第3話
第3話
街道を北へ。雪はもう膝下に溜まり始めていた。
カイルは灰熊亭を出てから一刻歩いた。麻のシャツに上着一枚。革鎧は剥がされた。腰に下がるのは、革紐で巻いた火打石が一個と、空の革袋。短剣はゾラの麻袋の中だ。
風は北東から。雪粒の落下角度から逆算すれば風速は秒速三尺。気温は氷点下一度を切ったあたり。足跡は半刻で雪に埋もれる。先行者の跡はない。後続もない。
──二刻が限界だ。
頭の中で計算した。麻シャツ越しの体温は急速に逃げていく。背中の汗はすでに冷え、肩甲骨の間を伝って腰に染みている。汗が冷えた瞬間、体は震え始める。震えは熱を作る代わりに体力を削る。
街道の右側、雪に覆われた切り株が見えた。座れば楽になる。だが座れば立てない。これも罠だ。雪原の罠は床石ではなく、自分の体の中に仕掛けられている。
カイルは座らなかった。歩幅を半分に縮め、呼吸を腹式に切り替える。半年で覚えた、長距離斥候の呼吸法だった。アランは知らない。ゾラも知らない。
懐の手帳が、心拍に合わせて揺れている。半年分の見取り図、半年分の打ち損じ。それだけが、まだ自分の体温を保っていた。
──ゾラの札。
歩きながら、瞼の裏で札の細部が再生される。第三画の払いの角度が浅い。三日月形の刻印が、ない。木材の比重が、樫より軽い。一度、二度、三度。記憶を反芻する間、足は勝手に進んだ。それしかすることがなかった。
風がまた強くなった。
二刻は、もたなかった。
宿場を示す道標までは、あと半里残っているはずだった。雪はもう腿まで来ている。地形が緩く下りに変わり、風が斜面を駆け下りて正面から顔を殴ってきた。睫毛に氷の粒がつき、瞬きが重い。
足が止まった。意志ではない。腿の筋が、命令を受けてから動くまでに半拍の遅れを出すようになった。神経の伝達が凍り始めている。
膝に手をつき、息を整える。呼気が白く、目の前で散った。白の濃度が薄い。肺の温度がもう下がっている。
──まだだ。
頭の中だけで言った。だが、膝の感覚は、もうない。
懐の手帳に、無意識に指が触れた。革の表紙は冷たく、紙の束はまだ自分の体温を残していた。半年分の見取り図。アランの第三頸椎の嘘。リィナの毒消し草。ゾラの偽札。すべてが、ここで終わるのか。
視界の端で雪が動いた。風による吹雪の動きとは違う、低い、規則的な動きだった。足跡だ。新しくはない。半刻前のもの。獣ではない。蹄ではなく、肉球の沈み方。狼。それも、複数。
──霜狼か。
霜狼はAランク指定の魔物だ。深層ダンジョンの第七階層と同じランクの群れが、街道脇に潜んでいる。雪原に出る理由はひとつ、餌だ。
カイルは雪に手をついた。掌が熱を奪われていく。指の関節が、もう曲げ伸ばしの遅い。立ち上がれない。
倒れた。
頬が雪に触れた瞬間、痛覚と冷感がほぼ同時に来た。それから、奇妙な静けさが来た。寒さが消えた、ように感じた。実際は感覚神経が遮断されているだけだ。それが分かるのに、止められない。雪粒が頬の産毛を伝い、耳の穴に入り込んでくる。耳の奥で、自分の鼓動だけが、遠くから聞こえる太鼓のように、鈍く、間延びして響いていた。指先はもう感覚がなく、視界の周縁から黒い染みが広がりはじめている。トンネル視野。低体温症の典型的な徴候。半年前、隊長から座学で習った。座学で習った内容を、当事者として確認している自分に、半笑いが浮かんだ。表情筋まで凍っているのか、頬は動かなかった。
瞼が落ちる。
──父さん。
呼んだつもりは、なかった。三年前に流行病で死んだ父は、鍛冶場で槌の打ち損じを数える息子に「お前は人の失敗を数える子だ」と苦笑した。失敗を数える子は、自分の失敗をどう数えるのか。父は教えなかった。
意識が、薄い膜のように引き伸ばされて、それから──
裏返った。
