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識り、写し、超える者

第1話 第1話

第1話

第1話

「だらしのない手だ。お前の銅貨は、いつも欠けているな」

冷えた銅の縁が、ライの掌に押し戻された。三柱神の祠の前、苔むした石段にはまだ昨夜の雨粒が残っている。ロウェンの朝は、馬糞の匂いと、湿った石の匂いを、同じだけ運んでくる町だ。霧は、東の山並みの裾から、舌のように街道を舐めて下りてきていた。

見習い冒険者のグレイヴが、自分の磨き上げた銀貨を指で弾いてみせた。ちん、と澄んだ音が祠の奥へ吸い込まれていく。グレイヴの後ろで、二人の年上が口の端を曲げて笑っていた。

「お前みたいな孤児が銅貨を投げても、神々は迷惑するだけさ。聞こえるか? ……ほら、こうだ」

グレイヴはライの手首を捻りあげ、握りしめていた銅貨を石畳に叩き落とした。欠けた半月形の縁が、わずかに歪んで石の隙間に転がる。ライは膝をついて拾った。土と馬糞の混じった指先を、上着の裾でぬぐう。 舌の奥に、鉄のような味が広がった。歯を食いしばりすぎたせいだ。 顔は、上げない。上げれば、もっと悪いことになる。

「ライ! いつまで祠で油を売ってるんだい!」

酒場の方から、女将ベルナの太い声が飛んできた。グレイヴは舌打ちし、ライの背中をひと突きしてから去っていく。三人の足音が遠ざかったあと、ライは欠けた銅貨をもう一度、祠の鉢に落とした。からん——縁にぶつかる、不器用な音だった。三柱神は、今日も振り向かない。

「皿を高く積みすぎて、また崩したね。お前はその積み方ひとつ覚えないんだから」

酒場〈三本足の馬〉の厨房は、湯気と獣脂の匂いに満ちていた。ベルナは短く刈った白い髪をぐしゃりと掻きながら、洗い場のライの背中を腿で軽く押した。十二歳のライは、この女将の腰までしか背丈が届かない。背伸びをして、油の浮いた湯に両腕を肘まで沈める。

熱い。だが、冷えきった指先の感覚を取り戻すには、これがいちばん手っ取り早かった。

「グレイヴたちに、また銅貨を取られたかい」

「……取られてはいません」

「言葉は丁寧でも、目は嘘をついているねえ」

ベルナはライの頭を一度乱暴に撫でて、酒樽の方へ戻っていった。彼女の足跡は、厨房の石床に小さな円い染みを残していく。ライはそれを目で追ってから、また皿の山に向き直った。 洗っても洗っても、皿は減らない。冒険者たちは飲み、食い、また飲む。エルディア大陸の縁にあるこの宿場町ロウェンは、東の街道に踏み出す者と、生きて戻ってくる者の、最後の食い場だった。戻ってくる者の方が、いつも少ない。

竈の上では、骨つき肉と豆の煮込みが、ことことと油の浮く音を立てていた。胡椒と月桂のにおいがライの鼻先をかすめ、腹の底がぐうと鳴る。彼は唇を噛んでそれを押し殺した。皿洗いの分け前は、客が残した端だけだ。指先の皮は湯にふやけて白く膨らみ、爪の根の傷に塩気がしみた。客の半分は東へ向かう冒険者で、もう半分は東から逃げ戻ってきた荷馬引きだった。前者は声が大きく、後者は声が低い。

奥の卓では、外套を泥で汚した男が低い声で語っている。迷いの森の入口で、また行商人の隊が一つ消えたのだという。男の連れは黙って葡萄酒を呷り、空の杯を乱暴に卓へ置いた。ライは皿の縁を擦りながら、その音を耳の奥にしまい込む。 杯が卓に当たる音は、銅貨が祠の底で鳴る音と、どこか似ている。重く、にぶく、跳ね返ってくる音だ。

午後、薪割りに回された。納屋の裏で楔と斧を握る。ライの体重では、斧は半ば自分が振り回される側になった。三度に一度、刃が斜めに滑って薪の脇に食い込み、跳ね返った柄が彼の脛を打つ。 痛い、と声に出さない癖は、もう身に染みついている。

楔の頭を叩くたび、湿った木の芯から白い樹液のような匂いが立ちのぼった。木屑が頬に張りつき、汗と混じってひりひりと痒い。納屋の屋根の向こう、東の山並みの稜線にだけ、まだ霧が居残っている。

斧をいったん置いて、ライは祠の方を見やった。雨上がりの陽が、祠の屋根の苔を金色に変えている。 出立する朝、冒険者の銅貨が立てる音は澄んでいるという。三柱神——剣のヴァロン、癒しのリィース、知のセウル。彼らは銅の音に耳を澄まし、欠けた縁の硬貨は弾き返すと、いにしえから伝えられてきた。 だからグレイヴの銀貨は、いつもまっすぐに祠の底へ落ちていく。 ライの銅貨は、いつも縁にぶつかって戻ってくる。

