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竜姫に守られた錬金術師のスローライフ

第3話 第3話

第3話

第3話

夜が明けたのは、湊の肩の冷えから先に、だった。  古城の崩れた回廊の、陽の差す側の柱に背を預けて、湊は浅く目を覚ました。首筋に残るのは、石の冷気と、麻袋越しに受け取った、昨日のフィリアの体温の名残だった。夜のあいだ、彼女は一度も眠らなかったらしい。朝の斜光の中、フィリアは中庭の、昨日と同じ欠けた水盤の縁に腰掛けて、素足の甲を、春の陽にゆっくりと乾かしていた。足指の、ひとつひとつの付け根に、昨夜の露が、小さな水晶として、まだ留まっていた。  湊が身じろぎすると、琥珀色の瞳が、真っ先にこちらを向いた。 「起きたか」 「……おはようございます」  声が、喉の奥で、ひと呼吸、錆びついた。湊は一度、唾を飲み下して、ようやく自分の声の湿り気を取り戻す。フィリアは小さく頷いて、立ち上がる。銀の髪の、寝起きとは思えない滑らかさに、湊は少しだけ妬ましいものを覚えた。彼女の背中の向こうで、廃村の方角から、朝靄が薄い白い帯を引きながら、斜面を下っていく。その靄の底に、煙が、一筋。ほんとうに細い、迷いそうな煙が、立ちのぼっている。誰かが、竈を起こしている。 「水を、汲む頃だ」  フィリアが、静かに言った。 「老人の、骨が悲鳴を上げる前に、桶を担ぐ時間」  湊は、スーツの埃を掌で払った。払ったところで大差はない、とすぐに悟ったが、手を動かしている間は、気持ちがしゃんとする。麻袋から、フィリアが昨日のパンの端を半分に割って差し出してくる。湊は受け取って、固い表面に奥歯を当てた。塩の味は、ほとんどしない。けれど、噛んでいるうちに、麦の芯の、ほのかな甘みが、舌の奥に滲んできた。 「行こうか」 「うん」  跳ね橋の錆びた鎖を跨いで、斜面の細道を下る。湊の革靴は、もう半ば土に戻りかけている。フィリアは素足のまま、湊の半歩前を歩いた。彼女の足の運びは、獣のそれに似ていて、小石ひとつ、踏み外さない。その律儀な一歩一歩を、湊は目で追いながら、三年間、朝の通勤電車で見失っていた、自分の歩幅というものを、少しずつ、思い出していった。

 廃村の井戸は、村のちょうど真ん中にあった。  朽ちかけた石組みの井桁に、縄の代わりに、古びた麻縄が一本、頼りなく巻かれている。桶は木の、底の継ぎ目が黒く染みた、年季の入ったものだった。その井戸の縁に、三人の老人が、それぞれに肩を丸めて並んでいた。  一番手前の、白髭を胸まで垂らした老爺が、湊とフィリアを見て、息を呑んだ。隣の、頭巾を目深に被った老婆が、ぼそりと呟く。 「……客人か、こんなに早くに」 「水を、汲みに来られたか」  老爺が、湊の身なりを、一度、上から下へ眺めた。値踏みではなかった。都の人間かどうか、それだけを確かめる、慎重な目だった。湊が頷く前に、フィリアが、半歩、湊の前に出た。 「竜の血の者だ。この男は、私の客人」  老婆が、掠れた声で、ひゅう、と息を吐いた。恐れの色は、薄かった。むしろ、何か、長く忘れていた単語を、耳の奥で転がしているような顔だった。頭巾の奥の、白く濁った瞳の底で、一度、遠い季節の光が、ほんの一秒、燃え直したように見えた。湊は、自分の正体の紹介が、たったの一行で済まされたことに、密かに感謝した。 「水を、見せていただいても」  湊が訊ねると、老爺は、黙って、木桶を井戸の中へ沈めた。麻縄を引き上げる腕の、血管の浮き方が痛々しい。麻縄の軋む音が、井戸の底の闇から、ひと文字ずつ、這い上がってくる。桶の中の水は、一目で、濁っていた。  それは、昨日の湧き水の、可愛らしい鉄錆の味などではなかった。底から、薄い黄土色の雲が、ゆっくりと回っている。表面には、油膜に似た、虹色の薄い膜が、ところどころ、浮かんでは消えた。鼻を近づけるまでもない。硫黄と、古い鉄と、それから、何か、別の、有機物が腐った気配。湊の鼻の奥で、前世の工場排水サンプルの記憶が、嫌な匂いのカードとして、勝手にめくれていく。 「いつから、こんな」 「この春先から、だ」  老爺が、桶の縁を、節くれだった指で撫でた。 「山の上流で、雪崩が、一つ、あったらしくてな。土が変わった。それから、井戸が、こうだ」 「この水を、飲んでおられる」 「煮沸して、上澄みだけ、な」  湊は、桶の中の水を、じっと覗き込んだ。覗き込んでいる自分の顔が、揺れる虹膜の中で、歪んで、崩れて、また歪む。いい大人が、社の判を押すだけの朝に、生き死にを判を押されていた、あの朝の顔に、一瞬、似ている気がした。頭巾の老婆が、しゃがれた声で、独り言のように呟く。 「春が来ても、腹の底が、温まらんのじゃ」  その言葉は、湊の胸の、ずっと奥の方の、誰にも見せたことのない部屋の戸を、かたりと一度、叩いた。湊の指先が、勝手に、桶の縁へ伸びた。

