第3話
第3話
息を止めた胸郭が、三歩分の距離を一気に縮める。足裏が腐葉土を噛む音は、自分の耳にだけ妙に大きく響いた。
ヴィンの背中越しに、鎖帷子の継ぎ目が月光を一筋通している。その下、サーコートの襟と髪の生え際の間に、後頸部神経叢、と【神域解析】が赤線で引いた一点がある。
下方十二度。
石の角を、その角度に合わせて振り下ろした。
手首の骨が衝撃を一度ぐしゃりと受け取り、肘、肩、背骨の順に揺れた。思っていたより、鈍い手応えだ。映画で見るような乾いた音はしない。湿った肉と、薄い骨と、皮下脂肪が同時に沈み込むような、くぐもった衝突音が一つ。
ヴィンの身体が、糸の切れた人形の順番で崩れた。膝、腰、肩、最後に首。倒れる前に俺は彼の脇の下へ両手を差し込み、サーコートの肩を掴んで受け止める。鎖帷子越しの体温が掌に伝わって、その生々しさに、喉の奥が一度詰まった。
「……悪い」
倒木の裏まで引きずる二歩の間、彼の頭は俺の胸にぽすんと預けられ、呼吸は規則正しく上下していた。生きている。月光が頬の汗に薄く一筋線を引き、口の端から寝息に似た音が漏れている。ウィンドウの末尾に、気絶、という短い単語と、復帰予測時刻が黙って追加される。
約四十二分。
段取りとしては、悪くない数字だ。心臓が、ようやく元の位置に戻ってきた気がする。
――やった、でも、やった。
腹の底に、熱いものと冷たいものが同時に居座っている。やれた、という低い達成感と、やってしまった、という薄い罪悪感が、同じ肋骨の内側で互いを押し合っていた。
地面に下ろしたヴィンの腰帯を、手早く探る。革の感触がねっとり湿っていて、指先に皮なめしの油が薄く付いた。短剣、水袋、折り畳まれた羊皮紙。革袋の口を開けると、銀貨二枚と銅貨が数枚、内側で鈍い音を立てた。
銀貨二枚、銅貨七枚
月給の、ほぼ残り全部だ。
「……薬代、ごめんな」
声に出してから、自分の口が勝手にその単語を選んだことに少しだけ驚いた。寝たきりの母親の枕元の、欠けた湯呑み、薄く張った膜――読んでしまった一行が、指先に重みを作っている。銀貨一枚を、そっと革袋に戻した。残り一枚と銅貨全部を懐に入れる。帳尻は、後でまとめて合わせる。
内ポケットに手紙が一通、触れた。紙の縁が汗でふやけている。差出人はたぶん母だろう、と【神域解析】が静かに注釈を足した。読まない。手紙だけは、そのまま革袋に戻す。
羊皮紙を開く。インクの匂いがまだ新しい。巡回経路図らしい。祭壇のある尖塔を中心に、放射状に伸びる小径、北東へ走る交易路。そして羊皮紙の端、赤い印と一緒に書かれた文字列。
辺境都市ルーメン(北東八キロ、人口約一万二千)
ウィンドウが地図の上を一度なぞり、細かな注釈を勝手に書き足していく。関門の配置、通行税銅貨三枚、夜間閉門時刻、抜け道の存在、盗賊の縄張り境界線。
「……至れり尽くせり、だな、本当に」
短剣を鞘ごと抜いて、シャツの裾の下に差し込む。金属の冷たさが、脇腹の皮膚を薄く噛んだ。ベルトがない時点で、すでに旅装としては落第点だ。
枯れ枝が、十メートル向こうで、軽く折れた。
身体が先に、倒木の影へ沈んだ。
【神域解析】:ドラン・ホフ、距離九・五メートル、抜剣済み 予測:二秒後、倒木を跨いで踏み込み、同時に左上段振り下ろし
秒数が、三から二へ音もなく落ちていく。
肩の関節が、自分の意思と別のタイミングで回り始めた。右足を後ろへ半歩、左の肩を一段沈める。ドランが倒木を跨いだ瞬間、彼の腰椎の古傷が踏み込みの衝撃で一瞬だけ体を泳がせた。ウィンドウが、その微かな失速を赤い矢印で描いてくれる。
剣筋は、俺の左耳から指三本ぶんの空間を掠めて、地面の苔に突き刺さった。鉄の刃が湿った土に食い込む、くぐもった音。ドランの全体重が、剣の柄を支点にして一瞬前のめりに傾いた。腰椎の古傷が、完璧な形で彼の体を泳がせている。ウィンドウの赤線と、目の前の現実が、少しのずれもなく重なった。
「――失礼」
ドランの側頭部、古傷の位置に、石の角を合わせる。右側頭、下方七度、反動を抑えて。
二度目の衝突音は、さっきより乾いていた。骨に近い場所を打った、という感触が、肘まで戻ってくる。ドランは剣の柄を握ったまま、膝からゆっくり地面に沈み、苔の上で止まった。
