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識り、写し、超える者

第3話 第3話

第3話

第3話

霧の名残は、東街道の三里目で完全に晴れた。

ライは、四台目の馬車の後ろを歩いていた。荷を縛る縄が車輪の軋みに合わせて細く鳴り、馬の尻尾が時折、彼の頬の高さまで揺れて来る。肩には、塩袋を半分の量だけ移し替えた麻袋を斜めに掛けていた。ベルナの息子の外套は、厚すぎるほど厚く、首筋に汗が溜まる。けれども脱げと言う者はおらず、脱ぐ気にもならなかった。

街道は、ロウェンを出てしばらくは平坦に伸び、やがて緩やかに登り始めた。両脇には、葉を半ば落とした楢の林と、苔むした花崗岩の岩盤が交互に続く。岩盤の表は、長い年月のあいだに風が削ぎ落とした筋目が走り、その溝の底に、まだ夜露が残って黒く光っていた。林の奥からは、見えない鳥が一定の間隔で短く鳴く。馬の蹄が砕いた小石が、車輪の隙間から後ろへ転がっていき、ライの靴の縁にぶつかって止まった。

「立ち止まるな。坂の途中で隊が伸びる」

先頭の方から、商隊長ヘイドの太い声が飛んできた。ライは慌てて足を進める。隊列の半ばで、セルカが馬を曳いていた。彼女は前を向いたまま、少しだけ歩を緩め、ライの肩のあたりに視線を落とした気配があった。けれど振り向きはしない。亜麻色の束ねが、馬の背の高さで、緩く揺れている。

二里目を過ぎたあたりで、ヘイドが馬を寄せてきた。彼の顎髭には、もう霧の粒は残っていない。代わりに、塩を扱う商人らしい白い筋が、髭の根に薄く張りついていた。

「坊主、肩は痛むか」

「……まだ、平気です」

「無理を言え。痛むと言わぬ雑用は、二日目に潰れる」

ヘイドはそう言って、ライの麻袋の重さを片手で量り、勝手に三摑みほど中身を抜き取って自分の鞍に移した。ライは礼を言いそびれ、結局、頷くだけにした。

昼を過ぎた頃、街道は一度、北へ大きく蛇行した。

右手には、なだらかに崩れた丘の斜面が広がっていた。古い地滑りの痕跡だ。十数年前の長雨の年に、丘の表土が一斉に崩れ、街道を半月ほど塞いだのだと、酒場で何度か聞いた話だ。そのとき押し出された花崗岩の破片が、いまも斜面の中ほどに、苔の毛布をかぶって埋もれていた。

「街道脇の苔は踏むな」隊列のうしろから、ヘイドが鞍を叩いて声をかけた。「下が空いている所がある。羊が落ちて、二度と上がってこんかった話を、俺は三つ知っている」

ライは頷いた。だが、街道を歩く間にも、彼の目は何度か斜面の方へ吸い寄せられた。苔は、湿っていて、深く、緑の濃淡が幾重にも重なっている。表面は陽を受けて柔らかな光沢を放ち、その奥に、岩の角がところどころ顔を覗かせていた。岩の角だけが、苔の毛布から、自分の意思で頭を出しているように見える瞬間がある。

事は、午後の早い刻に起きた。

隊列の真ん中の馬車から、結わえ付けてあった山羊の縄が解けた。一頭だけ連れてきていた、乳の出ない老山羊だった。隊の食料の備えに、迷いの森の手前の村で潰すつもりの一頭だ。山羊は驚いた様子もなく、ただ自由になった脚を確かめるように、街道の縁から一歩、二歩、苔の斜面の方へ踏み出した。

「ライ! 連れ戻せ!」

御者台のヘイドが叫んだ。ライは反射的に駆け出し、街道の縁から斜面に半身を入れた。山羊は、ライがすぐ追ってこられない距離までは賢く下りない種類の老獣で、四歩ほど下った所で止まり、首を傾げてこちらを見ている。ライは膝を曲げ、片足を斜面の苔の上に置いた。指先で苔の表面を撫でると、思っていたよりも厚く、ふかふかと弾力がある。下に岩の硬さが感じられる場所と、感じられない場所がある。

感じられない場所の方が、多い。

「待て」セルカの声が、街道の上から飛んできた。「斜面に深く入るな、その苔は——」

その先は、聞こえなかった。

ライが体重を、二歩目の苔に乗せた瞬間、足の裏が、ふっと、軽くなった。苔が、布のように、めくれた。めくれた苔の下には、何もなかった。

落下は、思ったよりも、長くなかった。

短い時間のあいだに、ライの背中は何度か、湿った石の角にぶつかった。最初の角は左の肩甲骨を打ち、二つめは腰の真上を打ち、三つめは——もうどこを打ったか、わからなかった。視界が黒い水になり、その水のなかで、自分の悲鳴のような息と、頭上から差し込む細い光の帯が、別々の速さで遠ざかっていった。

止まったとき、ライの頬は、冷たい石の表面に押しつけられていた。口の中に、土と、苔の青臭い味があった。歯と歯の間で、小さな砂が音を立てて砕けた。痛みは、まだ、来ていなかった。痛みより先に、自分の心臓の音が、頭蓋の内側で響いた。

