第2話
第2話
冷え込みの底が深い朝であった。
新之助は鶏の声で目を覚ました。障子の外はまだ薄墨色で、板の間を伝う冷気が首筋を刺す。腹が鳴った。昨夜、伊助が分けてくれた粥は、とうに胃の腑から消えている。飢えが眠りを裂く。令和の朝、湯気の立つコーヒーを啜っていた時分には、考えもしなかった感覚だった。
指を曲げ伸ばしする。関節が軋んだ。この身体はまだ二十歳そこそこのはずであるのに、節々の強張りは年寄りじみている。栄養が足りておらぬのだろう。行李の中を探れば、わずかな銭と、擦り切れた脇差が一本。それだけが草野新之助という男の全財産であった。
脇差を鞘から抜いてみる。刃は錆びてはおらぬが、研ぎが甘い。武士の魂と言われるものが、この程度の代物で済んでいることに、かえって安堵した。振り回す気はない。振り回せる腕もない。歴史年表が頭の中にある。それは確かだ。だが今朝の米にはならぬ。
伊助の戸口を叩くと、男は既に仕事の支度を終えていた。
「仕事を、教えてはいただけぬか」
新之助は深く頭を下げた。自尊を捨てるのに迷いはなかった。令和で勤め人をしてきた男にとって、頭を下げるのは作法の一つに過ぎぬ。
伊助はしばし新之助の顔を眺めてから、口の端を歪めて笑った。
「三日寝込んで覚悟が据わったか。棒手振りの権七に声をかけてやる。貝でも売って歩け。浪人の体面を気にするなら、他を当たれ」
「気にはせぬ」
「ほう」
伊助の眉が片方だけ持ち上がった。武士の端くれが、天秤棒を担ぐ。その侮蔑を覚悟の上で言ったと、男は察したらしい。
「面白いの、お前は」
◇
権七という男は、長屋から二町ほど離れた裏店に住んでいた。四十半ばの、目つきの鋭い魚河岸上がりの男である。
「蜆だ。霊岸島で仕入れてきた。売り歩くだけの話だが、舐めた値をつけるなよ。お前のような初の者は、まず一合を四文から五文の間で売る」
権七は新之助の痩せた肩に天秤棒を担がせた。桶が二つ、縄で吊り下げられている。蜆がみっしりと詰まった桶は、思った以上に重い。肩に食い込む棒の痛みに、新之助は息を呑んだ。掌の皮が一瞬で熱を持つ。
「足腰がなっとらんな。まあ、半日担いで歩けば慣れる」
新之助は奥歯を噛み締めて歩き出した。一歩ごとに、桶の中で蜆の殻が擦れ合う乾いた音がする。その音と、自分の草鞋の踏み音が、江戸の朝の路地に混じっていく。
朝靄がゆるりと薄れゆく路地には、炊き立ての飯の匂いと、焚き付けの煙がどこからか流れてくる。井戸端で釣瓶の軋む音、赤子の細い泣き声、女房たちが甲高く呼び合う声。令和の都会の無機質な喧騒とは、音の質がまるで違っていた。ここでは、人の息遣いがすぐそこで生きている。向こうの長屋から、味噌の焦げる香ばしい匂いが漂ってきて、空きっ腹が鈍く疼いた。
──しじみよ、しじみ。
声を張ろうとして、喉が詰まった。令和の地下鉄駅の録音された案内とは、何もかもが違う。この時代では、己の身体から発する声だけが商売道具であった。二度目でようやく声が出た。掠れて、みっともない声であった。
歩き始めて四半刻も経たぬうちに、肩の皮がひりついて熱を帯びた。天秤棒の食い込む箇所に滲んだ汗が、寒風に触れてすぐさま冷える。息が浅くなる。令和で机にかじりついてきた身体が、今更になって悲鳴を上げていた。それでも足を止めれば、蜆は売れぬ。歩きながら声を出す。声を出しながら、次の路地を覗く。目は獲物を探す獣のように、家々の戸口を追っていた。
四つ辻に差し掛かると、向こうから同じような天秤棒を担いだ男が早足でやって来た。その男の声は朗々と響き、遥か先の路地にまで届いている。商いとは、技であった。
それでも、買ってくれる者はいた。
最初の客は、井戸端で米を研いでいた初老の女であった。女は新之助を上から下まで眺めて、訝しげに言った。
「あんた、見ねえ顔だね。どこの店の蜆だい」
「霊岸島、権七の仕入れにござる」
「ござる、ときたか」
女は笑った。馬鹿にした笑いではなかった。皺の深い頬がゆるりと緩み、前歯の一本欠けた口元が、朝日を受けて柔らかく映えた。その笑みを見た途端、新之助は首筋の強張りが、わずかにほどけるのを感じた。
「一合おくれ。銭はこれだ」