斧の柄を握り直すと、掌の豆がじくりと痛んだ。皮の下に、新しい血の溜まりができている。彼はそれを薪の表面に押しつけて、痛みごと木の繊維に擦り込んだ。

その夜、ライは納屋の隅で身を起こした。 寝藁の匂いが鼻を刺し、馬の寝息と、隣の柵で山羊が干し草を噛みしだく音が、低く重なって聞こえる。月は欠けはじめていたが、まだ屋根板の隙間から細い帯になって床に落ちてきていた。 ライは藁の下から、油を塗った布の包みを引き出した。結び目を解くと、刃渡り半分のところで折れた剣が現れる。柄の革は何度も巻き直し、自分の手のかたちに馴染ませてある。三月前、街道脇の溝で拾ったものだった。雨で半分埋もれていた刃を抜き出したとき、誰かの古い血が金気の匂いに変わって、彼の鼻に残った。捨てたのか、捨てさせられたのか——彼にはわからない。

折れ刃を月光の中に持ち上げる。

刃の欠けが、自分の銅貨の欠けと、同じかたちに見える夜があった。

ライは納屋の中央に立ち、まず一歩、踏み出した。素足の裏に、馬の踏み固めた土の感触。冷えていて、わずかに湿っている。 振り下ろす。 振り上げる。 半円を描いて受け流す——のつもりが、折れ刃の重心が思ったより先にあって、彼の肩が前に流れた。たたらを踏み、藁の山に肩から突っ込んで、口の中で藁の埃が砕ける。 くしゃみを噛み殺す。山羊が一度だけ、こちらを見た。

息が上がる。額の汗が顎をつたい、首筋に冷たく落ちる。

ベルナの息子が遺した革表紙の本——挿絵に描かれた剣士の構えを、ライは何百回も真似ていた。本に書かれた言葉の半分はまだ読めない。それでも、絵は飽きるほど見た。 膝を落とす。重心を腰に下ろす。脇を締める。 振る。振る。振る。

百を数えたところで、左の腿が痙攣した。 ライは藁の上に膝をつき、折れ刃を地面に立てて、その柄に額をつけた。

心臓が肋の内側を打っていた。汗が背筋を伝い、寝藁の埃と混じってじっとりと貼りつく。納屋の梁の暗がりから、蜘蛛の糸が一本、月の帯にゆれて見える。息を整えるたび、肺の底に冷たい夜気が降りてきて、痛みのある場所をひとつずつ数えていった——左の腿、右の肩、腹の脇腹、そして掌の豆。 胸の奥には、痛みとは違う熱のようなものが灯っている。それは怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ、まだ消されていない火だった。

「強くなりたい」

声は、納屋の梁に吸い込まれて消える。誰にも聞かせるつもりのない声だった。 強くなって、誰かを倒したいわけではなかった。グレイヴを石畳に叩きつけたいわけでもない——いや、少しはそうかもしれない。でも、それだけではなかった。 ただ、自分の銅貨を、まっすぐに祠の底まで落としたかった。 欠けていない硬貨を、自分の手で稼いで、自分の手で投げ入れたかった。 それが、彼に与えられた、たったひとつの物語の種火だった。

月が屋根板の隙間から逸れて、納屋の床に落ちていた光の帯が、ふっと途切れた。

明け方、町の南の街道の方から、鈴の音が聞こえてきた。 低く、束になった鈴の音。商隊のものだ。 ライは藁の上で目を開けた。眠っていなかった気もするし、眠っていたような気もする。 納屋の戸を細く開けると、霧の向こうに馬車の輪郭が並んで見えた。霧の粒が、戸の隙間から彼の睫毛に止まり、瞬きごとに細かく散った。馬の鼻息が白く立ちのぼり、荷を縛る縄の軋みと、鞍の革のきしむ音が、低く束になった鈴の音に重なっている。先頭の馬の脇に、外套を肩にひっかけた背の高い少年——いや、よく見れば、少女のようでもある——が、剣の柄に手をかけて立っている。 その視線が、ふいに、納屋の方へ滑ってきた。 ライと、目が合った気がした。 鈴の音が、今までとは違うかたちで、彼の耳の奥に残る。 高く澄んだ音ではない。けれど、ライの掌の中で銅貨が縁にぶつかったときの、あの不器用な響きとも違っていた。乾いていて、しかも遠い。それは、東の街道の向こうから、彼を呼びにきた音のように聞こえた。 折れ刃を握る指が、わずかに、内側へ巻いた。

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