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屋上の卵焼きと、僕の嘘

第1話 第1話

第1話

第1話

屋上の鉄扉は、錆びた声で鳴く。

四月の風がコンクリートの床を撫でて、僕の足元を通り過ぎていった。給水塔の影に背中を預けて、コンビニの塩おにぎりを膝の上に置く。コンクリートの冷たさが制服越しに伝わってきて、背骨のあたりがじんと痺れる。フィルムを剥がす音が、やけに大きく聞こえる。校庭のほうから笑い声が風に乗って届いた。誰かがボールを蹴っている。誰かが名前を呼ばれている。春の匂いがする。桜はもう散りかけていて、花びらがフェンスの隙間に引っかかって、小さく震えていた。

僕はここで食べる。毎日。

二年三組、篠宮湊。出席番号は十四番。席は窓側の後ろから三番目。それだけの情報で、たぶん僕のことは説明できる。いじめられているわけじゃない。無視されているわけでもない。ただ、誰の記憶にも残らない。廊下ですれ違っても目が合わない。グループワークで余っても、「あ、篠宮いたんだ」で済まされる。空気、というやつだ。空気は誰も傷つけないし、誰にも傷つけられない。それでいいと思っていた。

おにぎりの海苔が、少しだけ湿っていた。朝、施設を出る前に買ったやつだ。噛むたびに米の甘さと塩気が混ざって、舌の上でじんわり溶ける。贅沢は言えない。朝食代として渡される日額の中から、昼の分を捻出するのがいつものやりくりだった。

——施設。

その言葉を頭の中で転がすだけで、胃のあたりがきゅっと縮む。正式には「ひまわり園」。僕が三歳のときから暮らしている児童養護施設。住所欄には施設の所在地が載っているけれど、学校に提出する書類は園長先生が気を利かせて、個人名義の住所に書き換えてくれている。クラスメイトの誰も知らない。知られたくない。

「施設の子」。

中学のとき、一度だけそう呼ばれたことがある。転校先の教室で、担任がうっかり口を滑らせた。その日から視線が変わった。同情、好奇心、そしてほんの少しの距離。全部が等しく痛かった。休み時間になるたびに、背中に小さな棘が刺さるような気配を感じた。誰かがひそひそ話をしているのが聞こえるたびに、自分のことじゃないかと耳が勝手に拾おうとした。あの半年間で学んだことがある。同情は優しさの形をした壁だ。だから高校では最初から決めていた。誰とも深く関わらない。過去を聞かれたら笑ってごまかす。ボロが出る前に、会話を切り上げる。

屋上は僕だけの場所だった。鍵は壊れたまま放置されていて、誰も来ない。風と空と、遠い笑い声。それだけあれば昼休みは過ごせる。

チャイムが鳴った。五時間目の予鈴だ。おにぎりの二個目を急いで口に押し込み、ペットボトルのお茶で流し込む。鉄扉を開けて、階段を降りる。二年生のフロアに近づくにつれて、人の声が増えていく。僕は息を整えて、表情を作る。なるべく目立たない顔。なるべく記憶に残らない歩き方。教室のドアを開けて、自分の席に滑り込む。

「——あ、篠宮、いたの」

隣の席の女子が、なんでもない声で言った。僕はなんでもない顔で頷いた。それだけだった。それだけで、よかった。

放課後の教室には、部活に行く人間と帰る人間の二種類しかいない。僕はどちらでもなくて、ただ鞄に教科書を詰めていた。窓の外では野球部がグラウンド整備をしている。トンボを引く音が規則正しく聞こえた。西日が教室の床を斜めに切って、机の脚に長い影を落としていた。黒板消しの白い粉が、光の筋の中でゆっくり舞っている。

ポケットの中でスマホが震えた。

画面を見て、心臓が跳ねた。「ひまわり園」の文字。園長先生からだ。僕は反射的に周囲を見回した。近くに誰もいないことを確かめてから、廊下に出て電話に出る。

「もしもし、湊?元気にしてる?」

園長先生の声は、いつも少しだけ高い。僕のことを心配しているときの声だ。

「はい、元気です。なんですか」

声を抑えながらも、園長先生の声を聞くと胸の奥が少しだけ緩む。この人は僕が泣いている夜にそっと部屋のドアを開けてくれた人だ。感謝と、それでも距離を置かなければいけないもどかしさが、いつも同時に込み上げる。

