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辺境で鍋を振る公爵令嬢

第1話 第1話

第1話

第1話

扇の骨が軋む音を、アリシアは掌の中で聞いた。

象牙の骨組みに絹を張った婚約祝いの扇。潰れるほど握ればこの音がすることを、今日初めて知った。大広間のシャンデリアが熱い。額に汗が滲むのに、指先だけが氷のように冷たい。

「——アリシア・ルクレール公爵令嬢。貴殿との婚約、本日をもって破棄する」

三歩前で王太子レオナールが言い放った。声は大広間の天井まで届き、磨かれた大理石を走って招待客の耳まで転がっていく。扇子をかざした貴婦人たちの囁きが、その扇の裏でじわりと広がった。

「理由を、お聞かせ願えますか」

自分の声がずいぶん落ち着いていることに、アリシア自身が驚いた。

「料理の腕は下女レベル。王太子妃たる者、宮廷料理長と対等に議論し、食卓を采配せねばならぬ。貴殿にその器量はない」

料理の腕。

そう口にしたレオナールは、この三年の婚約期間で、アリシアの作った料理を一度たりとも口にしたことがない。厨房に立たせもしなかった。公爵家の令嬢が鍋を握るなど論外だと、初めて茶会で包丁の話を振ったあの日、父より先にこの男が顔をしかめたのだ。

喉の奥で何かが笑い出しそうになる。アリシアは扇をきつく握り直して、その音を押し殺した。

「……かしこまりました」

膝を折る。八歳の頃から叩き込まれた礼の角度を、一度も狂わせずに。広間の扉まで歩く間、誰も声をかけなかった。扉が閉じる寸前、父の顔が視界の端に映った。唇を引き結んだその表情から、辺境ヴァルデン伯への嫁入りの話がすでに水面下で進んでいたことを、アリシアは悟った。

馬車の車輪が石畳を叩いていた。

王都を出て三日目。石畳は砂利道に、砂利道は土の轍に変わり、やがて両脇を背の高い針葉樹が埋めていった。小さな車窓に顔を寄せると、樹脂の匂いが鼻の奥まで届く。王都の花卉園にも、温室で焚くお香にもない、荒っぽく青い匂いだった。

車輪が石を跳ねるたび、座席の絹張りがかすかに軋む。アリシアは指先を窓枠の木縁にそっと置いた。磨かれた楓の冷たさが、爪の先から手首へと登ってくる。王都の馬車なら気づきもしなかっただろう、この乾いた冷たさ。森のどこかで鳥が一声鳴き、その声が枝の間を渡って遠ざかっていった。

アリシアはそっと指先をこめかみに当てた。

樹脂の匂い。なぜだろう、この匂いを、知っている気がする。

記憶の底で、何かが小さく動いた。

——ステンレスの流しに、大根の葉が積み上がっている。蛇口から落ちる水の音。どこかのラジオから平日の昼の交通情報。誰かが笑っている。

鍋のなかで出汁が静かに揺れている。昆布を引き上げる指の、ほの温かな湿り。包丁の柄が右手の人差し指の第二関節に、使い慣れた場所へ吸い込まれていく感覚。

ごく短い、絵葉書のような断片。けれどそこには、掌に触れた木の俎板の冷たさと、味噌を溶かす時の湯気の重みまで入っていた。

(……またこれか)

物心ついた頃から、ときおり訪れる奇妙な既視感があった。十六で初めて厨房に忍び込んだ夜、置かれていた包丁の柄を握った瞬間、中指の関節がひとりでに「刃は向こうに、根元を切る」と動いた時の感触は、今でも背筋の奥に残っている。

眠る前にふと、知らない料理の手順を反芻していたこともある。味噌漉しで味噌を溶く時の手首の角度、魚の鱗を引く時に滑る包丁の背、そうした動きの一つひとつが、まるで指の中に仕舞われた古い道具のように、勝手にかたちを覚えていた。

公爵令嬢としての十八年と、もう一つの、まったく別の誰かの記憶。

別人、と呼ぶのも違った。それは確かにアリシア自身のもので、ただこちらの時間にうまく接続されていないだけなのだ。

「料理の腕は下女レベル」

馬車の揺れに合わせて、レオナールの言葉が胸の奥で小さく鳴った。

下女レベル、か。下女に失礼だ、とアリシアは思う。王宮の厨房で働く少女たちがどれほどの速さで玉ねぎを刻むか、あの男は一生知ることがないだろう。

扇の代わりに、今は膝の上で指を組んでいる。左手の薬指には、さきほど外して侍女に返した婚約指輪の、うっすらとした跡だけが残っていた。

(怒っていないな、わたし)

