第3話
第3話
嘉永六年、春浅き朝であった。
梅のほころぶ路地に、湯気のような朝靄が薄く流れている。新之助は井戸端で顔を洗い、桶の水を捨てた。水面に映る己の顔が、半年前よりもいくらか骨太になっていた。蜆を担ぎ続けた肩には、牛革に似た胼胝が張り付き、掌の皮も厚く乾いている。声を張る胸も、いつのまにか底が深くなっていた。
昨夜も、またあの鍛冶の音が聞こえた。
かん、かん、かん。三つ打って、ひとつ沈黙。また二つ打って、ふたつ沈黙。音には律がある。丹念な手の男が、暗い火床にひとり向かっている——新之助はそう感じていた。尋ねようとして尋ねそびれ、幾夜かが過ぎていた。
帳簿付けの日であった。大家の清兵衛の土間に上がり、筆を運ぶ。墨の匂いが鼻をくすぐる。筆運びは、この三月で格段に上達していた。清兵衛は時折、「草野殿、商人にしても食うに困らぬの」と笑った。冗談とも本気ともつかぬ笑いであった。
「時に、草野殿」
清兵衛は炭を火鉢に足しながら、声を落とした。
「相州あたりで、妙な噂が立っておるのをご存知か」
新之助の指が、一瞬、筆の上で止まった。
「どのような」
「沖合に、帆を持たぬ大きな船が、二度ほど見えたそうな。煙を吐きながら走っておったという。夢物語かと聞き流しておったが、昨日、日本橋の魚屋も同じ話をしておった」
筆を置く手が重かった。指先が、己の意志を離れて微かに震える。
嘉永六年、六月三日、浦賀沖。その日付が、令和の教科書の黒い活字となって脳裏に焼き付いていた。今はまだ三月。あの日まで、あと三月足らずである。
「——さて、何でござろう」
絞り出した声は、我ながら白々しかった。清兵衛は頷き、深くは追及しなかった。ただ帰り際、新之助の背に向けて一言だけ投げた。
「世が乱れる兆しというものは、いつの世も、船か米か、人の噂から始まるものにござる」
長屋に戻る路地で、新之助は立ち止まった。板塀の裂け目から射し込む午後の光の中で、舞う埃の粒が妙に鮮やかに見えた。一粒一粒が、まるで時の砂そのもののように、ゆっくりと、しかし確かに落ちていく。
——もう、始まっている。
◇
数日の後、新之助は深川の路地で蜆を売り歩いていた。
「しじみよ、しじみ」
慣れた声が路地の隅々に届く。戸口を開ける女房たちの中で、日本橋の商家に出入りするという下女が、釣瓶を掬う手を止めて言った。
「兄さん、聞いたかい。浦賀のほうでな、異人の船が沖に見えたそうだよ」
「——浦賀で」
「亭主が魚河岸で聞いてきたのさ。真っ黒い船でな、帆もないのに煙を吐いて走っておった、と。お上は何もおっしゃらねえそうだけど、あちらの漁師はおっかながって船を出さねえらしい」
新之助は曖昧に相槌を打ち、掌で額の汗を拭った。
その日のうちに、似たような噂を三度耳にした。葱売りが、湯屋の番台が、煮売屋の主が、それぞれ別の口から、同じ形の話を語っていた。半月前にはまだ一人二人しか知らなかった噂が、春の野火のように江戸の路地を舐めている。
——六月三日まで、あと三月。
頭の中で、数字が音を立てて刻まれていく。
新之助には見えていた。ペリー率いる四隻の艦隊が、浦賀沖に現れる。その日、江戸の町は恐慌に陥り、民は我先にと鍋釜を担いで逃げ惑うのである。幕府は無力に黙り、やがて条約が結ばれ、この国は開かれる。そこから血の年が続く。
だが——己に、何ができる。
蜆を売って声を枯らす浪人に、何ができるのか。
長屋に戻る頃には、陽は西に傾いていた。路地の井戸端では、子供らが竹の棒を振り回して遊んでいる。女房たちが菜を刻む音、味噌をすり合わせる木の響き。平穏そのものの夕景であった。半年の後、この路地の者たちが、黒船の噂に震えながら逃げ支度に走り回る光景が、新之助の目には既に見えている。
伊助の部屋の前を通り過ぎようとして、新之助は足を止めた。路地の突き当たり、これまで誰も住んでおらぬと思うていた掘っ建ての小屋から、あの音が流れてきたのだ。
かん、かん、かん。
三つ打って、ひとつ沈黙。
昼下がりに、この音が鳴るのは初めてだった。夜の闇に紛れて聞いていたときよりも、音は明るく、硬く、金属そのものの声として耳に届いた。新之助は天秤棒の重みを肩に感じながら、しばらく動けずにいた。胸の奥で、何かが呼ばれている——そんな感覚であった。
