第2話
第2話
森の土は夜露で重く湿っていて、スニーカーの底が一歩ごとに薄い泥を咥え込んでいく。踵の裏で枯れ枝が折れる音と、肺が酸素を引き込む音の間隔が、いつの間にかほぼ同じ拍子を刻み始めていた。
振り返ると、回廊の扉はもう木立の奥に沈んで見えない。石造りの尖塔の先端だけが、黒い稜線の向こう側で欠けた歯のように覗いている。香木の甘さはとっくに届かない。代わりに鼻の奥を刺すのは、湿った腐葉土と、苔と、夜行性の獣の糞がうっすら混じった匂いだ。生きているものの気配、と呼んで差し支えない。
「……走れる身体に、感謝しておくか」
息は整い始めている。足は、まだ止めたくない。
胸元のウィンドウは律儀に居座り続けていて、視界の右下に薄い光の枠を張ったままだ。数秒おきに、短い行が下から足されていく。
【神域解析】:追跡者、距離四百二十メートル。六名のうち四名は健脚、二名は遅れ気味。
四百二十。高校の校庭を対角に一本と、少しおまけ、というところだ。逃げ切れる距離ではない。俺は足を止めて、倒木の裏側に滑り込んだ。苔の濡れた感触が手のひらに貼り付いて、雑巾のような匂いが鼻先を掠めた。指先に触れた樹皮は、思っていたより冷たく、朽ちかけた繊維が爪の間にぼそりと食い込んだ。倒木の裏は風が凪いでいて、自分の心音だけが、妙にはっきりと耳の奥で鳴っている。背中に回した左手のひらに、蟻が一匹這い上がってきたのを、意識の端で感じた。払いのける余裕はない。この倒木はたぶん、倒れてからもう何年も経っていて、内側には湿った虫の巣が幾重にも折り重なっている――そういう、土に還る直前のものだけが持つ、甘ったるく饐えた匂いが、呼吸のたびに喉の奥へ入り込んでくる。
腿の内側が小刻みに痙攣した。走り始めてからの時間に比して、筋肉の方が文句を先に言っている。
「チートは、身体まではくれない、と」
据え置きの俺で、やれ、ということらしい。
倒木の幹に背を預けたまま、来た道の方向へ視線だけを投げる。月光が斑に落ちる林床の隙間で、臙脂色の布が一瞬ちらついた。兵士の一人だ。
視線を、その輪郭の中心に固定する。
ヴィン・ガレス/二十八歳/王都第三衛士隊/新人三等兵 右膝、雨天時疼痛(三年前、訓練事故) 家族:母一(卒中、半年前より寝たきり) 月給:銀貨六枚/母の薬代:銀貨四枚/残り、二枚 懸念:倉庫盗難事件の濡れ衣を被るか否か(本夜中に決断) 今夜の結末:異界人に気絶させられる見込み
二度目の流し込みは、前ほど派手には面食らわない。代わりに、別の違和感が腹の底にひっかかった。
「……明日の死因、じゃないな」
今夜の結末、異界人に気絶させられる。異界人、というのは、文脈上、俺のことだ。
ウィンドウは、俺が次にやる行動の結果を、先に未来として描いている。読んだ時点で、世界は俺のその後の挙動を織り込みに行く。
「道具として使え、ってことか」
口に出した自分の声は、思ったより落ち着いていた。怖さと計算が、腹の中で別の部屋に分かれて座っている感じがある。卒中の母親、月給の半分以上を食う薬代、残り銀貨二枚。昨日まで何の縁もなかった若者の生活設計が、俺の頭蓋の内側に、短い家計簿として残る。
表示は、ただの数値ではない。数値の手触りまで一緒に渡してくる。ヴィンの母の枕元にあるであろう薬包紙の皺、家計簿をつける指先の筆圧、給金を母の枕元に置く夜の足取り――俺が経験していないはずの手触りが、一行ごとに網膜の奥で薄く遅延再生される。湿った布団の匂いまで鼻腔を掠めた気がして、俺は反射的に息を止めた。他人の生活のにおいを、勝手に嗅いでしまった後ろめたさが、喉の奥でざらついた塊になる。薬包紙の四隅が指の脂で柔らかく折れている、その折り癖まで見える。銀貨を数えるときにヴィンが必ず三回、卓上に転がして音を確かめる癖、母親の枕元に置かれた欠けた湯呑み、そこに張った薄い膜――見なくていいはずのものが、見えすぎる。カーテンどころか、皮膚を剥いで内臓まで覗き込んでしまっている、という感触の方が正しいかもしれない。
奥歯を一度噛む。視線を外して、別のサーコートに固定し直した。
ドラン・ホフ/四十一歳/第三衛士隊兵長 腰椎、慢性痛(十年来) 弱点:右側頭部に古傷、強い衝撃で失神確率大 妻一、息子一(王都徒弟学校、学費滞納二月)
次の兵士。さらに次の兵士。視線を滑らせるごとに、相手の「中身」が剥がれていく。指先に薄い痺れが走り始めた。カーテンを一枚ずつ引き剥がしている、という感覚に近い。剥がし終わった向こう側は、たいてい、誰かの節約の跡か、隠したい借金か、誰かの熱だ。剥がすたびに、俺の側の皮膚が一枚ずつ薄くなっていく気もした。見てはいけないものを見ている、という感触だけが、まだかろうじて残っている。
