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辺境で鍋を振る公爵令嬢

第2話 第2話

第2話

第2話

部屋の窓からは、まだ薪を焚く匂いが細く昇っていた。

あてがわれた客間は宿場で一番奥まった角部屋で、板壁の節穴から隣室のいびきが時おり漏れ聞こえてくる。アリシアは木の寝台に腰を下ろしたまま、卓上の蝋燭の灯を見つめていた。侍女は隣室で休んでおり、扉の向こうで衣擦れの音も止んで久しい。

夕食の皿は、半分しか手を付けずに下げてもらった。

塩の当たりがあまりに強く、舌に残る辛さが喉を焼くようだった。硬い干し肉は噛むほどに顎が疲れ、黒パンのかけらで押し込むしかなかった。護衛の兵たちは当たり前のように平らげていたが、あれは日常の味なのだろう。慣れとは、恐ろしく、そして有り難いものだ。

——胃の底がまだ、重い。

アリシアは息を吐きながら、指先で腹をそっと撫でた。塩辛さが胃に残って、水を飲んでも薄まらない。これを毎日食べて旅をすれば、辺境に着く頃には顔色が悪くなっているだろう。

王都にいた頃なら、こんな夜に眠れない自分を持て余して、窓辺で本を開いていただろう。けれどここには、詩集もなければ、刺繍枠もない。旅の荷はまだ紐で縛られたまま、部屋の隅で静かに積まれている。

蝋燭の芯が、ぱちりと一度跳ねた。

アリシアはふと、卓の隅に置かれたままの小さな麻袋を見た。昼のうちに宿場の女が「旅の疲れに」と差し入れてくれた、乾燥したハーブの束だった。袋の口をそっと緩めると、タイムと、ローリエに似た名の知らぬ葉と、それから微かに甘い花の香りが立ちのぼる。鼻の奥がほぐれていく。

(……林檎酒が、階下にあったな)

夕食の折に、兵士が杯に注いで呷っていたのを見た。宿の裏庭には、皮を剥いた林檎が笊に積まれていた。

掌の奥で、あの感覚がまた動き始めていた。包丁の柄の、人差し指の関節に吸い込まれる位置。鍋の縁を木のへらで撫でる時の、控えめな抵抗。考えるより先に、指先が次の動きを覚えている。

アリシアは蝋燭を一本持って、そっと扉に手をかけた。

廊下は冷えていた。

梁の低い通路を伝って階下へ降りると、大広間は既に暗く、長卓に伏せられた燭台だけが月光を受けてうっすらと光っている。奥の厨房からは、まだ温もりの気配が漏れていた。薪を落とした竈が、炭になりきらずに弱い熱を保っているのだろう。

厨房の扉は、押すと軋んだ音を立てた。

「——おや」

低い声が振り向いた。

太い腕で鍋を磨いていた女が、アリシアの姿を見て一度手を止めた。四十過ぎの、頬の赤い女だった。頭に巻いた布の端が、汗で濡れている。

「お嬢さま、こんな刻限にどうなされた」

「あの、厨房を、少しお借りしてもよろしいかしら」

声が、思ったよりずっと落ち着いて出てきたことに、アリシア自身が小さく驚いた。

女は鍋磨きの手を止めて、しばしアリシアの指先を見ていた。細い指に、宝石の指輪の跡。その指が何を望んで厨房の扉を叩いたのか、女はゆっくりと読み解いていくようだった。

「……夜食でございますか」

「残りの干し肉と、林檎があれば」

「竈の火はまだ落ちておりませんよ。薪を一本足しましょうか」

断られるかと思った。けれど女は前掛けで手を拭きながら、奥の木戸を開けて裏庭へ出て行った。戻ってきた時には腕いっぱいの林檎と、小さな陶器の瓶を抱えていた。

「これが林檎酒。去年の秋に漬けたやつで、酸が強うございますが、肉には合いましょう」

「……ありがとう」

礼を言うと、女はふっと目を細めた。

「あたしは厨の差配をしておりますマチルダと申します。使い終わったら鍋は水に浸けといてくださいな、明日の朝にあたしが磨きます」

それだけ言って、女は厨房を出ていった。余計なことを訊かない背中だった。

竈の前に立つと、熾火の赤みが頬に当たった。

アリシアは袖をまくり、腕紐で留めた。板台の上に干し肉を置き、木槌で丁寧に叩いていく。繊維を潰さぬよう、端から順に、同じ力で。肉の層が湿気を取り戻すように、わずかに色を変えていった。その一打ちごとに、掌の奥から別人の呼吸が染み出してくる気がした。

(叩いたら、林檎酒で洗う。それから、湯気を立てずに弱火で)

