第2話
第2話
連休が明けた朝の教室は、日焼けした肌と土産話で賑わっていた。
五月の光が窓から差し込んで、机の上に四角い影を落としている。僕は鞄から教科書を出しながら、いつものように気配を消していた。連休中は施設で小春の誕生日会をやって、ケーキの苺を取り合う子どもたちの審判をさせられて、夜は園長先生と縁側でぼんやり星を見た。園長先生が缶コーヒーを一本くれて、「蓮は甘いのとブラックどっちだ」と聞くから、どっちでもいいですと答えたら、じゃあブラックだなと言って微糖のほうを渡してきた。そういう、誰かの不器用な優しさの中にいると、自分がどこの誰なのか忘れられる。楽しかったのに、月曜の朝になると全部を鞄の底に押し込まなきゃいけない。そういう切り替えには、もう慣れたつもりだった。
ホームルームが終わって、一時間目の移動教室までの短い休み時間。前の席の男子が振り返って、隣の女子と連休の話をしている。沖縄に行っただの、おばあちゃんの家で犬を飼い始めただの。僕は聞こえないふりをして、数学のノートを開いた。ページの隅に昨日の夜に解いた因数分解の途中式が残っている。その無機質な数字の並びが、今はありがたかった。数字は誰のことも聞かない。
「——ねえ、これ見て」
真白の声だった。教室の中央あたり、いつもの女子グループのところ。声が少しだけ弾んでいる。好奇心の混じった、楽しそうなトーン。
「えっ、これ篠宮くんじゃない?」
心臓が跳ねた。
ノートの上に置いた手が動かなくなる。文字がぼやける。周りの音が急に水の中みたいになって、真白たちの会話だけがやけにはっきり聞こえた。耳の奥で脈拍が鳴っている。一つ、二つ、三つ。数えることで呼吸を忘れないようにした。
「ほら、この後ろのほう。制服じゃないけど、顔そっくりじゃん」
「ほんとだ。えっ、なにこれ、施設?」
「なんかね、地域のボランティアのブログに載ってて。集合写真。ひまわり園、って書いてあるんだけど」
血の気が引くのが自分でわかった。指先が冷たくなっていく。ノートのマス目が波打って見える。あの日、園長先生が「写真撮るよ」と言ったとき、僕は端のほうに立った。なるべく目立たないように、小春の後ろに隠れるように。それでも写っていた。ネットの海に、僕の居場所が漂流していた。
真白に悪気はない。たぶん、連休中に僕の住所のことを調べたわけでもない。きっとたまたまだ。クラスのグループをつくるついでに名前を検索したとか、近所の情報を調べていたらたまたま引っかかったとか。理由はどうだっていい。結果は同じだ。
「施設って、あの——児童養護施設?」
「えっ、篠宮くんそうなの?」
「わかんない。でも写真の子、めっちゃ似てるよ」
僕はゆっくりと立ち上がった。数学のノートを鞄に入れて、筆箱を閉じた。手が震えているのを悟られないように、指先に力を込めた。爪が掌に食い込んで、小さな三日月の跡がつく。その痛みだけが確かだった。移動教室だから、鞄を持って出ても不自然じゃない。大丈夫。普通に歩け。普通に、息を吸って、吐いて。
教室を出るとき、背中に視線が刺さった。何本あるのか数えたくなかった。
一時間目の化学室でも、ざわつきは消えなかった。
教室を離れれば大丈夫だと思ったのは甘かった。隣のクラスの女子が化学室の入り口で友達に何か見せていた。スマホの画面。僕は目を逸らしたけれど、彼女たちの視線がこちらを掠めたのは気のせいじゃなかった。
SNSの拡散速度を、僕は甘く見ていた。
二時間目が終わる頃には、廊下の空気が変わっていた。すれ違う人の目がほんの一瞬だけ僕を捉えて、すぐに逸れる。あの視線を知っている。中学のときと同じだ。好奇と同情がない交ぜになった、どう接していいかわからない人間を見る目。腫れ物。僕は腫れ物になった。また。
「篠宮くん」
三時間目の前の休み時間、真白が僕の席に来た。少し申し訳なさそうな、でもどこか興味を隠しきれない顔。
「さっきの写真のことなんだけど。もしかして嫌だった?」
