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屋上の卵焼きと、僕の嘘

第3話 第3話

第3話

第3話

足が動かないまま、どれくらい経っただろう。たぶん十秒もなかったと思う。でも屋上の風が二回、僕の頬を撫でていった。二回目の風は少し湿っていて、遠くの雲の匂いがした。

「座れって言ってんだけど」

先輩の声には苛立ちがなかった。ただ事実を繰り返しただけみたいな、平らな声だった。弁当箱の蓋をひっくり返して、その上に箸を置いている。二段の弁当箱の中身は、白米と、茶色い煮物と、鮮やかな黄色の卵焼きが三切れ。手作りだ。コンビニのおにぎりしか知らない僕には、その色の数だけでまぶしかった。白米の上に黒ごまが数粒散っていて、煮物からは醤油と生姜の混じった匂いがかすかに立ち上っている。生活の匂いだ、と思った。誰かの台所の、毎朝の匂い。

座る場所がわからなかった。給水塔の影はいつも僕が使う場所で、今はこの先輩が陣取っている。かといって離れたところに座ったら「座れ」と言った意味がなくなる。迷っている僕を見て、先輩は隣のコンクリートを掌でぽんと叩いた。犬に「伏せ」を教えるみたいな仕草だった。

仕方なく、一メートルほど間を空けて腰を下ろした。コンクリートの冷たさが制服越しに太ももに染みる。いつもの感覚だ。でもいつもと違って、隣に人の体温がある。それだけで屋上の空気の密度が変わったみたいだった。一メートルの距離が、近すぎるのか遠すぎるのか、自分でもわからなかった。

先輩は何も言わずに弁当を食べ始めた。箸の動きが淡々としていて、味わうというより補給に近い。横目で見ると、顎の線がはっきりしていて、髪は少し長めで風に揺れている。首筋に薄く日焼けの跡があった。運動部だろうか。でも昼休みに屋上で弁当を食べる運動部員を、僕は知らない。

沈黙が流れた。風の音と、遠くのチャイムの残響と、先輩が煮物を噛む小さな音。僕は膝を抱えたまま、フェンスの向こうの空を見ていた。食欲はなかった。財布だけ持って出てきたから、そもそも何も買っていない。でも空腹よりも、教室から逃げてきた安堵のほうが大きくて、胃の存在を忘れていた。

「食ってないだろ」

先輩が箸で卵焼きをつまんで、僕の膝の前に差し出した。突然すぎて、意味がわからなかった。黄色い卵焼きが箸の先で少し揺れている。甘い匂いがした。出汁巻きじゃない、砂糖の入った甘い卵焼き。施設の朝ごはんで時々出てくるやつに似ている。でも施設のものより少しだけ色が濃くて、焼き目が丁寧だった。

「いえ、あの——」

「いいから」

断る隙がなかった。先輩は僕の返事を待たずに、弁当箱の蓋を僕の膝の上に置いて、その上に卵焼きを載せた。蓋の裏側に小さな水滴がついていて、冷たさが制服のズボンに沁みた。

卵焼きを見つめた。三センチくらいの、きれいな四角。焼き色が均一で、端っこだけ少し濃い。誰かが朝、フライパンの前に立って、卵を溶いて、砂糖を入れて、巻いた。そういう時間が、この卵焼きの中に入っている。僕の朝にはない種類の時間だ。目覚ましが鳴って、顔を洗って、制服を着て、誰にも見送られずに玄関を出る。その動線のどこにも、誰かのために卵を焼く場面は存在しない。

ひと口、噛んだ。甘かった。舌の上でほどけるように柔らかくて、じわっと出汁の味が追いかけてきた。飲み込んだあと、喉の奥があつくなった。泣きそうだったのかもしれない。でも泣かなかった。泣く理由がわからなかったから。ただ、口の中に広がった甘さが、教室で浴びた言葉のざらつきを少しだけ薄めていくのを感じた。

「——うまいだろ」

先輩が前を向いたまま言った。自慢でもなく確認でもなく、ただ知っている事実を口にしたような言い方だった。

「はい」

自分の声がかすれていた。

先輩は弁当の残りを黙々と片づけて、蓋を閉じて、ゴムバンドで留めた。それから脚を伸ばして、フェンスの向こうの校庭を見た。体育の授業は終わったらしく、グラウンドには誰もいなかった。トンボの跡だけが残って、土が整然と均されている。

