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つくりおきの距離

第3話 第3話

第3話

第3話

午後になって、ようやく二階から足音が聞こえてきた。

階段を降りてくる音は重たくて、一段ごとに家全体が軋む。僕がリビングのソファで所在なくスマートフォンをいじっていると、踊り場の手前で足音が止まった。

「……え、誰?」

寝起きの声だった。振り返ると、階段の途中に男が立っていた。ボサボサの茶髪に、しわくちゃのTシャツ。目が半分しか開いていない。

「あ、今日から——」

「ああ、新しい人か! 聞いてる聞いてる。健人の知り合いでしょ」

一気に目が覚めたらしく、残りの階段を二段飛ばしで降りてきた。裸足のまま、ぺたぺたとフローリングを歩いてくる。

「俺、陽太。フリーランスでデザインやってる。よろしくね」

差し出された手を握り返した。温かくて、少し湿っていた。寝汗だろう。

「湊です。よろしくお願いします」

「かたいかたい。ここタメ口がルールだから。ていうか栞ちゃんにはもう会った?」

「……朝、少しだけ」

「でしょ。あの子朝型だから。俺が起きる頃にはもう買い物行ってるんだよな」

陽太はキッチンに向かいながら喋り続けた。冷蔵庫を開けて、奥からペットボトルのコーラを取り出す。朝——もう昼だけれど——からコーラを飲む人間を久しぶりに見た。

「湊くんさ、仕事は?」

来た。朝の栞と同じ質問。でも栞のときと違って、陽太の声にはただの好奇心しかなかった。深い意味はない。だからこそ、軽く嘘をつくのは簡単だった。

「今ちょっと、探してるところで」

「あー、転職活動中か。このへん飲食のバイトいっぱいあるよ。駅前なんか常に人手不足だし」

飲食、という単語に肩が強張った。気づかれていないことを祈りながら、曖昧にうなずいた。

「まあ焦んなくていいよ。俺も去年フリーなりたての頃、三ヶ月くらい何もできなかったし」

陽太はそう言って笑った。人懐っこい笑い方だった。こういう人間がいると場の空気が柔らかくなる。レストランにもこのタイプのホールスタッフがいて、彼がいるだけで客席の雰囲気が変わった。

——レストランのことを考えるのは、やめよう。

「あ、そうだ。美月さんにも紹介しないと。今日夜勤明けだから、そろそろ帰ってくるはず」

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美月が帰ってきたのは、午後三時過ぎだった。

玄関の引き戸ががたんと開いて、「ただいまー、死ぬー」という声が家中に響いた。

リビングに現れた女性は、スクラブの上にカーディガンを羽織っていて、目の下に濃い隈があった。看護師だと一目で分かる出で立ちだった。

「お、新入り? 聞いてたよ。美月です。よろしくね」

栞の冷静さとも陽太の軽さとも違う、ストレートな明るさだった。疲れ切っているはずなのに、声に張りがある。

「湊です。よろしくお願いします」

「んー、湊くんね。ご飯食べた?」

「いえ、まだ」

「だよね。ここ昼ごはんって概念ないから。各自コンビニ」

美月はそう言いながら、スーパーの袋からコンビニ弁当を取り出した。幕の内弁当。それをそのまま電子レンジに入れて、陽太もどこからかカップ焼きそばを持ってきた。

共用キッチンを改めて見渡した。

ガスコンロは三口。一口は五徳の上に油汚れが固まっていて、もう長いこと使われていないのが分かる。シンクにはマグカップが二つと小皿が一枚、水に浸けっぱなしで放置されている。調味料ラックには塩と胡椒だけがあって、醤油は空のボトルが立っている。

料理をする家のキッチンではなかった。

「あ、キッチンね。一応共用だけど、誰も使ってないよ」

僕の視線に気づいた陽太が言った。

「栞ちゃんがたまにお茶沸かすくらい。自炊するって言って入ってきた人もいたけど、結局みんなコンビニになる。忙しいしね」

美月がレンジから弁当を出しながら、蓋を開けた。ぶわっと甘い蒸気が広がる。醤油とみりんの、工場で調合された均一な匂い。それが食卓——正確にはリビングのローテーブル——に広がった。

陽太はカップ焼きそばの湯切りをしながら「美月さんいっつも幕の内だよね」と笑い、美月は「バランスいいでしょ。これで五品目」と返す。

栞はいつの間にかリビングの端に座っていた。買い物から戻っていたらしい。手にはおにぎり一つ。コンビニの包装フィルムを几帳面に剥がしている。

四人がローテーブルを囲んだ形になった。けれど食卓という感じではなかった。たまたま同じ場所で、同じ時間に、それぞれの食事を済ませているだけ。会話は弾んでいたけれど、それは陽太と美月の掛け合いが自然に空間を埋めているだけで、食事そのものを共有している感覚はなかった。

