所には赤ペンで取り消し線が引いてあって、余白に書き直した文章がびっしり詰まっていた。一晩でこれだけ直したのか。赤ペンの筆跡は最初のうちは丁寧だけど、後半に行くほど崩れている。夜中まで書いていたんだろう。
「その前に」
凛が言った。スマホを鞄にしまいながら、少しだけ声を低くした。
「昨日のこと、誰にも言わないで」
「言う相手がいない」
本当のことだった。凛は一瞬きょとんとして、それから小さく吹き出した。
「……それ、慰めてるの?」
「事実を言ってる」
凛が唇を曲げた。笑っているような、呆れているような表情。昨日の泣き顔とも、教室の完璧な笑顔とも違う。たぶんこれが素に近い顔なんだろう。
「じゃあ約束。ここで読んだこと、私が小説書いてること、全部秘密。あんたは知らないし、私はここに来てない」
「わかった」
それだけだった。契約書もなければ指切りもない。埃っぽい空き教室で交わされた、声だけの約束。でも不思議と、それで十分だという感覚があった。三年間誰とも深く関わらなかった人間と、一人だけに裏切られた人間の間では、言葉の重さが違うのかもしれなかった。
俺は紙に目を落とした。凛は窓枠に肘をついて外を見ている。読んでいる間、こちらを見ないようにしているのがわかった。
直された三枚目を読んだ。昨日指摘した比喩の唐突さは、半分くらい消えていた。でも残った半分は、直し方がわからなかったのか、赤ペンで消しては書き直して、また消した跡があった。迷った形跡がそのまま残っている。
五枚目の続き。駅のホームで電車を待つ語り手が、隣に立った見知らぬ老人に話しかけられる。「どこまで行くの」という何でもない問いかけに、語り手は答えられない。行き先がわからない、という二重の意味が、書いた本人にどこまで自覚的なのかは読み取れなかった。
六枚目の途中で、物語はまた途切れていた。
「比喩、半分は良くなった」
凛が振り向いた。
「残りの半分は?」
「消すんじゃなくて、前後の文脈に馴染ませた方がいい。急に出てくるから浮くんであって、比喩自体が悪いわけじゃない」
赤ペンの跡を指差しながら説明した。凛は立ち上がって俺の隣まで来ると、紙面を覗き込んだ。髪がクリアファイルの端をかすめた。柑橘系の匂いがした。シャンプーか何かだろう。こんなに近い距離で誰かの体温を感じるのは、記憶にある限り初めてだった。
「ここ。『冬の朝みたいに透明な声』って書いてるけど、この場面は夏の設定でしょ。季節がずれてる」
「あ」
凛が声を上げた。自分で書いておいて気づかなかったらしい。赤ペンを取り出して、その場で書き直し始めた。
「『蝉の声が止んだ一瞬みたいに透明な声』——これなら」
「まだ重い。もっと短くていい」
「……『息を止めたみたいに透明な声』」
「それでいい」
凛がペンを走らせる音だけが教室に響いた。西日はまだ高い位置にあって、教室全体が柔らかいオレンジ色に包まれている。昨日と同じ光景のはずなのに、空気が全然違った。重さがない。ただ紙とペンと、二人分の呼吸があるだけの放課後だった。
それから四日間、同じことが続いた。
授業が終わると、俺は教室を出る。旧校舎の三階に上がると、凛がもう座っている。クリアファイルが差し出される。俺が読む。感想を言う。凛が直す。それだけの繰り返し。会話は原稿の中身に限られていて、互いの私生活にも、教室での顔にも、一切触れなかった。
奇妙だったのは、その距離感が心地よかったことだ。教室では俺は相変わらず透明人間で、凛は相変わらず人気者だった。廊下ですれ違っても目を合わせない。休み時間に偶然近くにいても、他人のふりをする。それは約束だったし、必要なことだった。
でも放課後になると、俺たちは空き教室の住人になった。
四日目。凛の物語は八枚目に達していた。語り手がようやく新しい学校で一人だけ話せる相手を見つけるところまで進んでいた。文章は明らかに変わり始めていた。比喩は文脈に馴染み、視点のぶれが減り、場面転換に一文の余白が挟まるようになった。荒削りな手触りは残っているけれど、それは欠点というより体温に近いものになりつつあった。
「ここの台詞、いい」
「どこ」
「『あんたの弁当、いつも卵焼き入ってるね』ってところ。何でもない会話で距離が縮まるのが自然でいい」
凛が少しだけ目を細めた。褒められ慣れている人間の顔ではなかった。どう受け取ればいいかわからない、という戸惑いの方が近い。教室での凛は褒め言葉を軽くかわすのが上手いのに、原稿を褒められると途端に不器用になった。
その日、いつもより少し遅くまで残った。凛が八枚目の後半を書き直している間、俺は前の部分を読み返していた。薄暗くなった教室で、スマホのライトを紙面に当てながら。
「そろそろ帰るか」
時計を見ると六時を過ぎていた。凛が荷物をまとめている間に、俺はスマホを開いた。特に理由はなかった。癖みたいなものだ。
通知はなかった。でも、ふと思い立って、あの掲示板を検索した。昨日の騒ぎで凛が泣いていたスレッド。見るべきじゃないと思いながら、指が動いていた。
スレッドは、伸びていた。
昨日までの書き込みに加えて、新しい投稿がいくつか並んでいた。日付は今日。時間は昼休み。
内容を読んで、背筋が冷えた。
——桐島の小説、主人公が転校生の女で、弁当を一人で食べるシーンがあるらしい。孤独系ポエム乙w
弁当のシーン。一人で食べるシーン。それは凛の原稿の三枚目にある、あの卵焼きの場面だ。
以前の書き込みは「桐島が小説を書いている」という事実だけだった。でも今日のは、内容に踏み込んでいる。しかも「弁当を一人で食べる」という具体的なシーンに言及している。あの原稿を読んだ人間でなければ書けない情報だった。
凛が言っていた。「見せたの、一人だけだったのに」と。その一人は、凛が信頼して原稿を見せた人間だ。掲示板に最初に晒したのも、おそらくその人間だろう。でも、今日の書き込みには別の問題があった。
あの原稿の内容は、以前見せた相手が知り得る情報か?
凛が直し始めたのは、ここ数日のことだ。弁当のシーンは以前からあったかもしれない。でも、書き込みのニュアンスが妙に具体的すぎる。まるで最近の原稿を確認したかのような——。
「どうしたの」
凛が鞄を肩にかけたまま、俺の顔を覗き込んでいた。
スマホを隠すか迷った。一瞬だけ。でも、隠したところで明日には彼女自身が見るだろう。
画面を見せた。
凛の表情が固まった。血の気が引くのが、薄暗い教室の中でもわかった。唇が微かに動いて、何か言いかけて、止まった。
「——内容を、知ってる」
凛の声は小さかった。自分に言い聞かせるような、乾いた呟きだった。
「見せたの、あの子と、あんただけなのに」
窓の外で、部活帰りの生徒が笑いながら通り過ぎていった。平和な放課後の残響が、旧校舎の壁を透過してくる。
凛がクリアファイルを胸に抱くように両腕で抱えた。まるで、もうこれ以上誰にも中身を見せないと言うように。
「……誰かが、見てる」
その言葉が、蛍光灯の切れた空き教室の空気に沈んでいった。情報の出所が外部じゃない。この学校の中に、凛の原稿に触れられる人間が、もう一人いる。