喉の奥を確かめるように、アリシアは一つ息を吐いた。

馬車が停まったのは、街道沿いの小さな宿場だった。

扉が開く。外の空気が一気に流れ込んできて、アリシアは思わず目を細めた。

冷たい。痛いほど澄んでいる。そしてその冷たさの中に、幾重もの匂いが折り重なっていた。薪がいぶる煙、馬の汗、濡れた藁、どこかで煮ている豆のスープ。その奥で、焼きたての黒パンの、芯まで香ばしい湯気。

吸い込んだ息が、肋骨の裏まで冷えていく。けれど冷気の底には確かに、人が暮らす温度の匂いが溶けていた。王都の香水でもなく、宮廷の蜜蝋でもない、薪と食事と獣と人とが一つの空気を共有している、そういう生々しい匂いだった。

「お嬢さま、足元にお気をつけて」

手を貸してくれたのは、王都から付いてきた護衛ではなかった。日に焼けて頬の高い若い男で、革の手袋の甲には繕いの跡があった。辺境伯領から迎えに来た兵のひとりだろう。

「我が主、アルフレッド・ヴァルデン閣下が、宿の広間にて」

「……お出迎えを?」

「食事を共にと仰せです」

広間に歩いていく短い距離の間、宿場の様子が目に飛び込んできた。板張りの壁に立てかけられた薪、井戸端で鍋を磨く女、その足元で駆け回る子供。兵士らしい男たちが黒パンをちぎって笑っている。笑い声は野太くて、飾り立てたところが一つもなかった。

鍋の蓋を押さえる女の赤い手。井戸縁に寄りかかって豆を選り分ける老婆の、節くれ立った指。薪の断面から立ちのぼる白い湯気。生活のそれぞれが、そのまま音を立てて回っていた。

誰も、アリシアの方を見ていなかった。

公爵家の娘が来たとも、婚約破棄の後だとも、気にも留めていない。薪を積む者は薪を積み、パンを配る者はパンを配る。

(——ああ)

アリシアは胸の内側で、小さく声を漏らした。

ここでなら、鍋を振れる。

誰に見せる必要もなく、誰の評価を気にする必要もなく、掌の奥にある別人の記憶を、この指先から解き放っていい。怒りでなく、安堵という名のささやかな熱が、肋骨の奥で灯っていた。

広間に入ると、長卓の奥にひとり、長身の男が立っていた。

黒の礼服も帯剣もない、ただ厚手の外套を肩に掛けただけの、無骨な姿。アルフレッド・ヴァルデンだと紹介されるまでもなく、背筋の置き方でそれと分かった。

「遠路、ご苦労でした」

低い声。

「——はい」

口にした返事は、ずいぶん素直に響いた。

卓には、それなりの食事が並んでいた。黒パン、塩辛く煮詰まったスープ、革のように硬い干し肉。王都の晩餐会なら絶対に出てこない一揃いを前にして、アリシアの指先が、卓の下でそっと動いた。

干し肉には、ハーブが足りない。スープの塩は、林檎酒で一度落とせる。パンは、焼きたてならそれだけで十分ご馳走だ。

頭の中で、自然と一皿ずつが組み直されていく。塩辛いスープなら、皮付きのじゃがいもと焦がしバターで受ければいい。硬い干し肉は、薄く叩いて葡萄酒で煮戻せば、繊維の奥まで香りが染みる。乾いたパンくずは卵と牛乳を吸わせて、明日の朝に焼き直せる。公爵家では決して口にできなかった算段が、指の関節をひとつずつ曲げるような確かさで、そこに在った。

アルフレッドが、卓越しに一度だけ、じっとこちらを見た。

何を言うでもなく、すぐに視線は外される。それでも、その一瞬にアリシアの背筋は小さく震えた。見られた、ではなく——気づかれた、という震えだった。

こちらの手のうち——掌の奥に仕舞ってきた別人の記憶、そして今その記憶が指先に立ち上がりかけていることまで、ひと目で嗅ぎ取られたような気がした。誰にも見抜かれなかったはずのものが、たった一度の視線でするりと解かれていく、その奇妙な軽やかさ。

外では、日が沈みかけていた。馬車の轍が、長い影を宿場の土に落としている。明日もまた、馬車は北へ向かう。辺境伯城は、まだ二日先だ。

アリシアは、膝の上でそっと両の手を合わせた。

掌の中が、かすかに温かかった。

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