第1話
第1話
「あなたの料理には、情熱がないの」
その言葉が厨房に落ちた瞬間、換気扇の低い唸りだけが妙にはっきり聞こえた。
閉店後のレストラン。客席の照明はすべて落とされていて、厨房だけが白く光っている。まな板の上には仕込み途中のハーブが散らばったままで、僕の手はまだ包丁を握っていた。
彼女——このレストランのオーナーシェフであり、二年間を共に過ごした恋人でもある人が、カウンターの向こう側に立っていた。コックコートの第一ボタンだけを外した、いつもの姿。ただ、その目が今まで見たことのない温度をしていた。冷たいのではない。もう、何も映していなかった。
「……どういう意味?」
聞き返しながら、本当は分かっていた。ここ数ヶ月、彼女が僕の皿をテイスティングする回数が減っていたこと。新メニューの試作を任されなくなっていたこと。そして何より、一緒に暮らすマンションで、彼女が僕の作る夕食に手をつけなくなっていたこと。
「そのままの意味よ」
彼女はワイングラスを一つ、カウンターに置いた。中身は空だった。
「技術はある。味も整ってる。でも、それだけ。湊の料理を食べても、何も感じなくなった」
包丁をまな板に置いた。指先が少し震えていることに気づいて、エプロンのポケットに手を突っ込んだ。
「店は来月からリニューアルする。新しいスーシェフも決まってる」
つまり、僕の席はもうないということだ。厨房にも、彼女の隣にも。
何か言い返そうとした。「情熱がない」なんて、そんな曖昧な言葉で二年間を片付けるなと。毎朝五時に起きて仕込みをして、彼女の求める味に近づこうと舌が痺れるまでテイスティングを繰り返した日々は何だったのかと。
でも、喉の奥で言葉が固まって、出てこなかった。
言い返せない自分が、彼女の言葉を証明しているような気がした。
ロッカーから私物を出すのに、十五分もかからなかった。包丁セットと、着替えと、使い込んだトングが一本。二年間の痕跡がスーツケース一つに収まってしまうことが、どうしようもなく情けなかった。
裏口から出るとき、彼女は「元気で」とだけ言った。僕は振り返らなかった。振り返ったら、何かが決定的に崩れる気がした。
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四月の夜風は思ったより冷たかった。
駅のベンチに座って、スーツケースを足元に置いた。終電はとっくに過ぎていて、ホームには誰もいない。蛍光灯が一本だけ点滅を繰り返していて、その不規則なリズムがやけに目に障った。
マンションには戻れない。あそこは彼女の名義で、僕は転がり込んだだけだ。実家は——考えて、やめた。地元に帰って何をする。三十歳手前の男が、恋人にも職場にも捨てられて実家に逃げ帰る姿を、想像するだけで胃が縮んだ。
スマートフォンを開いた。連絡先を上からスクロールしていく。大学の同期、前の職場の先輩、地元の友人。どの名前をタップしても、かける言葉が浮かばなかった。「泊めてくれ」の一言が、こんなに重いとは思わなかった。
結局、誰にも連絡できないまま、ベンチの背もたれに頭を預けた。見上げた空には星が一つも見えない。都心の空はいつもそうだ。光が多すぎて、本当に光っているものが見えなくなる。
ポケットの中で、指先が無意識にトングを握っていた。ロッカーから持ち出した、使い古しのトング。先端がほんの少し歪んでいて、他の誰が使っても微妙に掴みづらい。僕の手にだけ馴染む、僕だけの道具。
——情熱がない。
反芻するたびに、言葉の輪郭がぼやけていく。情熱って何だ。僕はただ、目の前の食材を、できる限り美味しく仕上げようとしていただけだ。それは情熱とは違うのか。
違うのだろう。彼女がそう言うなら、きっとそうなのだ。
ベンチの冷たさが、コックコートの薄い生地を通して背中に染みてきた。眠れるはずもないのに、瞼だけが重くなる。疲れているのだと思った。体ではなく、何か別の場所が。
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目を覚ましたのは、始発電車の音だった。
