第3話
第3話
扉の蝶番は、低く一度軋んだきり、それきり鳴らなくなった。
蝋燭の灯が揺れる。入ってきたのは、昼間馬車の傍らで手を貸してくれた、あの頬の高い若い兵だった。革の手袋はもう外され、繕いの跡の残る手を胸の前で所在なく握りしめている。鼻先をかすかに上向きにして、湯気の匂いを吸い込むように息を吸った。指の節には、手綱を握り続けた者特有の硬い皮が盛り上がっていた。
「……申し訳ありません、お嬢さま。夜番でございますが、あまりに匂いが気になりまして」
「お腹が、空いていらっしゃる?」
「いえ、腹というよりも、何と申しますか——」
男は言葉に詰まり、視線を竈と鍋のあいだで迷わせた。喉仏が一度、ゆっくりと上下する。
アリシアは小さく笑った。鍋の蓋を木のへらで押さえながら、磁器の深皿を一枚、板台に引き寄せる。
「ちょうど、味を見ていただきたかったのです」
皿に煮汁を掬い、肉の一切れを添える。林檎の薄切りをひとつ、端に寄せて。琥珀色の煮汁の縁から、タイムの緑が細く揺らいだ。
男は皿を受け取る手が、わずかに震えていた。木の匙を差し出されると、長身を縮めるようにして卓の端に腰を落ち着ける。ひと口、煮汁をすくう仕草は、兵というよりも幼い子のそれに近かった。匙を口元へ運ぶあいだ、彼の睫毛が何度も細かく上下した。
匙が唇に触れた瞬間、男の肩が止まった。
噛む動作より先に、肉の繊維に染みた林檎酒の香りが鼻の奥まで抜けたのだろう。目の縁が、竈の火のせいだけではない色に染まっていく。舌の上で、何かをひどく大切に確かめるように、彼はゆっくりと目を閉じた。
「……なんだ、これは」
ほとんど独り言だった。
「これは、本当に、干し肉でございますか」
「ええ。昼に馬車の荷台で揺れていた、同じ干し肉です」
男はもう一口、今度は林檎を齧った。酸と甘みの残る果肉が、肉の塩気の奥に潜んでいた味を拾い上げたのだろう、喉の奥で小さく、ああ、と声が漏れた。口の端に、煮汁の雫がひとつ光った。それを拭うことも忘れて、男は皿を両手で包み直した。
「——失礼を、承知で、申し上げてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「生まれてこのかた、こういう味を、口にしたことがございません」
兵は俯いたまま言った。声は低く、板の節目を数えるような静けさだった。
「辺境の黒パンと塩のスープで育ちました。腹を満たすとはそういうことだと、ずっと信じてまいりました。けれど、これは——腹ではなく、なんと申せばよいのか……胸の、奥の方が、温こうございます」
男は言葉を探して、肩を上下させた。厚い外套の下で、彼の呼吸が一度、深く揺れるのがわかった。
アリシアは答える代わりに、鍋の底に残っていた煮汁を、もう一度へらで静かに撫でた。鉄の底を木がこする、かすかな音だけが、しばらく二人のあいだを満たした。
「……仲間にも、分けてやりとうございます。一口でよい。交代の者が三人、外で身を縮めておりまして」
「どうぞ、呼んでさしあげて」
男は飛び上がるように立ち上がり、一度深く頭を下げてから廊下へ駆け出していった。足音は、来た時の倍の速さで遠ざかっていく。
アリシアは、鍋の前に立ち直した。
竈の熾火は、まだ十分に生きていた。裏庭の隅に積まれていた根菜の笊を思い出して、アリシアはマチルダが置いていった鉄鍋のもう一つを取る。木戸を押して冷気の中へ一歩踏み出し、土の匂いのする籠から蕪と人参、それに萎びかけた玉葱をいくつか掬い上げてきた。夜気が首筋を舐め、髪のほつれた先がかすかに凍った。
皮を剥く指先は、もう自分のものではないかのように動いていた。
蕪は厚めに剥いて乱切りに。人参は面取りを省き、角を残したまま。玉葱は繊維を断ちきらず、薄く半月に。鉄鍋を竈に戻して、獣脂を小匙ひとつだけ溶かし、玉葱から先にじっくりと汗を引かせていく。焦がさぬよう、木のへらで鍋底を撫で続ける。甘い匂いが立ち上がってきた頃に、蕪と人参を重ね、塩を一つまみ。水を注ぐのは、野菜自身の水気が引き出された後でいい。
竈の前で、湯気の壁が静かに立ち上がった。