嫌だった、の一言で済む話じゃない。でも真白は知らない。僕がどれだけの時間をかけてこの薄い膜を維持してきたか。どれだけ注意深く、普通の高校生のふりを塗り重ねてきたか。朝は誰よりも早く登校して、帰りは誰よりも静かに消える。昼は屋上で一人で食べて、放課後は図書室で時間を潰す。一年と少し、一日も欠かさずにそうやって積み上げた透明な壁が、真白にはきっとただの「ちょっと大人しい子」にしか見えていない。
「別に」
声が硬くなるのを止められなかった。
「そっか。ごめんね、なんか勝手に話しちゃって」
真白は少し目を伏せて、自分の席に戻っていった。その背中を見ながら、僕は自分の冷たさに少しだけ吐き気がした。悪いのは真白じゃない。わかっている。でも、わかっていることと許せることは違う。
四時間目の国語は、先生の声が遠くに聞こえた。教科書の文字を目で追っているふりをしながら、頭の中では全然違うことを考えていた。
もうバレている。半日で、崩れた。
中学で転校してリセットしたように、高校でもやり直したつもりだった。一年と少し、うまくやってきた。誰とも深く関わらず、誰の記憶にも残らず、空気として過ごす。完璧だったはずの壁が、たった一枚の写真で紙みたいに破れた。
国語の先生が「篠宮、次読んで」と当てた。立ち上がって教科書を読む。声は震えていなかったと思う。読み終わって座ったとき、後ろの席の男子がスマホを机の下でいじっているのが見えた。画面は見えなかったけれど、見たくもなかった。
チャイムが鳴った。昼休みだ。
僕は教科書も鞄も置いたまま、財布だけポケットに突っ込んで教室を出た。購買にも寄らない。食欲なんてない。廊下を早足で進んで、階段を上がる。三階、四階、そして屋上への踊り場。踊り場の壁にはペンキの剥げた掲示板があって、去年の文化祭のポスターがまだ画鋲で留まっている。色褪せた紙面に「最高の思い出を!」と書いてある。誰の最高なんだろう、と思った。
鉄扉の前で立ち止まった。
ここだけは僕の場所だ。誰も来ない、誰の目もない、コンクリートと空だけの場所。ドアノブに手をかける。錆びた金属の冷たさが掌に食い込む。
深呼吸をした。この扉を開ければ、少なくとも昼休みの四十五分間は誰にも見られなくて済む。教室に戻ったら何が待っているかわからないけれど、今はここに逃げたかった。
押し開ける。蝶番がいつもの錆びた声で鳴く。五月の風が頬を打った。
——誰かが、いた。
給水塔の影。僕がいつも座る場所。そこに、見知らぬ男子が寝転がっていた。
ブレザーの袖をまくって、片腕を顔の上にかざしている。長い脚を投げ出して、学校指定じゃないグレーのスニーカーを履いている。胸元のネクタイの色が、僕とは違う。三年の色だ。
足音に気づいたのか、男子が腕をずらして片目でこちらを見た。目が合う。逆光で表情はよく見えないけれど、面倒くさそうでも、驚いているわけでもない。ただ静かに、品定めするような視線だった。
「あ——すみません」
反射的に謝って、一歩下がった。ここは僕の場所だ、なんて言う権利はない。誰の場所でもない屋上だ。踵を返しかけたとき、背中に声が届いた。
「お前、二年の篠宮だろ」
足が止まった。
名前を知っている。この人は僕の名前を知っている。校内で僕の名前を呼ぶ人間なんて、出席を取る教師くらいだったのに。今日はもう二度目だ。知らない場所で、知らない文脈で、僕の名前が呼ばれる。
振り返ると、男子はゆっくり体を起こしていた。ブレザーのポケットから弁当箱を取り出して、膝の上に置く。大きな、二段重ねの弁当箱。
「逃げてきたんだろ。座れよ」
風が吹いた。屋上のフェンスが微かに揺れる。
僕は立ったまま、その先輩の顔を見ていた。見覚えがない。でもこの人は僕を知っている。そしてこの場所にいる。僕だけの場所だったはずの、ここに。
五月の空は高くて青くて、どこまでも抜けていた。遠くで体育の授業のホイッスルが鳴っている。先輩が弁当箱の蓋を開ける音がした。卵焼きの匂いが、風に乗ってかすかに届いた。
足が動かなかった。進むことも、戻ることもできなかった。