◇
新之助は天秤棒を路地の隅に立てかけ、音を辿って掘っ建ての前に立った。
板戸は半ば開いていた。中を覗き込むと、煤けた土間の奥に小さな火床が据えられ、赤く焼けた鉄の欠片を、ひとりの男が金鎚で打っている。三十路を少し過ぎた、ずんぐりとした体つきの男であった。頬と腕に煤の跡があり、額には汗が光っていた。火床の朱色が、その汗を血の色に染めている。鉄と炭と、焦げた油の匂いが、土間から重く漂い出ていた。息を吸うと、喉の奥までその熱が届くようで、新之助は思わず一歩退きかけた。
「——御免」
新之助が声をかけると、男は金鎚を止め、振り向いた。濃い眉の下の目が、警戒するように細められた。
「何でえ」
「隣の長屋の者にござる。昨夜も、一昨夜も、夜更けにこの音を聞いておった。気になって、足を止めた」
男はしばし新之助の顔を眺めていたが、やがて、ふん、と短く鼻を鳴らし、赤く焼けた鉄を金床に戻した。
「浪人か。武家くずれに、鍛冶の何が分かる」
「何も分からぬ」
新之助は正直に応じた。男は金鎚を振り下ろしながら、片眉を上げた。打つ音が、正面で聞くと腹の底に響いた。耳だけでなく、胸骨ごと揺さぶる音であった。
「留吉、と呼ばれておる」
男が、打ちながら言った。
「深川の政五郎親方のところで、七年、下働きをした。二年前に、追い出された」
「追い出された——」
「親方の跡取りが、わしの打った包丁を己の作として世に出した。切れ味が良いと評判が立った。わしが抗議したら、出ていけと言われた」
新之助は言葉を失った。留吉の打つ鉄は、金床の上で赤く震え、形を変えていく。その手つきの確かさが、素人目にも分かった。金鎚の先が鉄に触れるたび、火花が小さく舞って、土間の闇に消えていく。その一粒一粒が、男の七年を語っているように思われた。
「……今は、何を」
「鍋の修繕で、食いつないでおる。親方筋に睨まれておるゆえ、まともな仕事は回ってこん。包丁も、わしの名では、あまり売れぬよ」
留吉の声には、恨みというよりも、諦めの色が濃かった。打つ手は休まぬ。火床の赤が、男の髭を照らしては翳り、照らしては翳る。汗が鉄の上に落ち、じゅっと音を立てて蒸発した。その微かな音さえ、この男にとっては己の手仕事の一部であるかのようだった。
「見せてもろうても、よいか」
新之助は、壁に掛けられた包丁の一本を手に取った。刃渡り六寸ほどの、小ぶりな菜切りであった。柄の木目は掌に馴染み、刃筋が素人目にも真っ直ぐで、重心は手に吸い付くように収まる。令和の台所で見慣れた鋼ものと比べるべくもないが、この時代の道具として、明らかに常の品ではなかった。
「——これは、良い品にござる」
「分かる口か」
留吉の目が、初めて新之助の顔を正面から捉えた。そこには値踏みとも警戒とも違う、何かを探るような光があった。
新之助はしばし考えてから、答えた。
「己には、良し悪しの理までは分からぬ。ただ、手に収まりのよい道具は生涯の相棒となる——それだけは、知っておる」
留吉は金鎚を下ろした。
そして、低く笑った。
「妙なことを言う浪人だ」
◇
新之助は天秤棒を担ぎ直し、路地を戻りながら、胸の内でひとつの言葉が育っていくのを感じていた。
留吉の手。七年の下働きで磨かれ、いまは鍋の修繕に埋もれている手。あれは、ただの職人の腕ではない。鉄の性を、火の機嫌を、金床の応えを、身体の芯で知っている手である。
——あの男が、必要になる。
そう思うたのは、理屈ではなかった。六月三日、黒船が来る。その日を境に、この国は変わらされる。頭の中の年表だけで抗えるはずもない。ならば、手が要る。信じられる手が、幾つも要る。
路地の向こうで、黄昏の光が、板塀の上をゆるゆると滑り落ちていく。
新之助はもう一度、あの掘っ建ての小屋を振り返った。
かん、かん、かん。
夜を待たず、音が再び響き始めていた。その律儀な律動が、打つたびに己の胸の底に刻まれていくように思われた。
——あと、三月。
新之助は踵を返し、長屋の路地を、足早に歩き出した。