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観測者カイル、追放後に世界最高峰の観察スキルに覚醒する

第2話 第2話

第2話

第2話

扉を閉めたアランは、後ろ手に閂を下ろした。木と木が噛み合う音が、藁の屑を一粒だけ床に落とした。部屋の中は獣脂蝋燭の匂いと、麦酒が染み込んだ床板の酸味が混じっていた。窓硝子の継ぎ目から細い隙間風が入り、卓の上の蝋燭の炎を一瞬だけ斜めに傾け、壁の影を不規則に撫でた。

カイルは藁布団の上に立ったままだった。手帳は懐の内側、心臓の真上にある。革鎧の襟は整えたばかりだ。襟の留め金が肌に冷たい。整えた、というより、整えていないと崩れてしまう何かを、辛うじて押さえているだけだった。指先の感覚は、いつもより鈍い。

「単刀直入に言う」

アランは部屋の中央で立ち止まった。葡萄酒の染みが革帯の縁に滲んでいる。視線は据わっていた。準備してきた声だ。喉のどこかで一度引っ掛かり、それを押し出すように吐き出した声だった。

「明日の深層、お前は来るな」

カイルの肩は動かなかった。窓の隙間から雪の匂いが入ってくる。乾いた針葉樹と、鉄の混じった冷たい匂い。

「外す、ということか」

「外すんじゃねえ。抜けてもらう。今夜限りで、銀狼の牙から正式に解雇だ」

アランは腕を組み、それから組み直した。腕の筋は緊張している。準備してきた言葉でも、口にする側の体は嘘がつけない。組み直す動作の三秒の間に、視線は天井の梁の節を一度だけ通り過ぎた。

「お前のあれ——罠だ、振動だ、ぶつぶつ呟くやつ。あれが士気を下げる。誰も信じてねえし、誰も聞きたくねえ。ゾラが言ってた。横でつぶやかれると、刃が鈍るってよ」

「ゾラが」

「ゾラだけじゃねえ。リィナもだ。庇ってきたが、もう限界だってよ」

リィナの名が出た瞬間、アランの視線は半拍だけ早く床に落ちた。半年前まで同じ卓で粥を啜っていた女の名を、自分の台詞の中に押し込んだ。それが目線に出た。押し込めたつもりの名前が、目尻の方から零れたのだ。

カイルは答えなかった。手帳の角が、肋骨の間に当たっている。半年分の罠の見取り図、半年分の打ち損じの記録。それが今、自分の体を内側から刺していた。

「明日の現場は金貨五十、Aランク指定だ。Eランクが入る隙間はねえ。お前のためでもある」

「臆病が、士気を下げる」

カイルは復唱した。台詞そのものを、確認するように。声に怒りは乗せなかった。乗せられなかった、と言ったほうが正確だった。

「結論だ」

アランは扉の方を顎でしゃくった。廊下から、もう一組の足音が近づいていた。革靴と布靴。二人分。一人は身軽で、一人は気配を殺している。ゾラとリィナだ。

廊下からゾラが入ってきた。手には麻袋。首には鑑定札。後ろにリィナが続き、扉の前で止まった。視線は木の床の節目に落ちている。

「装備の整理に立ち会わせてもらうぜ」

ゾラは麻袋を床に置き、にやけた顔で部屋を見回した。袋の口から漂うのは、革油と古い汗、それと宿の地下室で吸い込んだ黴の匂いだった。

「ギルド支給品、全部返却だ。短剣——貸与品。革鎧——貸与品。火打石、水筒、毛布——全部、銀狼の牙の財産だ」

「火打石は、私物だ」

カイルは静かに言った。

「先月、街の鍛冶屋で銅貨四枚で買った。革紐は俺が結び直した」

「証文は?」

ゾラは鑑定札を弄びながら笑った。札が革紐の先で揺れ、蝋燭の光を一度だけ反射した。

「ねえだろ。だったら、貸与品に分類するぜ。それが鑑定士の仕事だ」

「鑑定士の仕事は、物の真贋を見ることだ」

カイルの返しは短かった。ゾラの笑いが一瞬だけ止まった。

「Eランクが、鑑定士に物言うのかよ」

「物言ってない。定義を確認しただけだ」

アランが割って入る。

「やめろ。火打石は持って行け。それでいい」

ゾラは鼻を鳴らし、麻袋に短剣の鞘と革鎧を放り込んだ。カイルは留め紐を一本ずつ解き、肩から外した。半年使った革は、肩甲骨の形に馴染んでいる。麻のシャツが汗で重い。革鎧が肩を離れた瞬間、外気が背中に直接当たった。半年の間に、背と革の間に挟まっていた体温の層が、麻袋の中へ落ちた。袋の口が閉じる音が、思っていたより乾いていた。

