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観測者カイル、追放後に世界最高峰の観察スキルに覚醒する

第1話 第1話

第1話

第1話

廃坑の天井から落ちた花崗岩の塊が、ちょうど三歩前で粉塵を上げていた。直径三尺、重さ三百貫はある。あの一秒、踏み出していれば、剣士アランの兜は陥没していたはずだ。

カイル・ヴァレンスは膝を突き、崩落痕の縁に指を当てた。砂利の温度はまだ高い。落下から四半刻と経っていない。床石の継ぎ目に走る亀裂は北東から南西。荷重式の罠ではなく、振動連動式。前列の足音が三歩目で起動条件を満たす設計だった。

「カイル! 何やってる、置いていくぞ!」

通路の先からアランの声が跳ね返ってきた。カイルは指の砂を払って立ち上がる。

「いま行く」

短く返した。背後で松明の灯りが揺れる。ヒーラーのリィナが振り向いて、それから視線を逸らした。鑑定士のゾラは欠伸をしながら先を歩いている。誰もこの崩落痕を見ていない。見たとして、その意味を読まない。

──あの一手がなければ全員死んでいた。

カイルは口を結んだ。直感だけが告げてくる。三歩前で立ち止まれと言ったのは自分だ。「足元、振動連動だ」と進言したのも自分だ。アランは「気のせいだろ」と笑い、左へ二歩ずらして進んだ。結果として全員が生きている。

だが、誰も覚えていない。

通路の出口、外光が射した。雪の匂いが鼻先に届く。

「いやー、今日のリザード・ロードはきつかったな」

地上に出た瞬間、アランは大剣を肩に担ぎ直して笑った。鎖帷子の留め具が鳴る。「最後の一撃、俺の刃が首の第三頸椎に入った瞬間、奴の目から光が消えた。あれは効いたぜ」

「さすがアランさん」

「リーダーの剣筋は今日も冴えてました」

ゾラが揉み手で持ち上げ、リィナは小さく頷いた。カイルは最後尾で歩きながら、リザード・ロードの首は第三頸椎ではなく第二頸椎の隙間で断たれていたことを思い出していた。アランの剣はそこに入っていない。致命傷を与えたのは、自分が事前に放った小石——魔物の右目を一瞬潰した、あの一投だ。

しかし、口にする気はない。言ったところで「臆病者が後ろから何かしてた」程度に処理される。半年で学んだことだ。

雪が舞い始めていた。

辺境ギルド「銀狼の牙」が拠点とする酒場《灰熊亭》は、夕刻の鐘と同時に騒がしくなる。

「リザード・ロード、討ち取ったってよ!」

入口でアランが大声を上げた瞬間、客たちが歓声を返した。木のジョッキが叩きつけられ、樽の蓋が抜かれる。脂の焦げる匂いと安酒の発酵臭が、煙突の煤と混じって天井に滞留した。

「アランの旦那、また武勇伝かい」

「聞かせろよ、首はどう斬った」

「第三頸椎だ。骨ごといった」

カイルは奥のテーブルに座り、出された麦粥を黙って啜った。木匙が欠けている。粥の麦は煮溶けず、底に塩の塊が沈んでいる。リーダー陣の卓には焼き肉と葡萄酒が運ばれていく。視線を上げない。上げても見るものは決まっている。

「報酬の分配だ」

ギルドの会計係が革袋から銀貨を数えた。アランの前に金貨二枚、銀貨十二枚。リィナの前に銀貨八枚。ゾラの前に銀貨五枚。

そしてカイルの前に、銀貨一枚と銅貨三枚が滑ってくる。

「偵察役は今回、戦果ゼロだったからな」

会計係は申し訳なさそうに目を伏せた。アランがそれを横目で見て、肉の塊を口に運びながら言う。

「いいんだよ。こいつは罠の前で立ち止まるしか能がねえ。報酬出てるだけありがたく思え」

笑い声が広がった。隣卓の冒険者が「Eランクの観察スキルだろ?」と続け、別の卓の女が「臆病者は安全な後ろが好きなのよ」と笑う。

カイルは銀貨を握り、革袋に落とした。袋の中で硬貨が三度跳ねた。

「アランさん、明日の依頼書、もう確認してます?」

ゾラが酔いの回った顔で身を乗り出す。

「深層ダンジョン、第七階層だ。報酬は金貨五十、Aランク指定」

「いよいよっすね。俺の鑑定スキルが本領発揮ですわ」

ゾラが胸を反らした。鑑定札を首から提げている。先月加入したばかりの男で、Cランク鑑定士だと名乗っているが、カイルの目には札の文字に擦れた書き換え痕が見えていた。本来はDランクだ。だが指摘すれば「お前のEランクが何を言う」で終わる。

