第2話
第2話
玄関に立ち尽くしたまま、どれくらい経ったか分からない。一分か、五分か。体感では永遠に近かったけれど、壁掛けの古い時計を見ると、まだ五時二十分だった。
奥の廊下からは物音一つしない。栞が消えていった方向を、ただ見つめていた。
声をかけるべきだったのだろうか。「久しぶり」とか、「まさかここにいるとは思わなかった」とか。普通の再会なら自然に出てくるはずの言葉が、一つも浮かばなかった。浮かばないのではなく、どれも嘘くさくて、口に乗せられなかった。
八年だ。八年間、何も言わなかった人間が、今さら何を言えばいい。
スーツケースを持ち上げて、三和土から上がった。揃えた靴が視界の端に映る。栞の白いキャンバスシューズの隣に、僕の薄汚れたスニーカーが並んでいる。それだけのことが、妙に居心地悪かった。
廊下は思ったより長く、左右に部屋のドアが三つずつ並んでいた。突き当たりにリビングらしい空間が見えて、その手前にキッチンがある。古い木造の家特有の、かすかな軋みが足元から伝わってくる。
どの部屋が空いているのか分からず、廊下の真ん中で立ち往生していると、右手のドアが開いた。
栞だった。着替えたのか、さっきのカーディガンの上にエプロンをつけている。
「二階の奥」
それだけ言って、階段の方を顎でしゃくった。目は合わせなかった。
「……ありがとう」
栞は何も答えず、キッチンの方に歩いていった。背中を見送りながら、階段に足をかける。二段目が大きく軋んで、思わず体が強張った。
二階は部屋が二つだけで、手前のドアには小さなホワイトボードが掛かっていた。「陽太」と丸っこい字で書いてある。奥のドアには何もない。ここが僕の部屋らしい。
ドアを開けると、六畳ほどの和室だった。畳は新しくはないが、きちんと掃除されている。窓際に小さな机と、壁のハンガーラックが備え付けてあるだけの、がらんとした空間。布団は押し入れの中に畳んであった。
スーツケースを壁際に寄せて、畳の上に座り込んだ。い草の匂いが鼻をくすぐる。ここ数年、フローリングの部屋にしか住んでいなかったから、この匂いが懐かしかった。
窓を開けた。
朝の空気が流れ込んできて、カーテンのない窓枠の向こうに、住宅街の屋根が連なっている。瓦屋根と、トタン屋根と、ところどころ太陽光パネルが載った平屋。その隙間から、遠くの空が細く見えた。
——あれ。
目を細めた。屋根と屋根の間、ちょうど視線が抜ける隙間に、小さな山の稜線が見えた。都心にこんな眺望があるとは思わなかった。朝靄がかかっていて輪郭がぼやけているけれど、なだらかに連なるその形は——。
一瞬だけ、故郷の台所の窓と重なった。
小学生の頃、朝ごはんの支度をする母の横で、窓の外をぼんやり眺めていた。あの窓からも、同じようななだらかな山が見えた。そして隣の家——栞の家の屋根が、視界の右端にいつも映り込んでいた。
手すりもない窓枠に肘をついて、しばらくその景色を見ていた。山の稜線は朝日に溶けて、すぐに見えなくなった。ただの住宅街に戻った風景を、それでもしばらく目で追っていた。
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階下から、微かに水の音がした。蛇口をひねる音と、やかんを火にかける音。栞がキッチンにいるのだろう。
降りていくべきか迷った。いや、迷うというより、降りていく理由を探していた。顔を合わせて何を話すのか。八年間の空白を埋める会話なんて、僕にも栞にもできるはずがない。
でも、このまま部屋に閉じこもっているわけにもいかなかった。ここは僕の家ではない。間借りする側の人間が初日から引きこもるのは、さすがにまずい。
階段を降りると、キッチンからほうじ茶の匂いが漂ってきた。栞はシンクの前に立って、マグカップを二つ並べていた。
「座って」
リビングのローテーブルを指さされて、言われるままに座った。栞がマグカップを一つ、僕の前に置く。湯気の立つほうじ茶。カップの柄は、藍色の市松模様だった。
栞は向かい側には座らず、キッチンのカウンターに寄りかかって、自分のカップに口をつけた。距離がある。意図的なのか、無意識なのか、判断がつかなかった。
「管理人さんには私から連絡しておく。契約書は後日でいいって言ってたから」
事務的な口調だった。僕を見ずに、キッチンの窓の外を見ている。
「……助かる」
「共用スペースのルールは冷蔵庫に貼ってある。ゴミ出しは当番制。水曜と土曜」
「分かった」
「風呂は一階の突き当たり。夜は順番制だけど、朝はだいたい空いてる」