「路銀」

ゾラが手を差し出した。

カイルは懐から革袋を出した。今日の報酬の銀貨一枚と銅貨三枚。それから、先月の取り分から戻されるはずだった銀貨二枚分。

「先月の前借り分は、俺の取り分の戻しだ。リィナが覚えている」

リィナの肩が一度だけ揺れた。だが顔は上がらない。

「リィナ。火打石の革紐の補修代と、毒消し草。覚えてるはずだ」

返事はなかった。半年前まで同じ卓で粥を啜っていた女が、今、何も言わないことを選んだ。それが答えだった。リィナの指先が、上衣の裾を一度だけ握り、すぐに離れた。握る動きは記憶の側に、離す動きは現在の側にあった。指の関節が、白くなって、すぐに戻った。

「ほらな、誰も覚えてねえって」

ゾラは銀貨を全部摘み上げ、腰の財布に滑り込ませた。それから鑑定札を翳した。札の裏側に、赤い文字が浮かぶ。

「カイル・ヴァレンス。ランクE。スキル《直感》——下位観察系、戦闘補正値ゼロ。総合評価、戦力外」

ゾラは声を上げて笑った。

「直感だぜ、直感! 戦闘補正ゼロのカスだ。Eランク確定。これで除名処理は完了だな」

笑いが部屋に染み込んだ。アランは腕を組み、聞き流すふりで頷いた。

「上着は持って行っていい」

アランが言った。

「隣の宿場まで半日だ。歩けるだろ」

「上着一枚で、雪原をか」

「お前なら歩けるだろ。罠も振動も、得意なんだろ?」

ゾラがまた笑った。リィナは床から目を上げなかった。

階段を降りる足音は四人分だった。先頭がゾラ、次にカイル、その後ろにアラン、最後尾にリィナ。酒場の入口では女中が一人、欠伸をしながら床を拭いている。客はもう散っていた。

外気が頬に刺さった。雪は本格的に降り始めている。風は北東から。地面の積雪は指の腹一本分。カイルは反射的に風向きを読み、足元の凍り具合を測った。半年で染みついた癖だ。

「街道はあっちだ」

アランが顎で示した。北の門の方角。隣街までは徒歩で二日。途中の宿場まで半日。上着一枚と麻のシャツでは、二刻が限界だ。

「言っとくが」

アランは振り向かなかった。

「俺たちは恨んでねえ。お前は精一杯やった。ただ、深層には連れていけねえ。それだけだ」

「分かった」

カイルは短く答えた。

リィナが何か言いかけた。唇が一度動いた。だが声にはならなかった。半年前、同じ唇で「カイルさん、毒消し、ありがとう」と言った女と、同じ唇だった。

ゾラが最後に、鑑定札を翳して見せつけた。

「《直感》な。せいぜい、雪山で熊にでも当たらねえように——」

そこで、カイルの視界が、ほんの一瞬、ぶれた。

ゾラの首の鑑定札。札の表面、彫り込まれた認証印。その朱の入り方が、ギルド本部の規格と一画ずれている。第三画の払いの角度が、本物より浅い。書き換え痕ではない。札そのものが、複製だ。

カイルは表情を動かさなかった。瞼の裏で札の細部を写し取る。朱の濃度、木目の節、副署の位置。三点。記憶の中で固定する。

副署欄の右下、本物なら必ず入るはずの三日月形の刻印が、ない。あの刻印は鑑定士組合の上席だけが押せるもので、複製は技術的に難しい。札を作った者は、刻印の存在を知らなかったか、知っていて省略した。前者なら市井の偽造屋。後者なら——内部の人間だ。

ゾラの息が酒臭い。鼻先で笑った時、口の端が札の革紐に触れて、紐が一度だけ揺れた。揺れの戻り方が遅い。札の重心が、規格の樫材より軽い側にずれている。樺か、もっと軽い柳の混じりか。木材の比重まで頭の中で当てに行ってから、カイルは自分の冷静さに少しだけ驚いた。

一画、二画、三画。視線は動かさず、瞳孔の奥だけで線をなぞる。半年分、罠の見取り図に角度と長さを書き付けてきた手帳の癖が、こういう時だけは役に立つ。記憶は紙より速く、紙より正確に、札の表面を刻み込んだ。

「——熊に食われんなよ」

ゾラは笑い、踵を返した。アランも続いた。リィナは最後まで動かず、それから何も言わずに男たちの背を追った。

三つの背中が、酒場の灯りの中に消えた。

カイルは雪の中に一人立った。上着の襟を立てる。風が首筋に入ってきた。

街道の最初の曲がり角で、振り返った。

灰熊亭の煙突から、まだ細い煙が上がっている。階上の窓には灯りがひとつ。アランの部屋だ。明日の深層、金貨五十、Aランク指定。宮廷直轄の発注書。偽の鑑定札を首から下げた男が、その現場に入る。

──あの札では、深層の魔物の真ランクは読めない。

確信だけがあった。理屈は後から追ってくる。雪が眼前に舞い落ち、視界の遠近が崩れた。だが、それでも風向きと足跡の鮮度は、いつも以上に明瞭に見えた。雪粒の落下速度から風層の厚みを逆算する癖は、罠師として最初に身につけた感覚だった。ゾラに笑われた《直感》は、こういう時、寒さよりも先に動く。

カイルは襟を立て直し、北へ歩き始めた。

懐の手帳が、心臓の鼓動に合わせて、規則正しく揺れていた。

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