四文が、木椀の縁に置かれた。寛永通宝。穴の開いた黒ずんだ銅銭が、朝日を受けて鈍く光る。新之助は初めて、この時代の貨幣を掌に握った。指先に伝わる金属の冷たさと、わずかな重み。これで米が買える。汁の実が買える。この手触りが、令和の電子決済の画面とどれほど隔たったものかを、新之助は噛み締めた。
昼までに、新之助は五合を売った。二十文。米一升の半値にも満たぬ。それでも、自分の声で稼いだ最初の銭であった。
◇
夕刻、長屋に戻る途中で、新之助は大家の清兵衛に呼び止められた。
清兵衛は五十がらみの小柄な男で、長屋の差配役を務めている。薄い眉の下の目が、やけに鋭い。
「草野殿。ちと話がござる」
大家の家の土間に招き入れられ、上がり框に腰掛けた。框の板が冷えていて、股引越しにも尻が凍る。
「棒手振りをしておられると伺った」
「さようにござる」
「今日は、幾ら売られた」
「二十文」
清兵衛は頷き、火鉢の灰を掻いた。炭の赤が、男の頬を下から照らす。
「ひとつ、問いを出す。お答えいただきたい」
男は算盤を取り出した。珠を二つ三つ弾きながら、淡々と問うた。
「米が一升百三十文。油が一合四十八文。味噌が一斤九十二文。〆ていかほどか」
「二百七十文」
新之助は即答した。珠を弾く間もなかった。令和でも暗算は苦にならぬ質であった。三桁の足し算は、息を吸うようなものだった。
清兵衛の手が止まった。算盤の珠が、ぱちりと小さな音を立てた。
土間の片隅で煮立っていた鍋の音が、不意に遠ざかって聞こえた。清兵衛の目が、算盤からゆっくりと新之助の顔へと移る。火鉢の炭が、ぱち、と小さく爆ぜて、一瞬、男の目許に赤い影が走った。新之助は、掌にじわりと汗の滲むのを感じた。──出過ぎたか、とも思うた。武家くずれの浪人が、大家の問いに珠を弾かずに即答する。それは、尋常の応えではなかった。
「もう一つ。店賃が月に五百文。三月分、しめて──」
「千五百文にござる」
「一年分は」
「六千文」
「九人からの店子で、取れ高は」
「五万四千文。金に直せば十三両二分と弱、というところにござろう」
清兵衛は目を細め、ゆっくりと算盤を置いた。節くれ立った指が、小さく唇を撫でた。
沈黙があった。短くはあったが、重たい沈黙であった。新之助は、己の迂闊を悔やみかけた。しかし、清兵衛の目に浮かんでいたのは、疑いよりも驚きに近いものだった。そしてその奥には、値踏みをする商人のような冷ややかな光も、確かに潜んでいた。
「草野殿、失礼ながらどこで学ばれた」
新之助は答えに窮した。令和の学校で、とは言えぬ。
「──亡き父に、わずかばかり」
父親がおったのかどうかも知らぬが、嘘はそれらしく響いた。清兵衛は頷いた。疑う風ではない。
「実はな、長屋の店賃の帳簿を付ける者を探しておった。わしの目が弱くなって、夕刻の細かい数字が追えぬのだ。月に百文で、五の日と二十日に二刻ほど来てもらえぬか」
新之助は頭を下げた。深々と、額が框に付くほどに。
棒手振り一日で二十文。帳簿付けは月百文。大きな金ではない。だが、これは金高だけの話ではなかった。長屋の差配役に信用される、ということの意味を、新之助は社会人として生きた人間の感覚で即座に理解した。ここに、足場ができる。
「ありがたく、お引き受け申す」
清兵衛は火鉢に炭を足した。ぱちりと爆ぜる音が、土間に響いた。
◇
その夜、新之助は筆を執った。清兵衛から預かった半紙に、試しに今日の売上を書き付ける。墨の擦れ具合も、筆の運びも覚束ない。令和でボールペンしか握ったことのない指が、穂先の震えに惑う。だが書ける。書けぬことはない。
天井の板目を見つめる。昨夜と同じ天井であった。だが昨夜とは、見える景色が僅かに違っていた。歴史年表を知っているだけの男であったはずが、今日、寛永通宝の重みを掌で知った。声が枯れるまで蜆を呼んだ。算盤の珠を清兵衛に止めさせた。
黒船まで、あと半年。その日までに、信用を重ねる。銭を貯める。誰かと繋がる。一人では何も変えられぬと、伊助の鼾を聞きながら思う。
壁の向こうで、どこかの家が戸を閉める乾いた音がした。その音に続いて、鉄を打つ鈍く重い響きが、遠く夜気を伝って流れてきた。かん、かん、と二度。間を置いて、また一度。
誰ぞが、夜更けまで鍛冶を打っているらしい。
その音が、新之助の耳の奥に、妙に深く残った。