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竜姫に守られた錬金術師のスローライフ

第1話 第1話

第1話

第1話

苔の匂いが、鼻の奥で青くにじんだ。  湿った土の冷たさが、スーツのズボン越しに膝へ染み込んでくる。湊の掌には、まだ朱肉のべたつきが残っていた。さっきまで、辞表に判を押していたはずだった。代表取締役殿、退職いたしたく――そう書いた紙に、震える指で印鑑を落とした瞬間、世界が切り替わった。  目の前には、見たこともない広葉樹の森が広がっている。空は高く、雲の切れ端が金色に染まっていた。秋ではない。春の、湿った陽の匂いだ。  ……死んだのか、俺。  湊は膝をついたまま、自分の胸に手をあてた。心臓はちゃんと動いている。けれど、三年間ずっと胸骨の裏側に居座っていた、あの石のような重さが、消えていた。代わりに、知らない鳥の声が、頭蓋のすぐ内側で、澄んで響いている。  立ち上がると、視界の端に、半透明の文字列が浮かんだ。『錬金術――LvⅠ』。指先で触れると、ひやりと硝子のような感触があって、すぐに霧散する。 「……錬金術、ね」  前世で、と、ごく自然に思えてしまう語彙の並びに、湊は苦笑した。前世で最後までやり残したのは、新規素材の析出条件を詰める社内稟議だった。研究職採用の肩書きで入った会社で、三十四になる頃には、主任の看板と共に、七つの部署の雑用を押し付けられていた。徹夜明けの白衣に、こぼしたコーヒーの茶色い輪。指の腹にいつまでも残った、サンプル瓶のゴムキャップの油。  それらが、自分の代わりに、こんな森へ落ちてきた。  湊はゆっくりと息を吸う。樹皮を染める苔の匂い。遠くで鳴く鳥。誰も、自分を呼んでいない。 「……もう、働きたくないな」  声に出してしまってから、湊は自分で小さく笑った。

 歩き出すと、革靴の底が湿った落ち葉を踏んで、ぐしゃり、と鈍い音を立てる。  スラックスの裾は、とっくに土と植物の汁で汚れていた。スーツの上着は、気づけばどこかで脱ぎ捨てていた。ネクタイだけは首から下げたままで、緩めた結び目の位置が、三年前の自分より二センチは下にある。  森の中の小道を、湊は当てもなく下っていく。  スキル説明を念じれば、また視界に文字が浮かんだ。『対象物の構造を理解し、安定な別構造へ再配列する』――その下に、小さく、『理解度に応じて効率が変動』と添えられている。  つまり、化学で言うところの状態変化と触媒反応を、魔力とやらで押し通す術らしい。原理は分からないが、入出力だけ読めば、使い方はなんとなく想像がつく。分子量の近いもの同士なら、たぶん、楽だ。  ちょうどいい位置に、湧き水が岩の間から細く落ちていた。  岩肌を伝う水の線を、湊はしばらく眺めていた。水が石を丸める年月というものが、腕組みをして目の前にあるように感じられて、その大きさの前では、三年分の残業なんて、ずいぶん小さな、紙くずのような話だった。  湊は屈み込んで、掌ですくってみる。冷たさ。鉄錆の、かすかな味。この土地の土の記憶を含んだ水だ、と思った。  錬金術、と心の中で念じる。  指先からすうっと熱が抜けて、掌の水面に、目に見えないほどの微細な泡が立った。鉄分と、おそらく硫黄化合物。濁りの正体に、意識の端がそっと触れる。分離せよ、ではなく、ただ、安定な別構造へ――そう願うだけで、一呼吸遅れて、掌の水は嘘みたいに透き通った。  沈殿した微細な粒子は、水の縁から、指の間の隙間を縫って、落ち葉の上へ、細い銀色の筋になって零れ落ちていく。水面は、最初に掬った時より、ほんのわずかに沈んだように見えた。質量保存、と、頭の隅で、どこまでも習い性の声がつぶやく。  舌の先に乗せると、岩清水そのものの甘さが、舌根を撫でた。鉄の味は、もう、消えている。 「……本気で、効くのか」  湊はもう一度、掌の水を覗き込む。  疲れた頭の隅で、採算計算が勝手に動き始めた。ポーション、浄化剤、脱硫処理、工業排水の―― 「いや」  口に出して、頭を振った。もう、そういうのは、いい。  唇の端が、勝手に歪んだ。採算、工程、歩留まり。自分を削り出して商品にする言葉たちを、あとどれだけ森の奥に捨てていけば、本当に、忘れてしまえるのだろう。湊は掌に残った雫を、無造作に、ズボンの膝で拭う。スーツの生地は、もうとっくに、塗料のはげた作業着と変わらない。  前世の自分は、社内ベンチャーの旗上げ要員だった。机の上には、死なない程度に栄養だけ入れる餡パンと、蛍光灯の下で固まった豆腐の残骸。あの頃の指先は、いつも乾いて、紙で切っていた。終電で帰れない夜が続くと、人はまず朝の味覚をなくす。それから、眠る前に咳をするようになり、最後に、自分の名前を呼ばれてから返事をするまでの時間が、半呼吸ずつ遅れていく。湊が判を押したのは、その半呼吸が、一呼吸にまで延びた朝だった。  今、目の前の葉の裏を指で撫でると、微細な産毛が、指の腹に柔らかく引っかかる。葉脈の走り方が、前世の研究室で覗いた顕微鏡の視野に、ふと重なった。あの時は、ただの観察対象でしかなかった模様が、今は、生きている木の、生きている体温として、掌に返ってくる。  このまま森を出ないで、どこかの大樹の根元に寝床を拵えて、湧き水と木の実で一週間やり過ごしたら、誰に、文句を言われる?  歩きながら、湊は少しずつ、肩の線が落ちていくのを感じた。

