第1話
第1話
寒さで目が覚めた。
それが、草野新之助がこの世界で最初に得た感覚であった。骨の髄まで染みるような冷気が、薄い煎餅布団を透かして肌を刺す。吐く息が白い。指先の感覚が鈍く、まるで氷水に浸したまま眠っていたかのようだった。天井が低い。黒ずんだ板張りの天井が、すぐそこにある。見覚えのない天井だった。
身体を起こそうとして、全身に鈍い痛みが走る。まるで何日も寝込んでいたかのような倦怠感。背骨がぎしりと軋み、肋骨のあたりに鈍く重い疼きがある。両手を顔の前にかざした。痩せた指。爪の間に泥が詰まっている。自分の手ではない——いや、自分の手なのだが、記憶にある手とは違う。昨日まで打っていたキーボードの感触を、指先がまだ覚えている。だがその指は荒れ、ひび割れ、別人のものだった。関節が太く、皮膚は乾いて粉を吹いている。爪は不揃いに割れ、左の人差し指には古い切り傷の痕があった。この手が何を掴んできたのか、新之助には分からない。
部屋を見回す。六畳ほどの狭い空間に、行李がひとつと、水瓶がひとつ。壁の染みが人の顔のように見えた。隅には擦り切れた草鞋が片方だけ転がっている。障子越しに差し込む光は白く、冬の朝のそれだった。障子紙は所々破れ、そこから細い風が吹き込んでいる。どこかで鶏が鳴いている。
ここはどこだ。
立ち上がると、眩暈がした。視界の端が暗く滲み、膝が笑う。壁に手をついて堪え、障子を開ける。目の前に広がったのは、狭い土間と、その先に続く板塀に囲まれた路地。向かいにも同じような粗末な戸口が並んでいる。長屋だ。時代劇で見たような、江戸の裏長屋。
冷たい空気が肺を満たした。炭の匂い。味噌を煮る匂い。そしてどこからか漂う、汲み取りの臭気。これは作り物ではない。五感のすべてが、ここが現実だと告げていた。足の裏に触れる板の冷たさ。耳の奥で鳴る風の音。遠くから響く物売りの声。どれひとつとして、夢の中の曖昧さを持っていなかった。
新之助は、しばらく戸口に立ち尽くした。
「おう、新之助。ようやっと起きたか」
声をかけてきたのは、隣の戸口から顔を出した四十がらみの男だった。額に深い皺を刻み、綿入れの袷を着崩している。日に焼けた肌に、指には無数の古傷。職人の手だった。名は――知らない。だが男のほうは、明らかにこちらを知っている顔つきだった。
「また三日も寝込みおって。飯は食うたか」
三日。新之助は曖昧に首を振った。頭の中では令和の記憶と、この身体がかすかに持つ断片的な感覚が混じり合い、ひどい頭痛を起こしている。こめかみの奥で脈が打つたびに、二つの時代の記憶がぶつかり合うようだった。
「顔色が悪いぞ。まあ、お前はいつものことか」
男は呆れたように笑い、椀に粥をよそって差し出した。湯気が白く立ち上り、粥の匂いが鼻腔を満たした瞬間、腹の底から激しい飢餓感がせり上がってきた。新之助は礼を言って受け取る。言葉が自然に出た。声の調子も、敬語の加減も、この身体が覚えているものがそのまま口をついた。自分の口から出た声は、思っていたよりも低く、掠れていた。
粥を啜る。米の味が、異様に濃い。令和のコンビニで買う白粥とはまるで違う。粗い米粒が舌の上でざらつき、塩気だけの素朴な味が喉を落ちていく。旨い、と思った。飢えた身体が、貪るようにそれを求めていた。椀を持つ手が小さく震えている。温かいものを口にするのが、何日ぶりなのか。この身体は知っているはずだが、新之助には分からなかった。
「伊助さん」
名が出た。この身体の記憶が返してきた名だった。隣人の伊助。大工の棟梁を務める独り者。
「なんでえ」
「今は——何年でござるか」
伊助が怪訝な顔をした。当然だろう。正気を疑われても仕方のない問いだ。
「嘉永五年に決まっておろう。お前、頭でも打ったか」
嘉永五年。新之助の脳裏で、数字が稲妻のように繋がった。嘉永五年は西暦一八五二年。ペリー率いる黒船が浦賀沖に現れるのは、翌嘉永六年六月三日。あと半年ほどだ。
椀の中の粥が、急に味を失った。手が止まる。半年後、この国の形が変わり始める。その起点を、自分は知っている。
「冬も半ばだ。暮れの仕事もなくなるぞ、お前のような素浪人は。いい加減どこぞの御家に仕官するか、さもなくば手に職をつけろ」
