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識り、写し、超える者

第2話 第2話

第2話

第2話

霧は朝のうちに退かなかった。

ライが納屋の戸を全開に押し開けたとき、東の街道はまだ白い綿のような気層に沈んでいた。鈴の束ねの音は遠ざかったわけではなく、町の南の広場の方へ、少しずつ場所を変えていった。馬車の輪が石畳の上で、低く固い音を立てる。蹄鉄の音と、繋がれた山羊の鳴き声と、男たちの低い掛け声が、霧の向こうに溶けて重なった。

ライは藁から起き上がり、肌に張りついた汗を麻の上着の裾でぬぐった。腿の痙攣は、夜のあいだに鈍い熱へと変わっていた。歩くたび、腿の奥で何かがぴくぴくと震える。それでも、足は南の広場の方へ向いていた。折れ刃は油布に包み直し、寝藁の下に押し戻した。今は、まだ握って出ていく刻ではない。

広場では、商隊の連中が水場の周りに集まり、馬の脚を洗っていた。馬車は四台。荷台には麻布をかけ、その上をさらに獣皮で覆い、縄で十文字に絞り上げてある。縄目から、わずかに鉛色の包みが覗いていた。塩の塊だ、とライは見当をつけた。東の砦で、塩は銀と等価で取り引きされると、酒場の客が話していた。霧の粒が、ライの睫毛と、短く刈った前髪の先に止まり、瞬きごとに細かく散る。

水場の縁に立っているのが、昨夜目が合った——あの背の高い少年剣士だった。 近くで見ると、肩は思ったより華奢で、腰のあたりに革の帯を二重に巻いていた。亜麻色の髪を後ろで一本に束ねており、束の先が、馬の汗ばんだ首筋にかかるたびに払いのけている。腰に下げた剣の柄頭には、見たことのない刻印——三本の波と、その下に小さな星——が打ち込んであった。 少年は、ライの方を見なかった。けれど、彼が広場の端に立ったその瞬間、馬を撫でる手が、ほんのわずかに止まった。

「お前、昨日の納屋の小僧だな」

ライの斜め後ろから、低い声がした。振り向くと、毛皮の襟巻を首に巻いた肥った男が立っている。顎髭が霧の粒で湿り、銀色に光っていた。商隊長らしい。襟巻の下に、銅と銀の鎖の混じった首飾りが覗いている。 ライは無言で頭を下げた。

「目が合ったかと思えば、すぐ消えた。鼠みたいな子だ」

商隊長は鼻で笑い、ライの肩を太い指で一度つついた。指の先には硬い胼胝があり、つつかれた肩が一瞬しびれる。 「セルカ、こっちの坊主が、物欲しげに見ているぞ」

水場の縁の少年——セルカ、と呼ばれた——は、馬の蹄を確かめていた手を止めて、ようやくライを見た。 頬の骨が高く、顎が細く尖っている。どちらかといえば少女の顔だった。それでも目つきだけは、年経た剣士のように、何もかも見透かす種類の落ち着きを湛えている。

「弟子なんぞ取らない、隊長」

セルカの声は、思っていたよりも低い。けれど、その底のところには、まだ硬さの抜けきらない若い金属の響きがあった。 セルカは三歩近づくと、ライの右の掌を見た。豆と血と、つぶれた皮の段が、節ごとに浮いている。彼女はわずかに眉根を寄せた。

「斧を振っているな」

「……時々」

「剣も、振っている」

ライは黙った。藁の下の折れ刃のことを、見透かされた気がした。 セルカは何も言わず、ライの掌を裏返し、爪の根の傷をさっと検めると、それで満足したように手を放した。指先の温度が、霧の冷えとは違う、少しだけ熱を持っていた。

「皿洗い坊主」と、商隊長が割って入った。「迷いの森の手前の村まで、三日だ。雑用がもう一人足りねえ。塩袋を担ぐくらいは出来そうな腕だな」

ライの喉が、ひとりでに小さく鳴った。即座に「行きます」と言いそうになり、唇を噛む。ベルナの顔が浮かんだ。 彼は商隊長に深く頭を下げ、「女将に、聞きにいきます」とだけ答えた。