「来週の日曜、小春ちゃんの誕生日会やるんだけど、来られる? あの子、湊兄ちゃんに会いたいってずっと言ってて」

小春。施設で一番年下の女の子。僕が絵本を読んであげると、膝の上でいつの間にか眠ってしまう子。

「行きます。ケーキは——」

廊下の角から足音が聞こえた。僕は声を落とした。

「すみません、あとでかけ直します」

通話を切って、スマホをポケットにねじ込む。足音は遠ざかっていった。ただの通りすがりだ。誰も聞いていない。大丈夫。

でも指先が冷たかった。四月なのに、手のひらに汗をかいていた。

こうやって僕は生きている。電話一本にびくつきながら、過去をポケットの奥に押し込んで、毎日をやり過ごしている。施設の子どもたちに会いたい気持ちと、施設の子だと知られたくない気持ちが、胸の中でずっとぶつかっている。どっちも本当の気持ちだから、どうしようもない。

鞄を持って昇降口に向かった。下駄箱でローファーに履き替えていると、背後から声がした。

「あ、篠宮くん」

振り返ると、クラスメイトの真白がいた。白石真白。いつも教室の真ん中あたりにいて、誰とでも話せるタイプの女子。僕とは対極の存在だ。正直、名前と顔が一致しているだけで、まともに話したことは数えるほどもない。

「今日、委員会の連絡網つくるんだけど、篠宮くんの連絡先って——」

「あ、LINEなら」

「うん、それもなんだけど」

真白はスマホを片手に、少し首を傾げた。髪留めのピンが蛍光灯を反射してちらりと光る。

「篠宮くんって、どこ住み?」

心臓が、止まった気がした。

昇降口の雑踏が一瞬、遠くなる。上履きをしまう手が固まって、ロッカーの金属の冷たさだけが指先に残った。

「連絡網に住所いるかなって思って。学校の近く? それとも電車?」

悪意はない。当たり前の質問。クラスメイトに聞く、当たり前の会話。でも僕にとっては当たり前じゃなかった。頭の中で住所を検索する。書類上の住所。園長先生が用意してくれた、嘘の住所。口の中が乾いて、さっき飲んだお茶の味がかすかに蘇った。

「——北口のほう」

声が震えていないか、自分ではわからなかった。

「へえ、わりと近いんだ。じゃあ自転車?」

「うん、まあ」

嘘だ。僕はバスで四十分かけて通っている。施設から。でも真白は疑わなかった。「ありがとー」と笑って、スマホにメモを打ち込んでいる。その横顔がまぶしくて、僕は少し目を逸らした。

「ねえ、篠宮くんってSNSやってる? インスタとか」

「……やってない」

「えー、もったいない。クラスのグループあるよ? 入る?」

「いい。大丈夫」

また壁を作っている。わかっている。真白は親切で聞いてくれているだけだ。でも繋がれば繋がるほど、ボロが出る確率は上がる。SNSには僕の知らないところに僕の痕跡が残っているかもしれない。施設の行事の写真。地域のイベントの記録。園長先生のブログ。どこかに、僕が「施設の子」だと証明するものが眠っている。

「じゃあまたね、篠宮くん」

真白は手を振って、友達の輪に戻っていった。僕は靴を履き替えて、校門をくぐった。

バス停までの道を歩きながら、さっきの会話を頭の中で何度も再生した。おかしな受け答えはなかったか。矛盾はなかったか。怪しまれていないか。

たぶん、大丈夫だ。

たぶん。

四月の風が背中を押した。温かいのに、どこか心許ない。ポケットの中のスマホが、まだ少しだけ熱を持っていた。園長先生に折り返さなきゃ、と思いながら、バスの時刻表を見上げた。次のバスまで十二分。ベンチに座って、空を仰ぐ。

屋上から見る空と、ここから見る空は、同じはずなのに違って見えた。

真白の「どこ住み?」という声が、頭の中でまだ小さく反響している。ただの質問だ。ただの、質問のはずだ。連休が終わるまであと三週間。このまま何事もなく五月を迎えられたら——そう思いながら、僕はバスに乗り込んだ。

窓の外を、桜の花びらが一枚、追いかけてきて、すぐに見えなくなった。

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