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神域解析の観察者

第1話 第1話

第1話

第1話

鉄錆と甘い香木が混じった匂いを鼻が先に識別して、石畳の硬さを背中が遅れて認めた。「生きている」の順番がずいぶん奇妙な組み立て方になったな、と思う。

踏切の警報音の残響がまだ耳の奥で鳴っている。遮断機が下りきる前に見た白い閃光、直後の浮遊感、そこから――ここだ。ゆっくり身を起こすと、祭壇、という単語が頭のいちばん上に勝手に置かれた。実物を見るのは初めてだが、香木の煙が石の溝に沿って這っている様子は、そうとしか呼べない。煙は石の彫り溝の角でいったん止まり、すぐにまた次の溝へと滑り落ちていく。その不規則な這い方が、俺の呼吸とどこかで同期しているような、気味の悪い錯覚があった。

見上げた空に、月が二つ浮かんでいた。白い月と、その斜め上に一回り小さく青い月。どちらも借り物の光ではなく自ら発光している。見間違いの可能性を潰すために俺は二度瞬きした。月は二つのままだった。瞼の裏に残像が二つ並んで、白と青の輪郭がしばらく消えずに俺の網膜に貼り付いていた。

「……なるほど」

声が震えなかったのは、逆に現実味がなさすぎたせいだ。大学帰りの踏切事故。意識の途絶。そして見知らぬ空の色。順番に組み立てていくうちに、目の前の空気が勝手に光りはじめた。

半透明の板だった。ゲームのステータス画面と言えば小学生でも一発で通じる形状で、俺の胸元あたりに勝手に展開されていく。氏名欄、推定年齢、体力値。味気ない項目が上から並び、その下に、スキル欄。

そこだけが赤い。

 【神域解析(アカシック・リーダー)】  ※本スキルはシステム管理外です

文字が脈打つように明滅していた。エラー表示、と呼んで差し支えない書式だ。背筋に冷たいものが這い上がり、同時に、腹の底で逆向きの熱が一本立ち上がる。管理外、という三文字が妙に生々しかった。運営側が、このスキルを握り損なっている。つまりこれは。

「……これは、チート判定で間違いないな」

独り言が尾を引く前に、祭壇の外周で金属の擦れる音がした。

石の円柱、その影に兜の輪郭が動いた。一つ、二つ、数えて六人。全員が鎖帷子の上に臙脂色のサーコートを重ね、腰の長剣に手をかけている。眉間まで覆う面頬のせいで表情は読めない。

「『召喚の儀』の成功だ。異界の者が降りた」

先頭の男が低い声で言った。言葉は日本語ではない。喉の奥で鳴る子音と、舌先を弾くような短い母音。聞いたことのない音の並びだ。それなのに、意味だけが頭の中に直接置かれていく。親切な仕様じゃないか、と他人事のように思った。

「異界人は即時、王都へ移送。詠唱者の勅命である」

即時移送、という単語がやけに重く耳に残った。ステータス板の赤い文字を、俺はもう一度見下ろす。管理外の存在を、こいつらは「予想通りの召喚体」として扱っている。噛み合わせが、一箇所、ずれている。

試しに、最前列の男の兜の隙間に視線を固定した。

視界の上に新しい板が滑り込んだのは、その直後だ。

 カルス・ヴェラー/三十六歳/王都第三衛士隊伍長  呪符火傷痕(左脇腹、七年前、盗賊討伐にて)  家族:妻一、娘二(次女、先週より高熱)  懸念:賄賂の帳尻(七日以内に清算必須)  明日の死因:出血性ショック(左脇腹、三時前後)

読み取りではなかった。流し込まれた、と言う方が正しい。

見知らぬ男の人生が、呆気ないほど簡単に、文字列として俺の網膜の内側を埋めていく。指先が、勝手に一度だけ握り込まれた。他人事だったはずの帳尻、風邪を引いた娘、七年前の左脇腹の火傷――それが全部、俺が読んだせいでもう一度「存在したこと」になっている。重い。文字列のくせに、重い。一行ごとに、誰かの三十六年が俺の頭蓋の中で短い動画のように再生される錯覚があった。火傷の引き攣れた皮膚の感触、娘の額の熱、賄賂を渡した夜の自分の手の震え――俺が経験していないはずの感覚が、薄い膜越しに伝わってくる。

喉の奥で唾を飲む音が、やけに大きく頭蓋に反響した。知ってしまった事実は、もう知らなかったことには戻らない。明日の三時前後、この男は出血性ショックで死ぬ。何も言わなければ、おそらくその通りに時計は進む。口を開けば、俺が知っているという一点で、この男の残り時間の輪郭は書き換わる。どちらの選択も、もう中立ではいられない。観察席に座っていた二十一年分の習慣が、一瞬で立て付けを失ったのが、骨盤のあたりで分かった。見る、という動詞に重量が載っている。そのことに、指先より先に、奥歯が気づいて噛み合わせを変えた。