美月がプラスチックの箸で煮物を突きながら、「あー、ちゃんとしたもの食べたい」と呟いた。

その言葉が、妙に刺さった。

ちゃんとしたもの。温かい出汁の匂い。切りたての野菜の断面。フライパンの上で油が弾ける音。そういうものが、このキッチンにはない。あるのは電子レンジの回転音と、コンビニ弁当の薄いプラスチック蓋が立てる、ぺこん、という頼りない音だけだった。

手が動きかけた。口を開きかけた。「俺が何か作ろうか」と。

——言わなかった。

料理人だと知られたくなかった。正確に言えば、料理人だったと知られたくなかった。過去形で語る自分の肩書きが、ここでどんな顔をされるか想像するだけで息苦しかった。同情も、期待も、今の僕には重すぎる。

コンビニで買ってきたサンドイッチを開けた。卵とハムの、どこで食べても同じ味のサンドイッチ。それを黙って口に運んだ。

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夕方になって、陽太と美月はそれぞれの部屋に引き上げていった。陽太はデザインの締め切りがあるらしく、美月は仮眠を取ると言っていた。

リビングに残ったのは僕と栞だった。

栞はソファの端で文庫本を読んでいた。タイトルは見えない。ページをめくる指先だけが、一定のリズムで動いている。

僕はスマートフォンを操作するふりをしながら、キッチンを見ていた。

あのコンロを磨いたら、まだ使えるだろうか。五徳の油汚れは重曹で落ちる。シンクの水垢も、クエン酸があれば。排水口のぬめりは——いや、考えるな。ここは僕の城じゃない。

「見てるね」

栞の声で、視線を引き戻された。文庫本から目を上げずに、栞は言った。

「さっきから、ずっとキッチン」

心臓が跳ねた。見られていた。

「……別に。汚れてるなと思っただけ」

「掃除なら好きにしていいよ。誰も怒らない」

栞はそう言って、ページをめくった。それだけだった。僕が何を見ていたか、なぜキッチンばかり気にするのか。追及はしなかった。

朝もそうだった。「今、何してるの」と聞いて、僕が「何もしてない」と答えたら、それ以上踏み込まなかった。

知っているのだろうか。僕が料理人だったことを。健人が何か伝えているのかもしれない。あるいは、高校時代のことを覚えていれば、見当はつくはずだ。

それとも、本当に興味がないのか。

栞の横顔を、ちらりと見た。文庫本に落とされた目は静かで、何も読み取れなかった。八年前もそうだった。栞の考えていることは、いつも分からなかった。分からないから、あの日——。

「お風呂、先に入っていいよ」

栞が文庫本を閉じて立ち上がった。しおりを挟む動作が丁寧で、本の角を指先でなぞるようにしてから、カウンターの上に置いた。

「タオルは洗面台の下。新しいの入ってるから」

「……ありがとう」

栞はうなずいて、階段を上がっていった。足音は軽くて、二段目は軋まなかった。体重のかけ方を知っているのだろう。この家に、僕よりずっと長く住んでいる人の足音だった。

一人になったリビングで、キッチンをもう一度見た。

使われていないコンロ。空の醤油ボトル。シンクに浸けっぱなしのマグカップ。

このキッチンに立つ理由は、今の僕にはない。料理人を辞めた——辞めさせられた人間が、他人のために包丁を握る資格があるとは思えなかった。

ポケットの中のトングに指が触れた。まだ持ち歩いている。捨てればいいのに、手放せない。

風呂に向かおうと立ち上がったとき、ローテーブルの上に目が留まった。栞のおにぎりの包装フィルム。きれいに折り畳まれて、ゴミ箱のすぐ隣に置いてある。ゴミ箱に入れるのではなく、隣に。分別を気にしているのだろう。プラと紙を分けるための、小さな配慮。

靴の揃え方。多肉植物の間隔。付箋の筆跡。フィルムの畳み方。

栞の輪郭が、断片的に浮かび上がっていく。八年ぶりに見る栞の姿は、会話ではなく、こうした細部の中にあった。

風呂場に向かいながら、明日も同じコンビニに行くのだろうと思った。同じ棚から同じサンドイッチを取って、同じテーブルで食べる。それがこの家の日常で、僕はそこに加わっただけだ。

——でも、と。

立ち止まった。

あのコンロの火が灯る匂いを、指先がまだ覚えていた。

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