第1話
第1話「窓際から二列目の四番」
誰にも気づかれないことが、俺の唯一の特技だった。
三年間かけて磨き上げた技術だ。始業式の朝、誰よりも早く教室に入る。まだ誰もいない机の列、椅子の背に朝日が当たって長い影を作っている。窓際から二列目、前から四番目。去年と同じ位置を選んだわけじゃない。目立たない席には法則がある。窓際は意外と視線が集まる。真ん中は四方から声をかけられる。かといって一番後ろは、逆にサボりの指定席として注目される。前から四番目の、列の内側。教師の死角に入りやすく、隣との距離がちょうど会話を求められない程度に空く場所。そこに鞄を置いて、静かに座る。
四月の空気はまだ冷たい。暖房の切れた教室には、ワックスと埃の混じった匂いが薄く漂っていた。窓の外では桜が七分咲きで、花びらが時折風に攫われてグラウンドの方へ飛んでいく。綺麗だとは思う。でも、それを誰かに言う相手はいないし、言う必要もない。
やがて教室に人が増え始める。俺はもう景色の一部になっている。「おはよう」の声が飛び交い、春休みの報告が弾ける。その音の波を、俺は机に突っ伏したふりをしてやり過ごす。存在感を消すのに一番有効なのは、寝たふりでも読書でもない。最初からそこにいることだ。遅れて入ってくる人間は注目される。でも、すでに座っている人間は風景になる。三年間の経験則だった。
始業式が終わり、新しいクラスの担任が出席番号順に名前を読み上げた。俺の番が来て、小さく返事をする。担任は一瞬俺の顔を確認して、もう次の名前に移っていた。それでいい。覚えられなくていい。名前と顔が一致しない生徒が一人くらいいたほうが、クラスの空気はかえって安定する。俺はそういう緩衝材みたいな存在だった。
席替えはなかった。出席番号順のまま。俺の隣——通路を挟んだ右側に、桐島凛が座った。
知っている。同じクラスになるのは初めてだけど、桐島凛を知らない人間はこの学校にはいない。学年で一番目立つ女子。成績は上位、運動もできて、何より顔がいい。入学式のときから男子の話題に上がる名前で、廊下ですれ違うだけで振り返る奴がいるような存在だった。休み時間になると彼女の周りには自然と人が集まり、笑い声が絶えなかった。それは努力で作り上げたものには見えない、生まれつきの引力のようだった。
そんな人間が、隣に座っている。
別にどうということはない。隣の席だからといって話す義務はない。むしろ目立つ人間の隣にいると、余計に俺の透明さが際立つ。保護色のようなものだと思えばいい。
——そのはずだった。
最初に気づいたのは、四月の二週目だった。授業中、ふと視線を感じて横を見ると、桐島凛がこちらを見ていた。目が合った瞬間、彼女はすっと前に視線を戻した。気のせいだと思った。
次の日も。その次の日も。
視線の正体がわからなかった。何か用があるなら話しかけてくればいい。でも彼女は何も言わない。ただ時々、ほんの一瞬だけ、こちらを窺うように見てくる。俺が気づくと、何事もなかったように前を向く。まるで、こちらの反応を確かめているようだった。そのたびに俺の胸のどこかが微かにざわついて、ノートの文字を追う目の焦点が一瞬だけぼやけた。
昼休みになると、俺は教室を出る。三年間通い続けた空き教室は、旧校舎の三階にある。元は被服室だったらしく、壁際にミシン台の名残みたいな長机がいくつか残っている。天井の蛍光灯は半分が切れていて、残りも点けたことがない。窓から入る光が埃を照らして、午後になると金色の粒子がゆっくり漂う。この埃っぽい空気を吸い込むと、不思議と肩の力が抜ける。教室にいるときに無意識に張っている、誰にも気づかれないための緊張が、ここに来るとようやくほどけた。
その長机に座って、イヤホンを耳に押し込む。再生ボタンを押せば、教室のざわめきも、誰かの笑い声も、全部遠くなる。昼飯のパンをかじりながら、スマホの画面を眺める。やることはない。やりたいこともない。ただ、ここにいる四十分間だけ、俺は透明人間じゃなくて、ただの人間でいられる気がした。