 フィリアは、黙って、一歩、退いた。  湊の視界の端で、銀髪の少女が、中庭のときと同じ立ち位置で、湊と老人たちの間の、見えない境界の外側に、そっと身を置き直したのが分かった。守る、の続きを、今、彼女は、邪魔しない、の選択で示している。  湊は、井桁に片膝をついた。スラックスの膝が、濡れた石を吸う。革靴の先が、井戸の石の、湿った苔に触れて、じわりと染みる。掌で、桶の中の水の、冷たさを確かめる。昨日の湧き水より、三度ほど、温い。腐敗の、ごく初期の温みだ。  錬金術、と、心の中で、静かに念じる。  昨日は、指先からすうっと熱が抜けただけだった。今朝は、もう少し、手応えがあった。掌の下の水の、濁りの正体が、目を瞑ったまま、図として見える。鉄イオンが、水素イオンと手を離しかけている。硫化物が、酸素を探して、水面の薄膜を作っている。奥の方に、ひっそりと、有機物の分解の、最後の一匙。 「……煮沸じゃ、足りない、これ」  湊は、ほとんど自分に言い聞かせるように、呟いた。  桶を、両手で、縁ごと抱える。息を、一度、長く吐く。三年間、朝の通勤電車で、吐いたことのなかった長さの呼気だった。  安定な、別の構造へ。  強い言葉は、いらなかった。ただ、願うだけでよかった。分解せよ、でも、消し去れ、でもなく、この水が、この村の、老人たちの、腹の底を温める水であれ、と、湊は、掌の下で、静かに、それだけを思った。  桶の縁が、ひやりと熱を吸う。  水面が、ふるりと震えた。次の瞬間、底の黄土色の雲が、ゆっくりと収束し、桶の底の一点に、砂よりも細かい、銀色の泥となって、沈んだ。虹色の膜は、何かの合図が入ったように、桶の縁を這って、音もなく、縁の外側へ、露のように滑り落ちていく。石畳に落ちた雫は、もう、ただの、色の薄い染みだった。  水面は、澄んでいた。  昨日の湧き水よりも、ずっと、深い。底の木目が、歪まずに見える。湊は、そっと、掌で、ひと掬い、口に含んだ。鉄の味も、硫黄の匂いも、もう、ない。舌の奥に、山の水特有の、ほのかな甘みだけが、残った。喉を通る冷たさが、胃の腑のあたりで、ほんの少し、春の日差しの色に、似た温度へ変わっていく。 「爺さん」 「……ああ」 「一杯だけ、飲んでみてくれませんか」  白髭の老爺は、湊の顔を、長いこと見ていた。値踏みではなかった。ただ、春先から止まっていた何かを、もう一度、動かしてよいものか、掌の上で、そっと、測っていた。老爺の指先が、膝の上で、一度、かすかに震えた。湊には、その震えが、恐れではなく、むしろ、忘れかけていた期待を、久しぶりに肋骨の内側に迎え入れる、小さな痙攣のように思えた。  やがて、老爺は、黙って、木の椀を、懐から取り出した。

 椀を満たす水の音が、井戸の石の、ひとつひとつに、ささやかに跳ね返った。  老爺は、椀の縁に、皺だらけの唇を寄せる。一口、小さく、含む。喉が、ゆっくりと、一度だけ動いた。  老爺の瞳の底で、何かが、薄く滲んだ。湊は、それを、涙と呼ぶのは、まだ早いと思った。ただ、春先から、胸の奥で、ずっと固まっていた冷えが、たった今、椀一杯ぶんだけ、溶け始めた気配が、老いた肩の線の、ほんの一分ほどの下がり方に、出ていた。白髭の先が、呼気に揺れて、朝の光を、細かく拾った。  頭巾の老婆が、無言で、もう一つの椀を差し出してくる。湊は、もう一度、釜に火を入れる主婦のような気持ちで、井戸の縁に、掌を置いた。  フィリアが、湊の背中の、ちょうど肩甲骨の間のあたりに、視線を置いている。守る、の代わりに、今は、見届ける、が、彼女の位置取りになっていた。その視線の温度は、昨夜の麻袋越しの体温と、驚くほど、よく似ていた。  村の、別の路地の奥から、杖をついた老人が、もう一人、こちらへ、そろそろと、歩いてくる気配がする。  湊は、袖を、もう一度、めくり直した。

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