首が痛い。体の右半分が完全に冷え切っていて、左半分だけが朝日で温められている。アンバランスな感覚に、一瞬ここがどこか分からなくなった。
スマートフォンの画面を確認する。午前五時十二分。通知が一件。
大学時代のゼミ仲間、健人からのメッセージだった。昨夜、酔った勢いで送った「しばらく泊まれる場所ない?」という一行に、返信が来ている。
『シェアハウス空いてるよ。下北から歩ける距離。俺の知り合いが管理してるとこ。今日内見できるって。行く?』
続けて、住所と管理人の連絡先が貼られていた。
シェアハウス。共同生活。正直、気が進まなかった。今の僕は他人と顔を合わせるだけで消耗する。知らない人間の生活音が壁越しに聞こえる暮らしなんて、想像するだけで息苦しい。
けれど、選択肢は他になかった。
ベンチから立ち上がると、体中の関節が軋んだ。スーツケースのハンドルを引き上げて、改札に向かう。始発電車のドアが開く。乗り込んで、吊り革に掴まった。車内には、夜勤明けらしい看護師と、スーツ姿のまま寝落ちしているサラリーマンが数人。みんなどこかに帰る場所があるのだろう。
電車が動き出す。窓の外を、まだ薄暗い街が流れていく。
下北沢で降りた。駅前の商店街はシャッターが下りたままで、朝の静けさが張り付いている。スマートフォンの地図を頼りに住宅街を歩く。角を二つ曲がった先に、二階建ての古い一軒家が見えた。
外壁は薄い水色で、ところどころペンキが剥げている。玄関脇に小さな花壇があって、手入れされているのかいないのか判然としないビオラが、それでも健気に咲いていた。
管理人に電話をかけると、「鍵は開いてるから入っていいよ、住人の誰かがいるはずだから」と軽い調子で言われた。
玄関のドアに手をかけた。引き戸式の、少し建て付けの悪いドア。力を入れると、がたん、と大きな音を立てて開いた。
三和土に並んだ靴が四足。スニーカー、革靴、サンダル、そして——白いキャンバスシューズ。
どこかで見た覚えのある並べ方だった。つま先をきちんと外に向けて、左右の間隔が均等に揃っている。几帳面というより、それ以外のやり方を知らないような揃え方。
顔を上げた瞬間、廊下の奥から足音が近づいてきた。
「——誰? 管理人さん?」
その声を聞いて、背中に電流が走った。
低すぎず高すぎず、語尾だけが少し上がる、独特の抑揚。八年経っても変わっていなかった。変わっていないことに、心臓が跳ねた。
廊下の角から現れた女性と、目が合った。
肩にかかるくらいの黒髪。化粧気のない顔。大きめのカーディガンの袖から指先だけが覗いている。
栞だった。
高校の卒業式で最後に見た横顔が、八年分の時間を纏って、今ここに立っている。
栞は一瞬——本当に一瞬だけ、目を見開いた。唇が微かに動いて、何か言いかけた。でもその言葉は音にならないまま飲み込まれて、代わりに出てきたのはまったく別のものだった。
「靴、揃えてから上がって」
視線が僕の足元に落ちる。慌てて振り返ると、脱ぎ散らかしたスニーカーが三和土の端で横倒しになっていた。
懐かしさよりも先に、込み上げてきたのは羞恥だった。
スーツケース一つで、行き先もなく、朝の五時過ぎに転がり込んできた男。しかもよりによって、この姿を見られたのが——。
靴を揃え直す手が、わずかに震えた。
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栞は振り返りもせず、廊下の奥に消えていった。追いかけることも、声をかけることもできないまま、僕は揃えたばかりの靴の横に立ち尽くしていた。
八年間、一度も連絡を取らなかった。取れなかった、というのが正しいのかもしれない。高校最後の日、僕が何を言って、何を言わなかったか。それを思い出すと、指先が冷たくなる。
廊下の奥で、ドアが静かに閉まる音がした。
ポケットの中のトングに、もう一度指が触れる。行き場のない手が、行き場のない道具を握っている。
ここに住むことになるのだろうか。この家で、栞と同じ屋根の下で。
答えは出ないまま、四月の朝の光が玄関の三和土をゆっくりと照らしていた。