「柊」

「え?」

「名前。三年の柊蒼真。覚えなくていい」

覚えなくていいと言いながら名乗る人を、僕は初めて見た。

「教室、きつかっただろ」

心臓が縮んだ。この人は知っている。今日の噂のことを。僕が施設育ちだとクラスに広まったことを。だからここにいるのか。だから座れと言ったのか。でも同情なら要らない。同情は優しさの形をした壁だ。そう学んだはずだった。施設にいた頃、訪問してくる大人たちの「かわいそうに」という声の温度を、僕はずっと計っていた。あの温度と同じものが来るなら、僕はここにいるべきじゃない。

「別に」

ep1の放課後に真白にそう返したのと同じ声が出た。防御の定型文。僕の語彙の中で一番使い古された言葉。

柊先輩は僕の「別に」を聞いて、鼻で笑った。馬鹿にしたんじゃない。何かを見透かしたような、短い笑い。

「嘘つくのは上手いのに、隠すのは下手だな」

返す言葉がなかった。

「俺が守る」

唐突だった。脈絡がなかった。先輩はフェンスのほうを向いたまま、何でもないことみたいに言った。明日の天気の話をするような温度で、僕の世界を揺らすことを言った。

「——は?」

「理由は後で話す」

「いや、意味わかんないんですけど」

「わかんなくていい」

会話になっていない。僕が聞きたいことには全部「後で」か「いい」で蓋をされる。でも不思議と不快じゃなかった。押しつけがましいのに、圧が薄い。言葉の輪郭ははっきりしているのに、力が入っていない。まるで自分に言い聞かせているみたいだった。

風が強くなった。フェンスの金網がびりびりと震えて、屋上の隅に溜まった桜の枯れた花びらが舞い上がる。五月の風はもう桜の匂いをしていなくて、代わりに若葉の青臭さを含んでいた。

僕は柊先輩の横顔を見ていた。何を考えているのかわからない。なぜ僕を知っているのか、なぜ守ると言うのか、なぜ屋上にいたのか。疑問ばかりが積み上がって、でもどれも口から出てこなかった。代わりに出てきたのは、場違いな感想だった。

「卵焼き、甘いほうなんですね」

先輩は少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。

「塩派か?」

「いえ、甘いほうが好きです」

なんの話をしているんだろう。教室では僕の過去が切り売りされていて、廊下では視線の棘が待っていて、スマホの中では知らない誰かが僕の写真を見ている。それなのに僕は屋上で、初対面の先輩と卵焼きの味付けの話をしている。

おかしかった。状況が。でも、おかしいのに、少しだけ楽だった。

チャイムが鳴った。五時間目の予鈴。昼休みが終わる。僕は立ち上がって、ズボンについたコンクリートの粉を払った。先輩も立ち上がったけれど、急ぐ様子はなかった。

「あの、先輩」

「柊でいい」

「柊先輩。なんで僕のこと知ってるんですか」

先輩は弁当箱を鞄に入れながら、少しだけ間を置いた。

「屋上は前から使ってた。お前が来る前から」

それだけ言って、鉄扉に向かった。僕より先に扉を開けて、階段の暗がりに足を踏み入れる。その背中に、最後にもうひとつ声をかけた。

「守るって、何からですか」

柊先輩は振り返らなかった。でも階段を三段降りたところで、足を止めた。

「明日の放課後、第二準備室に来い」

鉄扉の向こうに声が反響した。有無を言わせない響きなのに、命令というより招待に聞こえた。足音が遠ざかっていく。規則正しく、迷いのないリズムで。

一人になった屋上で、僕は弁当箱の蓋を見下ろした。先輩が置いていった蓋。卵焼きの油の跡がうっすら残っていて、指で触れると、まだほんの少しだけ温かかった。

第二準備室。校舎の東棟の一階、音楽室の隣にある、いつも鍵がかかっている部屋。何があるのか知らない。行く理由もわからない。

でも——今日の昼休み、僕は初めて屋上で一人じゃなかった。それだけが、胸の中に小石みたいに残っていた。飲み込めないけど、吐き出す気にもなれない、小さくて硬い何か。

教室に戻ると、誰かの視線が頬を掠めた。でも朝ほどは痛くなかった。理由はわからない。卵焼きのせいかもしれないし、柊先輩の根拠のない「守る」のせいかもしれない。どっちにしても、僕は明日の放課後のことを考えていた。

第二準備室。鍵のかかった扉の向こうに、何があるんだろう。

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