「カイルは留守番でいいんじゃないか?」

リィナが小声で言った。視線は卓の木目に落ちている。

「深層は危険だから。後衛は無理しなくていい」

優しく聞こえる響きだったが、カイルは知っている。半年前まで、リィナは自分と同じ卓に座っていた。同じ粥を啜り、同じ銀貨を分けあっていた。アランがリーダーになってから、彼女の椅子は移った。

「明日、行くよ」

カイルは粥を一口含んで答えた。

「俺がいないと、罠が読めない」

一瞬の沈黙。それから、アランが大笑いした。

「読めねえのはお前の空気だよ、カイル。罠の話はもう聞き飽きた」

ゾラが手を叩いて笑い、リィナは口の端を引いて笑顔を作った。

カイルは麦粥の塩の塊を、奥歯で噛み砕いた。

夜半、宿の屋根裏部屋。

カイルは藁布団の上に座り、革の手帳を膝に開いた。今日の遺跡の見取り図を炭で描き始める。入口から第一広間まで七十二歩、第一広間から第二通路まで右折して四十五歩、第二通路の床石の継ぎ目は十二枚目で振動式に切り替わる。

線を引きながら、指先がかすかに痛んだ。爪の間に砂が残っている。崩落痕の縁で触れた、あの花崗岩の砂だ。

──第三頸椎じゃない。

炭の先で見取り図のリザード・ロードの位置に印をつける。アランが入れたとされる致命傷の位置と、実際の死因の位置を別の符号で記す。記録は半年分溜まっていた。手帳は三冊目に入っている。

別に、誰かに見せるつもりはない。

カイルは自分にそう言い聞かせる。これは観察癖だ。子供の頃、父の鍛冶場で槌の打ち損じを数えていた頃から変わらない癖だ。父は「お前は人の失敗を数える子だ」と苦笑していた。

その父が三年前に流行病で死んでから、自分は誰の打ち損じも数えなくなるはずだった。だが冒険者になり、パーティに入り、誰も見ていない罠と誰も覚えていない貢献を、また数え続けている。

──俺の観察は、誰にも届かない。

諦念が肩から下りてくる。手帳を閉じようとした、その手が止まった。

直感が、また告げてくる。

──あの一手がなければ、お前たちは全員死んでいた。

声ではない。視覚でもない。ただ、確信だけがある。今日、自分が三歩前で止まらなければ、アランの兜は陥没し、後続のリィナは振動の二次衝撃で梁ごと潰され、ゾラは入口まで戻れずに窒息していた。順番まで見えている。何故見えるのかは分からない。

カイルは手帳を開き直し、新しい頁の最上段に一行だけ書いた。

『本日の生存者、四名。死亡可能性、四名』

炭の粉が指に付く。それを膝で拭った。窓の外、雪は止んでいた。星が一つだけ、軒先の隙間から覗いている。

階下から、酒場の喧騒がまだ漏れ聞こえる。アランの笑い声、ゾラの追従、女中の嬌声。明日の深層ダンジョン攻略の前夜祭は、まだ続くらしい。

ふと、机の隅に置かれた依頼書の写しが目に入った。深層ダンジョン第七階層、Aランク指定。報酬金貨五十。発注主は王都魔法庁。

カイルは依頼書を持ち上げ、灯りに透かした。紙の繊維の方向、印章の押し方、副署名の位置。

(……この発注、宮廷直轄だ)

ギルドの掲示板に出るような依頼ではない。誰かが裏で動かしている。アランは気付いていない。ゾラも気付かないだろう。リィナは——気付いても言わない。

カイルは依頼書を元の場所に戻した。

明日、何かが起こる。

階段を上ってくる足音がした。一人分。靴の踵の擦り方、革と石の摩擦音、歩幅の乱れの少なさから、アランだ。酔っているが体幹はまだ立っている。

扉の前で足音が止まった。一拍。それから、二拍。

「カイル、起きてるか」

返事をする前に、扉が開いた。アランは戸口に立ち、酒臭い息を漏らしている。だが、笑っていなかった。半年で見覚えた笑顔の崩し方ではない、これは別の表情だ。

「明日のことで、話がある」

低い声だった。

カイルは藁布団から立ち上がり、革鎧の襟を整えた。手帳の入った懐に、無意識に指先が触れる。

「聞こう」

アランの背後、廊下の窓の外で、雪がまた降り始めていた。

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