ヴィン、ドラン、マルタ、カッソ、ベイル、カルス。
六名分の家計と古傷と、短い予告が、俺の視界の端に整列する。
「……そういう世界に来ちまった、か」
観察者が、相手を丸裸にする側に、呆気なく座り替わっている。その自覚は、ほんの少しだけ、胸を冷やした。
視線を逸らしたくて、俺は足元の石ころに目を落とした。
親指の先ほどの、なんということもない小石だ。青い月の光を鈍く受けて、表面に雲母に似た粒がちらついている。
視界の端で、ウィンドウが勝手に更新された。
【神域解析】:石英脈片/含有:銀微量、鉄酸化物、微量磁鉄鉱 採取源:北北東一・二キロ地点、地表下八メートルの旧坑道跡 備考:近隣に未発見の銀鉱脈あり(推定埋蔵量、銀換算で六百二十トン)
俺は、その石を拾い上げていた。
冷たい。掌に載せた重さは、外見通りの軽さだ。それなのに、読める情報量の方だけが、やたらと重い。指の股に、湿った砂粒がひとつ噛んで、それがやけに生々しい。爪の先でそっと表面を撫でると、雲母の粒が鈍く剥がれ、指先に星屑のような粉を残した。舐めたら鉄の味がしそうだ、と脈絡もなく思い、同時に、そんなことを考えている場合じゃない、ともう一人の自分が舌打ちした。
「……人だけじゃ、ないのか、これ」
石一つで、鉱脈の座標が出る。
頭の中で換算が一瞬走った。銀六百二十トン。この世界の貨幣価値はまだ知らない。が、たぶん辺境都市一つが丸ごと吹き飛ぶ規模の数字だ。それが、逃亡中の夜道に転がっている雑石一個から読めている。
冷や汗が、背骨に沿って一筋、落ちた。シャツの布が、その一点だけ急に冷たく貼りついた気がした。
これは、世界を書き換えられるスキルだ。
運営が管理し損ねている、という赤い脈動の意味が、ようやく肌で理解できた。俺の手の中にあるのは、武器でも呪いでもなく、単純に、情報だ。情報は、たぶん、この世界の通貨より重い。
「……冗談じゃ、ないな」
二度目の台詞になった。一度目は祭壇の上で、赤い文字を見下ろしたときだ。たった数分前なのに、もう遠い。
石を握り込んで、ゆっくり立ち上がる。掌に、角の冷たさが棘のように残った。倒木の向こう側、枯れ枝を踏む足音がすぐそこまで来ている。ヴィンの歩幅、とすでにウィンドウが教えてくれている。右膝の古傷、銀貨二枚、寝たきりの母親。
彼の「今夜、異界人に気絶させられる」という未来を、俺はすでに読んでしまった。
だとしたら、読んだ俺が、その未来を成立させなければ、筋が通らない。
観察者のままではいられない、と腹の底が先に決めたのは、たぶんもう少し早い時間だった。
「……悪いな、ヴィン」
兵士の名前を小さく呟いたのは、たぶん、観察席から降りる自分自身への、短い供養のつもりだった。舌の上に、鉄に似た苦みが薄く広がる。緊張が唾液の質を変える、というのは本当らしい。呼びかけてしまった以上、相手はもう「敵A」ではなくなっていた。母の薬包紙の皺を知っている男を、これから俺は、自分の手で地面に沈める。
石の角を、親指と人差し指で一度だけ確かめる。ドランの弱点は側頭部、ヴィンの弱点は右膝。だが今夜の林床は乾いていて、膝の疼痛は武器にならない。
ウィンドウが、律儀に補足を滑り込ませた。
【神域解析】:対象・ヴィン、後頸部神経叢に軽打で即時失神可。打撃角度、下方十二度。
角度まで出すのか。
「――至れり尽くせりだな、おい」
苦笑のつもりで吐いた息が、白く夜気に溶けて消えた。
倒木の陰から、ヴィンの後頸部までは三歩。
月光が彼のサーコートの肩口を薄く縁取って、鎖帷子の継ぎ目がほんの一瞬、きらりと光った。石を握り直すと、角の冷たさが掌の皮膚に食い込んで、その痛みだけが、俺をまだ観察者の側に留めている最後の錨だった。
錨を、外す。
息を一度深く吸って、止める。足の指が、湿った腐葉土を一度だけ噛んだ。肺の底で、止めた息がじわりと熱を持ち始める。心臓が、肋骨の内側を拳でノックするみたいに、規則正しく鳴っていた。
踏み出す。
二十一年分の「見ていた側」の重心が、文字通り前へ崩れていく。石の角が、下方十二度を探して、ゆっくり滑り出した。
視界の端で、【神域解析】の赤文字が、俺の動きに合わせて一度だけ強く脈を打つ。
――先に俺の未来まで読んでいるくせに、随分、愉しそうじゃないか、お前。
青い月は、まだ俺の肩の上に、静かに掛かったままだった。