酒場の厨房に戻ると、ベルナは竈の灰を掻き出していた。 ライが入り口に立ったきり動かないのを見て、彼女は灰掻きの棒を一度、竈の縁に打ちつけ、灰の粉を払い落とした。

「言ってみな」

ライは喉の奥が詰まった。 「商隊が、雑用を……三日だけ、迷いの森の手前の村まで」

ベルナは竈の前に膝をついたまま、こちらを振り向きもせず、棒の先で灰の山を整えた。山が崩れ、また整えられ、また崩れていく。指の節がやや白くなっていた。

「あの隊長は、ヘイドのところの古い顔だ。荷は問題ない。塩と、布と、矢羽根の束だろう」

「……はい」

「セルカという小僧は、十六か十七だが、剣の腕だけは町の見習い十人を束にしても勝てない。あれと一緒なら、三日は守られる」

「……はい」

「だが、迷いの森の手前は、最近よくない」

ベルナはようやく振り向いた。竈の煤が、彼女の頬骨に薄く一筋ついている。ライにはその煤を、自分の銅貨の欠けと同じかたちに見る癖があった。

「お前は、行きたいのかい」

ライは、頷いた。一度では足りない気がして、もう一度頷いた。 ベルナは灰掻きの棒の先で、ライの胸の真ん中を、こつ、と軽く突いた。痛くはなかった。けれど、肋骨の奥のもっと深いところに、その棒の先が届いた気がした。

「強くなる、というのは、外へ出ることだ。中で皿を磨いていても、磨かれるのは皿だけだ」

ベルナは立ち上がり、戸棚の奥から、革袋に入った塩を一つかみ取り出した。 「これは隊長に渡せ。あいつが冬越しに借りたまま、忘れたふりをしている塩だ。返済の名目で、お前の同行を受けさせろ」

その夜、ライはベルナの息子が遺した革表紙の本を、藁の下からもう一度取り出した。 表紙は手垢で黒ずみ、背の革が一部、ぱさぱさと粉になりかけている。挿絵の頁を、剣士の構え、弓兵の足の置き方、傷の縛り方——彼が読めないままにした文字の隙間を、指でなぞった。

戸が細く開いて、ベルナが入ってきた。 膝下まである、深い灰色の毛織の外套を抱えていた。

「これは、息子のだ」

差し出された外套は、思ったよりも重い。袖口の縫い目に、何度も繕った跡がある。獣脂の匂いと、古い煙草の匂いと、それに混じって、雨に長く晒された樹皮のような匂いがした。

「小さく仕立て直してある。お前の背丈に、ちょうどだ」

ライは外套を抱きしめた。胸の前で、外套の重みは藁の温さよりも、ずっと外の世界の温さに近かった。 息子は、ライが酒場に拾われる前に、東の街道のどこかで死んだ。それ以上のことを、ベルナは一度も話したことがない。

「一度しか言わないよ」

ベルナはランタンの炎を細く絞った。皺の谷の部分にだけ、影が深く落ちる。

「帰ってきてもいい。帰ってこなくてもいい。だが、帰ってこないと決めたなら、ちゃんと、決めてから決めな」

ライは、外套の襟に顔を半分埋めて、頷いた。 ベルナはそれ以上は何も言わずに、納屋を出ていった。

夜が深まる。 ライは折れ刃を油布から取り出し、外套の内側に縫いつけられた革の鞘——息子のものだったのか——にそっと差し込んだ。半分以下の刃でも、鞘の奥でようやく、刃先が止まった。山羊が一度、長い鳴き声をあげた。東の山並みの方角から、夜風が霧の残りを払っていく音が、納屋の屋根板を細かく揺らした。

明け方、ライは祠の前に立っていた。 霧は昨日よりも薄く、白々とした朝の光が、東の山の縁に細く差し込みはじめている。鞍の革と縄の軋みが、広場の方から流れてきた。商隊の出立の支度は、もう終わりかけている。ベルナはついてこなかった。

ライは、外套の内ポケットから、欠けた銅貨を取り出した。 昨日、グレイヴに叩き落とされた、あの硬貨だ。半月形に欠けた縁が、朝の光の中で、わずかに鈍く光った。

掌に乗せて、低く息を吐く。それから、祠の鉢に向けて、まっすぐに投げた。

——硬く、乾いた音が鳴った。

銅貨は鉢の縁に当たり、跳ね返り、もう一度縁に当たって、ライの足元に落ちた。鉢の中には入らなかった。

ライは膝をついて、銅貨を拾い上げた。指先が冷えていた。 祠の三柱神は、今朝も振り向かない——というのが、これまでなら正しい解釈だった。 だが、跳ね返ったあの二度の音は、神々が振り向かなかったというより、何かが彼の銅貨を弾き返した、というふうにも聞こえた。 彼の知らない場所に、彼の銅貨を弾く何かが、いまこの朝、確かに在る。

ライは銅貨を、外套の内ポケットの一番奥に押し込んだ。広場の方で、低く長く、出立の鈴の束が鳴った。 彼は祠に背を向けて、霧の薄れた東の街道へ、最初の一歩を踏み出した。

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