視界の話だ。雪に伏した瞼の裏側で、世界が反転した。白と黒が入れ替わったのではない。情報の階層が、組み替わった。ある一瞬、頭蓋の内側で、何かが弾けるような、ごく小さな音がした。錠前が開く音にも似ていた。それから、皮膚という境界が消えた。外と内の区別が曖昧になり、自分が雪原の一部になった、というよりは、雪原のほうが自分の感覚器の延長になった、という方が近かった。
風向きが、見えた。
矢印のような可視情報ではない。もっと根源的な、空気の密度差そのものが、層を成して頭上を流れていく感覚だった。北東から南西へ、毎秒三尺、地表三尺の高さで気圧の谷が斜めに走っている。風層の厚みは七尺。風層の上にもう一層、東からの弱い風が乗っている。
足跡が、見えた。
自分の倒れた位置から五十歩先、雪に隠れた肉球の跡が、鮮度別に色を持って残っていた。半刻前の跡は薄く、四半刻前の跡は濃く、ほぼ同時刻の跡は、まだ温度を持っていた。霜狼六頭。隊形は楔形。先頭の一頭だけが他より大きい。雌のリーダーだ。
地中が、見えた。
雪の下、土の下、岩盤の更に下。魔脈と呼ばれる地脈の流れが、青と橙の二色で走っていた。土地の魔素濃度。北東に細い橙の脈。南西に太い青の脈。脈の交差点に古代遺跡の輪郭。倒れた自分の位置から、東に三里。
それから、自分自身の体が、見えた。
体温二十九度。指先の凍傷度合い、軽度二段階。心拍、毎分四十二。心拍が落ちすぎている。低体温症の第三段階に入りかけている。残り猶予、四半刻。
情報が、洪水のように流れ込んでくる。だが、混乱はしなかった。情報には階層があり、優先度があった。最優先は、自分の心拍。次に、霜狼の距離。次に、最寄りの暖。最後に、その他すべて。普段なら捌ききれないはずの量が、なぜか整然と並び、必要なものから順に手前に差し出されてくる。半年間、灰熊亭の隅で隊員の挙動を一つずつ書き留めてきた、あの単調な作業の延長線上に、今の景色があった。観察の対象が、外界全体に拡張された、それだけのことだ──と、頭のどこかが冷静に解説していた。
カイルは雪の中で、目を開けた。
開けた、という意識すらなく、瞼の筋肉が情報の指示通りに動いた。視界には吹雪が見える。だが視界の奥で、見えない情報が並列に走り続けている。
──Eランク《直感》、ではない。
そう理解するのに、二拍かかった。これは別物だ。下位観察系の上位、もしくは更にその上。スキル名すら、知らない。
知らないが、使える。
ふと、ゾラの鑑定札が脳裏を過った。あの偽札では、これは絶対に読めない。本物の鑑定士が組合の上席まで通せば、副署欄の三日月形の刻印付きでこのスキルを判定できたはずだ。だが、アランがゾラを採用した時点で、その経路は閉じていた。
──札の規格を知らない側が、俺を「Eランク」と書いた。
それだけのことだった。半年間、自分が居た場所の正体は、それだけのことだった。怒りも、皮肉も、湧かなかった。ただ事実が一枚、雪の上に置かれただけのように、カイルの内側はかえって静かになった。
カイルは雪に手をついた。指先の凍傷の進行度を、情報として読む。あと四半刻で第二段階に入る。立ち上がる手順を逆算する。腹式呼吸、五回。腿の筋肉に血を戻す動き、左から右へ三回。立膝、両手で雪を掴み、重心を腰の上に乗せる。
体が動いた。情報の指示通りに。
立ち上がった瞬間、世界の解像度が、もう一段、上がった。
風が止んだ。
正確には、止んでいない。風層がカイルを避けた。気圧の谷が彼の背後に回り、正面の視界が一拍だけ晴れた。晴れた視界の先、雪原の窪地に、六つの影があった。
霜狼。楔形の隊形のまま、こちらを認識した。先頭の雌が低く唸る。声は届かない距離だが、口の動きから音は分かる。襲撃の合図だ。
カイルは雪を踏んだ。足音は雪に吸い込まれる。だが彼の視界には、霜狼六頭の重心、呼吸の周期、筋肉の張力の偏りまでが、別々の色で表示されていた。
腰の革袋に、何もない。短剣はゾラの麻袋の中だった。
──だが、ある。
雪の下、五歩先の地面に、過去の旅人が落とした石矢じりの先端が一本、刺さっている。それが見えた。
カイルは雪を蹴り、それに向かって踏み出した。