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竜姫に守られた錬金術師のスローライフ

第2話 第2話

第2話

第2話

少女が立ち上がる気配には、音がなかった。  獣が身を起こすときの、湿った羽音のような静けさだけが、中庭の石畳を一撫でした。湊は、呼吸を忘れた。西日が少女の銀の髪をくぐり抜け、頬の鱗の一枚一枚を、微細な蜂蜜色の鏡として光らせている。小さな、ほんとうに小さな銀片なのに、湊の喉は、喉仏のあたりで渇いた音を立てた。  少女の背丈は、湊の肩のあたりまでしかない。痩せていた。裾の裂けた麻布の上衣と、膝下までの布の切れ端を巻きつけただけの、継ぎ接ぎの旅装束。素足は、石畳の冷たさを、もう何日も引き受けていたように、赤黒く色を沈ませている。その足の甲に、古い擦り傷が、薄く白く、線を残していた。  湊は、一歩、下がろうとした。  下がれなかった。  少女が、一歩、近づいてきたからだ。石畳の継ぎ目を、素足の裏が、ぴたりと吸うように踏む。風が、背後の塔の崩れ目から斜めに流れ込み、少女の銀の髪を、湊の側へ、静かに流した。 「……あなたは」  少女が、口を開いた。  鈴を転がすような、と形容される類の声ではなかった。もっと低く、落ち着いた、茶葉を湿らせた指先が紙を撫でるような声だった。疲れた体の奥から、一言ずつ、慎重に言葉を取り出している響き。 「人の匂いが、しない」  言われて、湊は自分の袖を、反射的に嗅いだ。徹夜明けのコピー用紙と、安い化繊スーツのにおい。それに、湿った落ち葉の粉。人の匂いがする、の反対側ではない、と思う。 「……人ですよ」  返事になっていないのは、湊にも分かった。少女は、琥珀色の瞳を、ほんの少しだけ細める。疑っているのとは違う。確かめている、というより、確かめてもなお、釈然としていない、という類の揺らぎだった。

「ここは、あなたの、ねぐらですか」  湊が、声を落として訊ねた。  少女は、首を横に振った。白銀の髪が、夕陽の粉を撒き散らすように揺れる。 「違う。寄った、だけ」 「寄った」 「歩いていて、疲れて。日が傾く前に、ここで休もうと」  少女の視線が、一度だけ、中庭の隅の崩れた石段に落ちた。そこに、旅用の麻袋が一つ、無造作に置かれている。口が開いたままで、中から、薪に使えそうな細枝と、乾いた黒パンの端切れの、欠けた角だけが覗いていた。湊の目が、黒パンの断面の、乾ききった気孔に、妙に長く吸い寄せられた。前世の最終出社日、会議室の机に置き去りにしたコンビニのサンドイッチの、あの、萎れたレタスの色を、ふいに思い出したからだ。 「――名を、訊いても」  湊の問いに、少女は一拍遅れて頷いた。自分が名乗るより、相手を確かめる方が先だ、という身構え方が、細い肩の位置に、まだ残っている。 「フィリア」 「フィリア、さん」 「……リアでいい」  それは、愛称としての省略というより、長い名乗りを、今ここで全部は明かせない、という種類の省略に聞こえた。湊は、半歩だけ、姿勢を正す。 「湊。高野、湊、と言います」 「ミナト」  少女の唇の上で、音が、妙に丁寧に転がされた。ナ、の発音に、ほんのわずか、舌を奥へ引くような癖がある。湊の耳は、それを、どこか懐かしい方言のように受け止めた。  ふう、と息をついて、湊は中庭の、欠けた水盤の縁に、ぎこちなく腰を下ろした。立って向かい合っていると、どうにも、新入社員の面接席を思い出す。座ってしまえば、背丈の差も、緊張の度合いも、ひとまず、帳尻が合う気がした。 「フィリアさんは、どこから、歩いて」 「北」 「北」 「山を、三つ越えた」  湊は、少女の素足の、擦り切れた皮膚を、もう一度見た。三つ、というその数詞が、嘘ではないことの証拠のような、薄赤い筋が、くるぶしの外側に幾本も走っている。それでも、言葉にも、眼差しにも、湊に同情を乞う響きは、まったくなかった。ただ、歩いた。ただ、着いた。そう事実だけが、置かれている。 「……俺も、ここに、辿り着いたばかりで」  湊が言いかけると、フィリアの瞳が、ふと、別の角度で湊を捉えた。  首筋から肩、袖口、膝、靴先。値踏みではなかった。怪我の有無を、順番に確かめている、医師のような視線の動き方だった。 「血の匂いは、ない」 「怪我はしていません」 「けれど」  フィリアの言葉が、そこで、一度切れた。次の一音を、喉の奥で、もう一度選び直した気配がある。 「……疲れている」  湊は、苦笑した。そう見えるのなら、仕方ない。仕方ない、で済ませていい話だとは、自分でも、心の隅で疑いはしているのだけれど。 「三年分、ですかね」  軽く言ったつもりが、自分の声の底が、思ったより低く沈んだ。少女の琥珀が、その低い音を、ひとつ残らず拾い上げたのが、分かった。