残り、四名。距離、まだ三百メートル。
ウィンドウは、その四人の位置を等高線付きの平面図で描いていた。マルタ、カッソ、ベイル、カルス。名前と家族構成と死因予測が、四色に色分けされて並んでいる。情報量で殴る、ということが、どれほど暴力的なのかを、俺はやっと肌で知り始めていた。知ってしまった以上、あとは使うだけだ。
石の角には、薄く血が滲んでいた。拭う布がないので、苔で擦った。緑の汁と赤の滲みが、石の白い表面の上で、気味の悪い混ざり方をする。
ドランの懐からも革袋が出てきた。兵長の給金は、ヴィンの五倍あった。
銀貨十枚、銅貨少々、銀の結婚指輪(内側刻印:マリカ、十八年)
指輪だけ、元の場所に戻した。別にヒーローのつもりはない。ただ、これを持ち歩く理由が、俺の側に一つもない。
革袋の紐を引き絞り、羊皮紙を胸に折り込む。立ち上がると、膝が軽く笑った。走り続けた脚に、気絶二つぶんの疲労が重なっている。
「……慣れないな、こういう仕事」
口に出したつもりが、半分、嘔気と一緒にせり上がってきた。奥歯の裏が酸っぱい。石の角は、もう掌の中で温もって、最初の冷たさを忘れている。人の後頸部と、人の側頭と、俺が立てた二つの音が、頭蓋の内側でまだ小さく反響していた。
吐かなかった。吐く時間が、惜しかった。
二十一年、誰も殴ったことのない右腕が、今夜だけで二人分の記憶を背負った。明日になれば三人分、一週間後には何人分か。慣れていくのか、慣れないのか、まだ答えは出ない。答えを急ぐ余裕も、今夜はない。
石を一度、林床の腐葉土に埋めた。掘り返す者が現れるかは分からない。ただ、今夜の証拠を、自分の掌から一度引き離したかった。両手を土に擦りつける。爪の間に、湿った黒が食い込む。水で落ちる種類の汚れと、そうでない種類の汚れの区別が、どこかから始まっているのだろうとは思う。
視線を、月の方向に向けた。青と白、二つ。白い方がわずかに傾いて、東の稜線に近づいている。夜明けまで、たぶん、あと三時間。
北東の木立の切れ目の奥、ごく薄い橙色の光が一点、瞬いた。街の灯、だろう。ルーメン、と地図の文字が、頭の中で音を伴って再生される。
羊皮紙を開き直し、ウィンドウの注釈を重ねて読む。
関門検査:身分証、または紹介状、または通行税銅貨三枚 注意:召喚直後の異界人、手配書回覧の可能性(早朝以降)
手配書。当然だ。俺は祭壇を飛び降りた時点で、あの国の「紛失物」扱いになっている。
「……夜明け前に、門を抜ける」
結論は短かった。銀貨十一枚と銅貨七枚、通行税にはお釣りが来る。身分証はない、紹介状もない。だったら税で押し通すか、関門の裏で抜け道を探すか。
ウィンドウが、黙って三番目の選択肢を滑り込ませた。
抜け道:西側下水路、朝の清掃門(五時開門)、衛兵の巡回に十五分間の空白あり
「……痒いところに手が届き過ぎだろ、お前」
半分は感心、半分は薄気味の悪さだ。俺の思考を先回りして、答えだけを並べてくる。このスキルの主語は、本当に俺か、それとも。
考えかけて、止めた。背後で、枯れ枝の音がまた一つ。残り四名の足音が、思ったより早い。
足を、北東へ向ける。
走り出した俺の肩甲骨の間で、短剣の柄頭が一定のリズムで背骨を叩いた。荷物が、重い。石ころ一つで身軽だった数十分前の自分が、もう懐かしい。
林床の傾斜が、ゆっくり下りに変わる。下りは膝に来るが、速度は出る。湿った葉の匂いに、微かに、煙の匂いが混じり始めた。人の生活の匂い、と呼んでいいやつだ。
胸のウィンドウが、控えめに一行、更新される。
【神域解析】:目標都市ルーメン、第三種特記事項あり ・封印された遺跡(南郊外、踏破記録なし、噂:呪われた剣士) ・銀髪ハーフエルフの登録冒険者、一名(余命:解析対象外)
最後の一行で、足の裏が、枯れ葉の上で一瞬滑りかけた。
解析対象外。
【???】ではなく、対象外。書式が違う。青い月の向こうの誰かが、俺に「見せない」と決めた項目が、また一つ増えている。
「……会ってみるか」
口の中で呟いた声は、もう震えていなかった。
北東の空の縁が、わずかに、白み始めている。
俺は、足を止めない。