 小道が尾根を越えたところで、森が急に開けた。  湊は立ち止まり、目を細める。  眼下に、崩れかけた古城があった。  南向きの斜面に、石積みの郭と、崩落した塔が一つ。外壁は蔓に食われて、半分以上が緑に飲まれている。堀は涸れ、跳ね橋の木は朽ちて、残っているのは錆びた鉄の鎖だけ。城の手前には、煙も立たない廃村が、田畑ごと荒野に沈みかけていた。畦道のかたちは辛うじて残っているが、畝の上には雑草が腰の高さまで伸びている。ここ何年も、誰も、本気で鋤を入れていない土だ。  ――誰も、いない。  いや、と湊は一度、息を止める。  村の井戸の脇で、何かが動いた気がした。気のせいだった。小さな風が、立ち枯れた麦の穂を揺らしただけだ。  もう少し近づいてみるか、と、足が勝手に動いた。  傾きかけた日が、湊の背中を橙色に染める。革靴の底が踏みしめるのは、粘土質の、やや赤い土。耕作放棄地特有の、ぼそりとした手触りだった。前世の出張で、一度だけ土壌サンプルを採りに行った、東北の山あいの田んぼに、色だけが少し似ている。踏み込むたびに、靴底の縁で押し出された土の粒が、ぱらぱらと音を立てて転がった。鼻腔の奥に、腐葉と、古い藁の、すこし酸いた匂いが届く。  城門は、なかった。  正確には、城門があるべき場所に、内側へ倒れ込んだ木の扉が、蔓に縫い留められている。石垣の一段一段には、ささやかな苔のパッチワークが張り付き、その隙間から、名前を知らない白い小花が、風に首を傾げていた。扉の木目は、雨風に洗われて銀色に乾き、鉄の飾り金具だけが、生き物の目のように、赤黒く錆びて残っている。その向こうに、石畳の中庭が続いていた。  湊は、ためらった。  勝手に入って、とがめる者がいるとは思えない。けれど、靴を脱いで他人の家に上がる、あの感覚が、足裏からじわりと這い上がってくる。  結局、一歩、踏み込んだ。  石畳の間から、タンポポによく似た黄色い花が、いくつも顔を出している。風が抜け、塔の崩れ目から西日が差し込み、中庭の空気のなかに、薄い金粉のような埃が舞った。塔の影が、中庭の半分を斜めに切り、光と影が、音もなく押し合っている。湊の靴音が、石壁に跳ね返って、思ったよりずっと大きく、耳へ戻ってきた。自分の心拍が、喉の奥で鳴っているのが分かる。  その、光の柱の中に。  一人の少女が、膝を抱えて、うずくまっていた。

 銀の髪が、西日を受けて、薄紅色に光っている。額には、小さな鱗が一枚、頬骨の横まで這っていた。眠っているらしく、呼吸に合わせて、細い肩が、ゆっくりと上下している。  湊は、息を呑んだ。  革靴の爪先が、無意識に石畳を鳴らしそうになって、慌てて止めた。起こしては、まずい気がした。  なぜ、と自分に問う間もなく、少女の長い睫毛が、ふ、と動く。  瞳が開いた。  琥珀に似て、けれどもっと深い、熔けた金色。  その瞳が、まっすぐに、湊を捉える。  湊の首筋を、電流のような緊張が、ひとすじ、走り抜けた。  少女は、膝を抱えたまま、湊から目を逸らさない。  やがて、割れた石の粒を踏みしめて、少女が、ゆっくりと、立ち上がった。

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