 フィリアは、湊の座る水盤の正面まで、ゆっくりと歩いてきた。  距離を、一歩だけ余して、止まる。剣の鞘を差してはいない。手も空いている。それなのに、彼女が立ち位置を決めた瞬間、中庭の空気の流れが、湊の背中側から、彼女の背中側へ、ひとつ、切り替わったのが、肌で分かった。まるで、見えない結界の内と外が、今、書き換えられたような。  湊の頬の横で、西日を受けた小さな鱗が、にわかに温度を持った気がした。 「ミナト」 「はい」 「私は、竜の血を引いている」  ずっと考えていた順番の、最後の一枚を、置きに来たような声だった。  湊は、すぐには返事ができなかった。少女の頬の鱗が、たった今、正体の札として、初めて意味を変えた。鱗。それが、装飾ではなく、血の証だと、当人の口から、渡された。前世で、学会発表の結論スライドを差し出されたときと、似た種類の緊張が、背筋を冷やす。 「……人の姿で、生きることを選んだ者が、私で」  フィリアの言葉は、丁寧だった。いくつもの前置きを飲み込んで、必要な一行だけを、相手の皿に載せるような、そういう丁寧さだった。 「けれど、血は、血として」  そこまで言って、彼女は、一度だけ、視線を落とした。自分の素足の、傷を、確認するように。それから、またまっすぐに、湊の目に戻る。 「あなたは、もう、誰にも、傷つけられない」  湊の耳の奥で、時計の長針が、こつり、と止まった音がした。  実際には、そんな音は、しない。  それでも、湊には、たしかに、止まった。  返答の言葉が、喉の、どの引き出しにも、入っていなかった。前世で受け取った上司の査定面談の台詞、取引先の締切通告、病院の待合室で呼ばれた自分の番号。そのどれとも、違う種類の声が、たった今、耳の底で、ぬるい温度の水のように、溜まり始めていた。 「……それは」  湊は、一度、掌で額を拭った。三年間、ずっと乾いていた皮膚が、今、薄く湿っている。 「俺が、あなたに、何かをしたわけでは、ないのでは」 「ない」 「ないのに」 「ない。ないから、決めるのは、私」  フィリアは、そう言いながら、湊の隣、水盤の縁の、もう一つの欠けた角へ、静かに腰を下ろした。座ると、彼女の頭は、湊の肩より、指一本分ほど、下に並ぶ。並んで座ると、小柄な少女の輪郭は、なお、頼りない。それでも、湊の背後の、塔の影と夕陽の境目が、確かに、彼女の細い肩のところで、一度、押し返されている気配が、ある。 「守る」  小さな声だった。 「私が、守る。あなたは、私の決めたことを、好きに嫌ってもいい」  湊は、黙って、自分の膝の、泥で固まった裾を、指先で撫でた。好きに嫌ってもいい、と言われて、嫌いきれないな、と、もう思ってしまっている。

 中庭の影が、いつの間にか、湊の足先を、完全に飲み込んでいた。  日没は近い。風の角度が変わり、廃村の方角から、痩せた夕餉の匂いが、薄く、ほんとうに薄く、流れてくる。誰かが、少ないながらも、火を起こしているのだ。湊は、ふと、廃村の井戸の脇で、さっき揺れた影のことを、思い出した。 「フィリアさん」 「リアでいい」 「……リアさん。あの村に、人は、いますか」  フィリアは、廃村のある方角へ、鼻先を、ほんの少しだけ向けた。鱗の上を、夕陽の最後のひと掬いが、するりと、渡っていく。 「いる。数人。――水が、濁っている。老人ばかりだ」  湊の胸の底で、さっき湧き水を澄ませた、あの、指先から抜けた熱の感触が、もう一度、静かに、火を灯した。錬金術、と、頭の隅の、もう捨てたつもりだった語彙が、自分から、小さく手を挙げた。  立ち上がろうとした湊の袖を、フィリアの細い指が、ごく自然な位置で、そっと掴んだ。 「夜は、危ない。明日、私が、連れていく」  湊は、掴まれた袖の布地の、引っぱられる強さの控えめさに、なぜだか、声を出して、笑いそうになった。

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