放課後も同じだ。部活に入っていない俺は、教室から空き教室に移動して、適当な時間を過ごして帰る。誰も来ない。誰にも会わない。完璧な放課後。
桐島凛の視線だけが、この完璧な日常の中でひとつだけ引っかかる小石みたいだった。
四月の三週目、木曜日の放課後。空はよく晴れていて、西日が廊下の窓から差し込んで床をオレンジ色に染めていた。旧校舎の階段を上がるとき、上履きのゴム底がリノリウムの床にきゅっと鳴った。いつもの音だ。いつもの道だ。階段の踊り場には使われなくなった掲示板があって、去年の文化祭のポスターがまだ画鋲で留まっている。色褪せたインクが、この場所がどれだけ人の流れから外れているかを物語っていた。
三階に上がり、廊下の突き当たりにある空き教室のドアに手をかけた。引き戸の滑りが悪くて、少し力を入れないと開かない。がたん、と音がして——。
中に、人がいた。
窓際の長机に、誰かが突っ伏している。制服の肩が小さく震えていた。泣いている。声は出していない。でも肩の揺れ方で、すぐにわかった。嗚咽を必死に殺しているような、不規則で細かい震え。音を立てまいとする意志が、かえってその震えを際立たせていた。
西日が窓から差し込んで、その人の髪を透かしていた。長い髪。見覚えのある色。窓枠の影が長机の上に格子を落として、その中に沈むように彼女はうずくまっていた。
心臓が一拍、止まった気がした。
桐島凛だった。
逃げようと思った。ドアを静かに閉めて、何も見なかったことにすればいい。俺はそういう人間だ。三年間そうやって生きてきた。関わらない、踏み込まない、気づかないふりをする。それが処世術だ。
でも、引き戸はもう音を立てた後だった。
凛が顔を上げた。泣いた後の目。睫毛が濡れて、頬に涙の筋が光っている。鼻の頭が薄く赤くなっていて、唇が微かに震えていた。教室で見せる完璧な笑顔の裏に、こんな顔があったのか。そう思った瞬間、目が合った。彼女の瞳は西日を受けて琥珀色に透けていて、その奥に、怒りでも恥ずかしさでもない——もっと深い、疲弊したような色が浮かんでいた。
彼女の手元に、スマホがあった。画面が点いたまま、長机の上に置かれている。ちらっと見えた。匿名掲示板の画面だった。スレッドのタイトルに「桐島」の文字が見えた。その下に並ぶ書き込み——小説、という単語がいくつも目に入った。
凛が画面を伏せた。スマホの裏面が長机にぶつかって、こつ、と乾いた音が静まり返った教室に響いた。でも、もう遅い。俺は見てしまった。彼女は俺が見たことを知っている。
数秒の沈黙が、やけに長く感じられた。西日が埃を金色に染めて、二人の間をゆっくり漂っていた。どこかで吹奏楽部がチューニングしている音が、壁越しにくぐもって聞こえる。遠い世界の音だった。
凛が口を開いた。
「——見たでしょ」
声は掠れていた。泣いた後の、低い声。教室で聞く桐島凛の声とは全然違った。いつもの彼女の声には、周囲を自然と引きつける明るさがあった。でも今の声は、底の方を擦るような、剥き出しの響きだった。
俺は何も言えなかった。言い訳を考える頭も、逃げる足も動かなかった。ただ立っていた。引き戸の取っ手を握ったままの右手だけが、やけに汗ばんでいるのを感じた。
凛はスマホの画面を見つめてから、鞄に手を入れた。取り出したのは、折り目のついたクリアファイル。中にA4の紙が何枚か入っているのが見えた。角が少しよれていて、何度も出し入れした痕跡があった。
彼女はそれを、俺に向かって差し出した。
「だったら、読んで」
その声は、命令でも懇願でもなかった。追い詰められた人間が、最後に残った選択肢を選ぶときの声だった。差し出したクリアファイルを持つ手は真っ直ぐだったけれど、指先がわずかに白くなるほど力が入っていた。
俺の完璧な放課後は、たぶん、この瞬間に終わった。
クリアファイルの中の紙を受け取った指先に、微かな震えがあった。それが彼女の震えなのか、俺自身の震えなのか、わからなかった。