伊助は親切で言っているのだった。この草野新之助なる人物が、天涯孤独の浪人であること。どこの藩にも属さず、日銭を稼いで暮らしていること。それが伊助の言葉の端々から読み取れた。
新之助は粥の椀を膝に置き、小さく息を吐いた。身分もない。金もない。頼る縁者もない。あるのは、この痩せた身体と、令和まで生きた人間の知識だけ。
だが、その知識が何になる。スマートフォンもなければ電気もない。インターネットで調べることもできない。この時代では、医学も化学も工学も、すべてを自分の頭だけで再構成しなければならない。しかも身体は弱り、腹は減り、明日の米すら心許ない。令和では当たり前だったものが何ひとつない。蛇口をひねれば出た湯も、スイッチを押せば灯った明かりも、ここにはない。あるのは冷たい水と、蝋燭の細い炎だけだ。
途方もない無力感が、胸の底に澱のように沈んだ。
夕刻、新之助は長屋の井戸端に立っていた。
冷えた水を手桶に汲み、顔を洗う。水の冷たさが頬を叩き、意識が一瞬鋭くなる。水面に映る自分の顔を、じっと見つめた。痩せこけた頬、くぼんだ目。二十歳を少し過ぎたくらいの、精悍とも言えぬ青年の面。令和で鏡を見ていた自分の顔とは、もはや別人であった。鏡ではなく井戸水に映る己の顔を見るという行為そのものが、時代の隔たりを突きつけてくる。
長屋には十数軒の住人がいるらしい。井戸を共有し、厠を共有し、壁一枚を隔てて互いの寝息が聞こえるような暮らし。ここに住む者たちの顔を、新之助はまだほとんど知らない。草野新之助という浪人が、いかに孤立した存在であったかが窺えた。
路地の奥から、子供の笑い声が聞こえてくる。夕餉の支度をする女たちの声。炭を割る乾いた音。七輪の上で魚を焼く煙が路地を白く霞ませ、醤油の焦げる匂いが風に乗った。ここには、確かに人の営みがあった。
新之助は目を閉じ、頭の中の年表をたどった。
嘉永六年——黒船来航。日本中が震撼する。
安政元年——ペリー再来航、日米和親条約。
安政五年——安政の大獄。吉田松陰、橋本左内、多くの志士が刑死する。
安政七年——桜田門外の変。大老・井伊直弼が暗殺される。
そこから先は、血と炎の年表だった。禁門の変。長州征伐。薩長同盟。鳥羽伏見。戊辰戦争。その激流の中で、数え切れぬ人間が死んでいく。
だが——それは歴史の教科書の中の出来事だ。今ここにいるのは、痩せた浪人が一人。年表を知っていたところで、身体は剣を振るう力もなく、人を動かす地位もない。歴史の奔流に対して、あまりにも小さな存在だった。
「何をしておる」
不意に声をかけられ、新之助は顔を上げた。伊助が木材を担いで戻ってきたところだった。額に汗の跡があり、肩の木材には鉋屑がついている。一日の仕事を終えた男の顔だった。
「水を汲んでおりました」
「水を汲みながら、あんな顔をする奴があるか。まるで国でも背負ったような面だったぞ」
伊助は笑い飛ばして、路地の奥へ消えていった。国を背負う。そんな大それたことではない。新之助にあるのは、知識だけだ。だがこの時代において、半年先の未来を知っているという事実は、剣よりも、金よりも、或いは重い。
使うか、使わぬか。使うならば、何のために。
問いだけが残り、答えはまだない。夕闇が長屋の路地を覆い始めていた。空が茜から藍へと移り、最初の星がひとつ、板塀の向こうに瞬いた。
夜。布団の中で、新之助は天井を見つめていた。
闇の中に、板目の筋がうっすらと見える。隙間風が首筋を撫で、布団の薄さを改めて思い知る。
指を折って数える。あと半年。浦賀沖に黒煙が立ちのぼるまで、あと半年。
その日が来たとき、自分は何をするのか。身を隠して嵐が過ぎるのを待つか。それとも——。
隣の部屋から、伊助の鼾が壁越しに聞こえてくる。低く規則的なその音が、不思議と心を落ち着かせた。この男も、黒船の後の激動を知らぬまま生きている。この長屋の住人たちも。江戸の町人も。武士も。誰もが、嵐の前の静けさの中にいる。
新之助は拳を握った。冷えた指の間に、爪が食い込む。痛みがあった。これは夢ではないと、改めて身体が教えている。
歴史年表。それだけが、この時代で唯一、己だけが持つもの。
——黒船まで、あと半年。
眠れぬ夜が、静かに更けていった。