「うん」
まるでホテルのフロントだった。必要な情報だけを、過不足なく。そこに感情の色はなかった。
ほうじ茶をすすった。少し濃い目に出ている。栞が昔から濃い茶を好んでいたことを思い出して、それが僕用に合わせたものではないことに気づいた。ただ自分の分と同じ濃さで淹れただけだ。
それが少しだけ、楽だった。
気を遣われるより、気を遣われないほうがずっと呼吸しやすかった。
「他の住人は」
「二人。陽太と美月。今は寝てる。陽太はフリーランスだから昼前まで起きてこない。美月は夜勤だったはず」
「栞は——」
名前を呼んだ瞬間、喉が詰まった。八年ぶりに声に出すその二文字が、想像以上に重かった。
栞がわずかにこちらを見た。一瞬だけ、目が合った。
「……仕事は?」
「普通の会社員。今日は休み」
そう言って、カップの残りを飲み干した。マグカップをシンクに置いて、水を流す。背中越しに、声が届いた。
「湊は」
心臓が跳ねた。僕の名前を、栞が呼んだ。ただそれだけのことで、指先が冷たくなった。
「今、何してるの」
その問いかけに、どう答えればよかったのだろう。料理人だった、でも首になった。恋人に捨てられた。行き場がなくてここに来た。全部事実だけれど、どれも口にしたくなかった。特に、栞の前では。
「……ちょっと、色々あって。今は何もしてない」
栞はしばらく黙っていた。水を止める音がして、それから乾いた布巾でマグカップを拭く、小さな音。
「そう」
追及はなかった。興味がないのか、聞かないでおいてくれたのか。どちらなのか分からないまま、僕はほうじ茶の残りを飲んだ。
ふと、カウンターの隅に目が留まった。小さな多肉植物の鉢が三つ、きちんと等間隔に並んでいる。日当たりのいい場所を選んで置かれている。栞が世話をしているのだろう。間隔の揃い方が、玄関の靴と同じだった。
変わっていない。八年経っても、栞のこういうところは変わっていない。
それがどうしようもなく懐かしくて、同時に、胸の奥が痛んだ。
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二階の部屋に戻って、布団を敷いた。畳の上に横になると、疲労が一気に押し寄せてきた。昨夜ベンチで過ごした体が、ようやく水平になれた安堵に溶けていく。
天井の木目を見つめながら、考えていた。
ここに来たのは偶然だ。健人のメッセージがなければ、このシェアハウスの存在すら知らなかった。栞がいることも。
でも、偶然だからこそたちが悪かった。自分で選んだのなら覚悟もできる。けれど流れ着いた先に栞がいたという事実は、僕から覚悟を決める猶予を奪っていた。
高校三年の卒業式。体育館の裏。桜はまだ咲いていなくて、固い蕾が枝先に並んでいた。あの日、栞に何を言ったか——いや、何を言えなかったか。
記憶がそこに触れかけた瞬間、意識が遠くなった。
目が覚めたとき、部屋は明るかった。時計を見ると、午前十一時。六時間近く眠っていたらしい。
窓の外から、自転車のベルと子供の声が聞こえる。生活の音だった。昨日まで聞いていたレストランの換気扇の音とも、マンションの無機質な静けさとも違う、人が住んでいる家の音。
起き上がって、階段を降りた。リビングに人の気配はない。キッチンのカウンターに、付箋が一枚貼ってあった。
『買い物に出ます。冷蔵庫にお茶のペットボトル入ってます。——栞』
丁寧な、けれど素っ気ない字だった。用件だけ。それ以上でも以下でもない。
冷蔵庫を開けると、ほうじ茶のペットボトルが一本、僕の目線の高さに置いてあった。他の棚には住人それぞれの食材が名前付きのタッパーで区分けされていて、共用スペースには調味料と、飲みかけの牛乳と、賞味期限が二日前に切れたヨーグルトが入っていた。
自炊をしている気配がない。冷蔵庫の中身が、そう語っていた。
ペットボトルのキャップを開けながら、窓の外を見た。さっき、朝靄の中に見えた山の稜線はもう見えなかった。ただの住宅街が、春の日差しの中に広がっている。
付箋をもう一度見た。栞の筆跡は、高校の頃と変わっていなかった。
八年前も、栞はこうだった。必要なことだけを、必要なだけ。余計な感情を乗せない。それが優しさなのか、壁なのか、僕にはずっと分からなかった。
今も、分からないままだった。
ポケットの中のトングに手が触れる。昨日から何度、この癖を繰り返しただろう。行き場のない手が、行き場のない道具を握る。
この家で、栞と暮らす。その事実だけが、ほうじ茶の苦みと一緒に喉を通っていった。