廊下から、複数の足音が近づいてくる。さきほどの兵に率いられたらしい男たちが、帽子を両手で潰すようにして扉の外に立っていた。アリシアが目で頷くと、一人ずつ、足音を忍ばせるように厨房へ入ってきた。土と汗と馬の匂いが、湯気の中にそっと紛れていく。
「お嬢さま、夜更けに、まことに恐れ多く——」
「お椀は、そこの棚に。林檎酒の煮込みを先にひと匙ずつ。ポタージュはもう少し、お待ちくださいね」
声は勝手に、公爵令嬢ではない者の声で出た。厨房の奥に立つ、ただの料理番の声だった。
兵たちは無言で椀を手に取り、竈の前で肩を寄せ合いながら一口ずつ匙を運んだ。最初の一人が声を漏らし、次の者が喉を鳴らし、三人目は匙を持ったまま、しばらく鍋の湯気を見上げていた。その男の睫毛の先に、湯気のしずくが小さく宿って揺れていた。
「……母が、昔、病の折に」
最年長らしい白髪混じりの兵が、ぽつりと言った。
「一度だけ、林檎を削いで蜜をまぶしてくれたことがございました。あの匂いが、かすかにこの鍋の中に」
彼はそれ以上、言葉にしなかった。代わりに鼻の付け根をぐっと押さえて、椀を両手で包み直した。節くれ立った指が、磁器の縁を何度も何度も撫でた。
蕪と人参が煮え始めていた。
アリシアは鍋の中身を小ぶりの擂り鉢にあけ、木の棒でゆっくりと潰していく。繊維の筋だけをほどくように、粒は少し残す。鉄鍋に戻して、水を足し、煮汁でのばしていけば、橙と薄黄の混じる色味のポタージュが立ち上がってきた。獣脂の代わりに、林檎酒の鍋から掬った煮汁を小匙ひとつだけ落とす。それが、塩気の輪郭をそっと閉じてくれるのが、指先にわかった。
椀を配っていくと、兵たちは一口ごとに黙り込んでいった。喉が熱いのか、目が熱いのか、うつむいて肩だけを揺らしている者もいた。厨房の梁の下で、幾筋もの湯気が立ちのぼり、小窓の外へ静かに抜けていく。
気がつくと、扉の外にも幾人か、立ち尽くす気配があった。
交代明けの兵、起き出してきた宿の下男、裏の井戸端で鍋を磨いていたはずの女まで、いつのまにか廊下に寄り集まっている。誰も声を上げなかった。ただ湯気の行方を見上げるように、首をわずかに上向けて、鍋の匂いを吸い込んでいた。
アリシアは、その誰にも、椀を渡した。
竈の前にはもう、立錐の余地もない。けれど、押し合うでもなく、急かすでもなく、人々は肩を触れ合わせるようにして、一口ずつ静かに湯気を受け取っていく。板の間の冷たさを、足の裏が忘れていくのがわかった。石畳を伝って這い上がってきていた夜の冷えが、いつのまにか遠い場所の話になっていた。
——そのときだった。
廊下の奥で、何かの気配が、ひとつ大きく息を吸った。
集まっていた人々の背中が、合わせたように一歩、竈から離れた。扉の枠が、ふっと陰る。蝋燭の灯が、長い影を厨房の石の床に落とした。その影は、宿の誰よりも背が高く、肩の幅も広く、けれど足音はほとんど立たなかった。絨毯もない板の間を、ただ布の擦れる音だけを伴って近づいてくる。
アリシアは擂り鉢から手を離し、前掛けで指先を拭った。指の腹に、人参の汁の甘い匂いが残っていた。
湯気の向こうに、長身の人影が立っている。厚手の外套の肩が、湯気にうっすらと濡れている。光の加減で、その顔立ちはまだ半ば影の中にあった。けれどアリシアは、その姿を、昼間に一度だけ見ている。
アルフレッド・ヴァルデンは、竈の前で足を止めた。
誰にも何も問わなかった。ただ、鍋の中身を一度見下ろし、それから湯気の流れを目で追い、最後にアリシアの指先を——擂り鉢の縁に置かれた、木の棒を持ったままの指先を——短く見た。その視線は、刃物の切っ先のようでありながら、どこか、凍えた手のひらが火に近づけられたときの、ためらいに似ていた。
厨房の空気が、水を打ったように静まった。
兵たちが椀を伏せ、宿の女が前掛けを握りしめる。誰も、声を発しなかった。湯気だけが、梁の下で白く広がり続けている。竈の熾火が一度、ぱち、と小さく爆ぜた。
アルフレッドは、一度、ゆっくりと息を吸った。
それから、低く、囁くほどの声で言った。
「……その鍋を、もう一杯」
アリシアの指先が、ほんの微かに、震えた。