鉄鍋に林檎酒を注ぎ、熾火を掻き起こして微かに煮立たせる。酸の匂いが、つんと目の奥に届いた。そこへ皮を剥いて四つに割った林檎と、タイムの枝を一本、葉を落とさぬようにそっと沈める。干し肉を並べ、蓋をして、鍋の縁に耳を寄せた。

ことり、と、鍋の底で何かが立ち上がった。

湯気の香りは最初、酸と木の匂いだけだった。やがてハーブの緑が解け、林檎の甘みが林檎酒の酸を丸めていく。肉の塩気が、酒の中へそっと溶け出す。鍋の中で、別々のものが互いの角を落とし合って、一つの匂いに収束していくのがわかった。匂いの層が重なるたびに、鍋の縁からかすかな湯気が立ち、アリシアの睫毛を湿らせていく。

アリシアは鍋の縁を木のへらで撫でた。へらの先が煮汁の粘りをすくって、返す。手首の角度が、自分でも知らぬうちに決まっている。

(……ああ、こういう手つきだった)

記憶の底のステンレスの流しは、もうそこにはない。代わりに、煤けた石の竈と、歪みのある鉄鍋と、節くれ立った木のへらがある。道具は違うのに、掌の覚えは同じだった。掌の中が、あたたかい。

指先から手首へ、手首から肘へと、忘れていた熱がゆっくりと遡ってくる。肩の強張りが、湯気の重みに押されるようにほどけていった。貴婦人として背筋を伸ばし続けた夜よりも、こうして竈の前で少し背を丸めている今のほうが、呼吸が深い。息を吸うたび、胸の奥の閉じていた抽斗が、一段ずつ、静かに開いていくようだった。

鍋の湯気が、梁の下で白く広がった。

厨房の奥の小窓から、夜の風が細く入り込んでくる。湯気はその流れに乗って、廊下の方へも、裏庭の方へも、ゆっくりと這って出ていくのだろう。アリシアは蓋を少し開け、煮汁をへらで掬って皿に落とした。色は琥珀に、林檎の繊維が柔らかく解けている。

指先に、一滴だけ垂らしてみる。

舌に乗せると、最初に酸が立った。次に林檎の甘み、それからタイムの土の香り、最後に干し肉の奥に隠れていた肉の味が、静かに顔を出す。塩は、林檎酒がほとんど引き受けてくれた。

「……できた」

声に出した途端、頬がほころんだ。

誰かに見せるための料理ではなかった。合格点をつけてもらうための皿でもなかった。ただ、自分の胃が温まることを、掌が覚えているやり方で、指先に任せただけのこと。それだけのことが、こんなにも心臓の奥をほどくのだと、アリシアは初めて知った気がした。

王太子の広間で握りしめた扇の軋みが、遠いものになっていく。

大広間のシャンデリアの熱も、貴婦人たちの扇の裏の囁きも、今この鍋の前では、煮汁の立てる小さな泡の音に押し流されていく。アリシアは竈の縁に腰を預けて、しばらくその泡の音を聞いていた。

——こつん。

廊下で、何かが鳴った。

石の床を、革の底が踏む音。ゆっくりとした、重い足音が、厨房の方へ近づいてくる。兵の靴音ではなかった。マチルダの足取りでもない。もっと歩幅が広く、一歩ずつが確かな、そんな気配だった。

アリシアは蓋に手を伸ばしかけて、止めた。

湯気はもう、厨房の扉の隙間から廊下へ抜け出している。香りは、追いかけて隠せるものではない。薪の煙でも、宿の夕食の残り香でもない、林檎酒とタイムと肉とが一つに溶け合った、この厨房にしかない匂いだった。

足音が、扉の手前で、一度止まった。

蝋燭の灯が、揺れた。アリシアは鍋のへらをそっと置き、濡れた指先を前掛けで拭いた。扉の向こうに立っている者が誰であれ——その人の鼻は既に、この湯気を嗅ぎ取っている。

鉄鍋の蓋の下で、煮汁がほんの小さく、ことり、と鳴った。

扉の外の気配は、動かない。けれど遠ざかる気配もなかった。アリシアはゆっくりと顔を上げ、湯気の向こうの扉板を見た。節目の一つひとつが、蝋燭の灯を受けて淡く浮き上がっている。

この匂いを辿ってきた誰かが、今、扉の前でこちらの返事を待っている。

アリシアは一度、胸の底で息を整えた。前掛けの裾をそっと撫でる。指先に残るタイムの匂いが、微かに鼻をかすめた。

「——どうぞ、お入りくださいませ」

声は、震えなかった。

扉の蝶番が、夜の静けさの中で、低く軋み始めた。

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