「ライ! ライ!」

頭上、遠いところで、セルカの声がする。土と苔の崩れる音が、断続的にライの上に降ってきた。けれど、その声は、まるで井戸の底に向けて呼ばれているように、層の厚い水の中を泳いで届く。ライは、首だけを動かして、頭上を見上げた。

斜面の崩れた穴は、すでに、ライが落ちた瞬間よりも、ずっと小さかった。落下とともに、穴の縁の苔と土が、塊で滑り落ちて、入口の半分を塞いでいた。光は、まだ、細い帯になって差し込んでいる。けれども、その帯の幅は、ライの掌の幅より、もう、わずかに狭かった。

「動くな、いま下りていく——」セルカの声。

「だめだ、上から下りればもっと崩れる!」これはヘイド。

声と声がぶつかり合い、土が、また少しだけ崩れた。ライの上に、湿った塊がぱらぱらと降ってきて、頬に貼りついた。ライは、これ以上落ちてくる土に頭を埋められないように、半身を起こした。腰の真横に、鈍い熱が走った。けれども、骨の折れる感触ではなかった。少なくとも、立てる側の腰だ。

立つ、と、彼は思った。 立てるかどうか、ではなく、立つ、と思った。

立ち上がると、頭が天井に触れる気配はなかった。ライは、自分が思っていたより広い場所に落ちたのだと知った。

頭上の細い光の帯から目を離して、足元の、斜面の延長にあたる方へ視線を落とす。光は、ほとんど届かない。けれど、目が暗さに馴染んでいくにつれて、地面と壁の境目が、輪郭になって浮かび上がってきた。床は、平らに整えられた石だった。壁は、苔と土に半ば覆われているけれど、その下で、明らかに人の手で組まれた花崗岩の積み方をしていた。ライの背丈の二倍ほどの高さの、ゆるく弧を描く天井——これは、自然の洞ではない。

階段の名残が、彼の右手の方向に続いていた。

苔むした石段は、最初の三段が崩れて石くずに変わり、その先で、ふいに本来の段差を取り戻して、奥の闇へ続いていた。段の表は、長い年月のあいだに踏まれ、磨かれた——とは言い難い。むしろ、誰にも踏まれず、ただ水と苔とに洗われて、角だけが鈍く丸まっていた。

ライは、外套の内側に手を入れた。鞘の中で、折れ刃の柄が、彼の指の温度を待っていたかのように、しっとりと馴染んだ。革の感触に、肩の震えが、わずかにだけ落ち着いた。

頭上で、また土の崩れる音がした。同時に、光の帯が、ふっと、もう一段だけ細くなった。セルカの声は、もう、遠い。土の層が、彼女の声を押し返している。彼女が叫んでいるのは、たぶん、「動くな」と「いま行く」の二つだ。けれど、上から下りるには、街道脇の崩れた表土をさらに崩すしかなく、それは、ライをこの穴の底に、土ごと埋めることでもあった。ヘイドの声は、もう、聞こえなかった。たぶん、迂回路を探しに、馬を走らせている。

ライは、奥の闇を見た。

奥で、何かが、脈打っていた。

最初は、目の錯覚だと思った。階段の先の闇に、青白い、ごくごく薄い光の点がある。それが、心臓の鼓動に似た、不規則な間隔で、ふくれ、しぼみ、ふくれ、しぼむ。彼自身の心臓の音と重ねて聞いてみると、二つは合っていない。光の脈は、彼の鼓動より、少しだけ、ゆっくりとしていた。

呼ばれている、とは、まだ思わなかった。けれど、見ろ、とは、思った。誰が「見ろ」と言っているのかは、わからない。彼自身か、あるいは、もっと遠い、いにしえの誰かか。

ライは、折れ刃を鞘から半分ほど抜いた。半分以下の刃の、欠けた切先が、青白い光を遠くから受けて、わずかに、にぶく光を返す。

腰の鈍痛は、まだ、ある。腿の痙攣の余熱も、まだ、ある。掌の豆は、落下のときにいくつか潰れて、外套の袖口の内側で、温い血が、じわりと染みた。

それでも、足は、動いた。

最初の一歩は、ためらいよりも、好奇に近かった。二歩目は、ためらいだった。三歩目で、彼は、頭上の光の帯を、もう振り返らなかった。振り返って戻れる距離はもう、彼の中にはなかった。階段の苔が、彼の踵の下で、湿った布のような音を立てて潰れた。

歩くにつれ、青白い脈は、近づき、わずかに大きくなった。

光は、奥の壁ではなく、奥の壁のさらに向こう——もう一つの間の中央から、こちらへ漏れ出ているのだ、とライは見当をつけた。光の脈に合わせて、彼の左の指先が、なぜか、温度を上げていく。最初は、革鞘の温もりかと思った。けれど、外套の袖口を捲ると、左の前腕に、見たことのない、淡い熱の筋が、皮膚の下を走っているのが、わかった。

熱は、痛みではない。痛みではないが、彼の体の内側に、いま、彼の知らない誰かの指が触れているような感触だった。

階段の最後の段に、彼は足をかけた。右手は、折れ刃の柄に。左手は、無意識に、熱を持ちはじめた前腕を握っていた。青白い光の脈が、もう一度、ふくれた。

そのとき初めて、ライは、その光が、自分の名を知っているのではないか、と思った。

奥の間から、何かが、低く、長く、息を吐いた。

それは、風の音ではなかった。

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