「……冗談じゃ、ないな」

二十一年間、観察者として生きてきた。大学の講義でも、サークルでも、バイトでも、俺はいつも一番後ろの席から人の顔を見ていた側だった。誰かを救ったことも、誰かに救われたこともない。手のひらの汗を誰かが拭いてくれた記憶もない。

それがいま、俺の目は、他人の明日の死因まで読む。

発見する側へ、反転している。

「動けるか、異界人」

カルスが一歩踏み出した。爪先が石の継ぎ目を捉えた瞬間、ステータス板の文末に新しい行が追加される。

 現在行動:鞘の留め金を外す/三秒以内に抜剣

カウントダウンの数字が『3』から『2』へ静かに落ちていった。

俺は祭壇の縁に指をかけて立ち上がる。冷えた石の角が指の腹に食い込んで、その痛みだけが妙にはっきりしていた。

「……逃げる」

口に出した瞬間、それが最善だと確定した。

カルスの剣が鞘から半分抜けたのと、俺が祭壇を飛び降りたのが、ほぼ同時だった。靴底が石畳を叩く。現代のスニーカーというのは、たぶん、異世界の兵士の鉄脛当てより軽い。膝のばねが一段深く沈んで、踵が跳ね返す反動を背骨が素直に受け取った。走るという動作が、こんなに軽い競技だったか、と遅れて思う。息を吸うたびに肺の容量が思い出され、心臓が後から追いついてくる。

「追え、殺すな、脚を狙え」

カルスの指示と同時に、左右の兵士が挟み込む動きに入った。そのはずだった。

視界の上、矢印に似た記号が二本、点滅しながら相手の進路を描いている。右の兵士は円柱の陰を抜けて回り込む。左の兵士は直進。五歩後に俺の背後へ弓兵が出てきて、十歩後に矢が射られる。

先読み、ではない。確定した未来が、先に文字で見えている。

「……ふざけろ」

笑っている自分に気づいたのは、腹筋が勝手に震えていたからだった。怖さと興奮の境目が曖昧になって、息を吸うたびに肋骨の奥が軋む。観察者だったはずの自分が、いま確かに「先回りする側」として呼吸を荒らげている。その自覚が、足の回転を一段速くした。

左右の動きを無視して、俺は祭壇の裏側に回り込む回廊を選ぶ。表示された矢印の示す通り、そこには兵士の巡回が一人もいない。石壁に指先をかけて体重を逃がしながら、奥の扉へ向かう。指先に触れた石は思っていたより冷たく、ざらついた苔のような感触が爪の先に残った。

「止まれ、異界人!」

背後で弓弦の擦れる音。振り向きはしない。ステータス板が勝手に矢の軌道を描いてくれている。三本、右肩を掠める角度、一本だけ左耳を狙う。

一歩だけ、左に踏み込んだ。

矢は石壁に弾ける音を四つ、ほぼ同時に立てた。耳元の空気が切れた音と、頬をかすめた風の温度が、遅れて届く。鉄鏃が石を削る甲高い音と、折れた矢羽根が回廊の床を滑っていく軽い音までが、別々のレイヤーで耳に積み重なった。

心臓がようやく正常な速度を思い出して、肋骨の内側を強めに叩き始めた。足は止めない。扉に手をかけて押し開けた先には、月光の落ちる回廊と、その先に森の輪郭が見える。湿った夜気が一気に鼻の奥に流れ込んで、香木の甘さを洗い流していった。

 【神域解析】:回廊先、森林帯。北三キロに街道。北東八キロに交易都市ルーメン。最短逃走経路を算出中……。

地図まで読めるのか、こいつは。

「……上等だ」

俺は扉を背中で閉める。金属の留め金が落ちる音が、石造りの回廊に小さく反響した。

息を整えながら、胸元に展開されたままのウィンドウをもう一度見下ろす。

【神域解析(アカシック・リーダー)】の赤い脈動は、最初の時よりもいくらか落ち着いて見えた。馴染み始めているのか、それとも、こいつが俺を測り終えたということか。

管理外、という三文字が妙に喉に引っかかる。スキルの外側に、このスキルを赤く光らせている誰かがいる。その誰かは、たぶん、俺を観察している。

視線の方向を、空にずらした。

青い月の縁に、ほんの一瞬だけ、瞬きのような揺らぎが走った気がした。

代わりに、ウィンドウの隅に新しい項目が一行、ごく短く追加される。

 【???:解析不能。上位権限が必要】

読めないページが、ある。

俺は息を吐いて、森の匂いのする方へ歩き出した。青い月はまだ、空に掛かったままだった。

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