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零の渇望、喰らいの回廊

第2話 第2話

第2話

第2話

夜半、夢の底を突き抜けて衝撃が背を叩いた。

 カイが目を見開いたとき、納屋の床板が生き物のように跳ねていた。梁から埃が雪のように降りしきり、鼻と喉に入り込む。乾いた木屑の匂いに、別の匂いが混ざっていた。鉄錆の、そして焦げた岩のような、嗅いだことのない重たい匂い。

 短剣の柄を反射で握った指が、冷え切っていた。父の形見の短剣は鞘に収まったまま、寝床の枕元に置いていた。柄に巻かれた擦り切れた革の手触りを確かめながら、カイは跳ね起きる。

 耳が鳴っていた。鼓膜の奥で、何かが鈍く唸り続けている。地鳴りだ、と理解した瞬間、納屋の扉の向こうから甲高い悲鳴が走り抜けた。

「山が——裏山が崩れた!」

 村長の息子、ヨナの声だった。カイは短剣を腰に差すより先に、扉に体をぶつけて外へ転がり出る。

 闇夜が崩れていた。

 宵の口には薄曇りの空に月が淡く掛かっていた。だが今、空は別のもので染まっている。北の方角——裏山のあるはずの場所から、土埃の巨大な柱が立ち昇っていた。月光を浴びて、埃の柱は灰白色に輝き、それ自体が新しい山脈のように夜空を切り裂いている。見慣れた稜線があるべき場所に、見知らぬ柱が立っている。世界の一部が、夜のうちに書き換えられていた。

 村はすでに動き始めていた。

 篝火があちこちで焚かれ、赤い光が人影を長く引き伸ばす。母親たちが赤子を抱えて走り、男たちは鍬や薪割りの斧を掴んで叫び合っていた。犬が狂ったように吠え、鶏小屋の方からは羽毛が舞い上がっている。

「魔物じゃ! 魔物が湧いとる!」

「裏山の底が裂けた、崖がまるごと口を開けとるぞ!」

「誰か——井戸端に水を! 火がまわったら終いじゃぞ!」

 聞き齧った言葉の切れ端が、煙と埃の中で散らばっていた。カイは走りながら首を巡らせる。村の中央広場——今朝、自分が石板に手を置いた場所——そこに人が集まり始めていた。避難の合図だ。だが村の北半分がまだ暗いままだった。篝火が届いていない。子供たちの住まう地区だ。

「カイ!」

 呼ばれて振り向くと、村長の妻ミラが駆け寄ってきた。髪を振り乱し、息が上がっている。手には灯火、もう片方の腕には小さな男児を抱えていた。抱えられた男児の目は焦点を結んでおらず、短い指先がミラの襟元を何度も握り直しては開く、それを繰り返していた。

「北の家々が——親が広場に走っちまった子がおる。まだ寝床に残っとる子がおるかもしれん。大人は皆、表で魔物と——」

 言葉が途切れる。ミラの視線は、魔力測定で下限未満と告げられた少年の顔の上をさまよっていた。他に頼める者がいない、という目だった。唇が何か言いかけて、結局、許しを乞うように歪んだ。

「行きます」

 カイは短く答えた。頷くでも胸を叩くでもなく、ただ返事だけを置いて駆け出す。ミラが背後で何か叫んだが、耳に入らなかった。走り出した足の裏に、石畳の冷たさと、その下で脈打つ地の震えが同時に伝わった。

 北の路地は狭く、屋根と屋根が覆いかぶさるように迫っている。普段は昼でも薄暗い道を、カイは躊躇わず走り込んだ。夜明け前の鍛錬で何度も通った道だ。石の位置も、水路の蓋の継ぎ目も、体が覚えている。それが今日ばかりは命綱だった。

 最初の家の戸を叩く。返事がない。閂が外れているのを確かめ、肩で押し開ける。奥の寝床で、五歳ほどの姉と三歳ほどの弟が毛布にしがみついていた。姉の目には涙が溜まり、弟は声も出せずに震えている。毛布の端を噛みしめた弟の唇から、か細い息が漏れるたびに、小さな胸が不規則に持ち上がった。

「立てるか。抱えてやる。目を閉じてろ」

 弟を左腕に抱え上げ、姉の手を右手で引いた。姉の掌は汗と涙で湿り、小刻みに痙攣していた。その震えがカイの手首にまで伝わってくる。この震えを、自分は覚えている、と思った。三年前、父の亡骸が山から運ばれてきた夜、自分の手もこうやって震えていた。誰かに握ってもらえれば少しは止まるのだろうかと、あの夜、泣きながら考えていた。だから今は、自分の手を離さずにいる。それだけで、この子の夜が少しは違うものになるはずだ。

「怖いのは知っとる。だが、ここから出たら広場に灯りがある。そこまでの辛抱だ」

 姉が頷いたのか、泣き声を押し戻したのか、それは分からなかった。ただ、握られた指の力が、わずかに強くなった。

 三軒目、四軒目と回り、子供たちを五人、広場へ送り届けた頃だった。途中、崩れかけた土壁を跨ぎ、倒れた水瓶の水たまりを飛び越え、幾度も膝を擦った。息は熱く、肺の奥が焼けるように痛んだ。

 遠くで地響きが再び走った。最初のものよりも深く、重い。足元の石畳が小刻みに跳ね、路地の壁の漆喰がぱらぱらと剥がれ落ちる。カイは最後に残ったと思われる家——村のもっとも北にある、老婆と孫娘の二人暮らしの家——へ向かっていた。

 路地を抜けた先に、それはいた。

 魔物、と呼ぶ以外に言葉が見つからなかった。背丈はカイの胸ほど、四つ足で、土のような灰褐色の皮膚に岩のごつごつとした塊が食い込んでいる。頭部には眼球らしきものが見当たらず、代わりに裂け目のような口が顔の半分を占め、その奥で赤い燐光が明滅していた。呼吸するたびに肩甲骨のあたりの岩塊がかちりと擦れ合い、硬い鉱物のこすれる音を立てる。

 嗅いだことのない匂い。昼間、裏山の方から風に乗って流れてきたあの鉄錆と焦げ岩の匂いが、今、目の前で凝り固まっている。

 カイの体が止まった。膝が、意志とは関係なく笑った。息を吸うことを忘れた喉が、じりじりと火傷のような痛みを訴えてくる。指先から血の気が引き、短剣の柄を握る感覚がひどく遠のいた。自分の心臓の音が、耳の奥で太鼓のように殴りつけてくる。

 ——逃げろ。

 本能の声は明確だった。だが背後には、まだ家の中に取り残されているかもしれない老婆と孫娘がいた。脇を抜ければ、魔物は家へ向かうだろう。一度その像が脳裏をよぎった途端、震えていた膝が不思議と固まった。怯えが消えたわけではない。ただ、怯えの上に、もう一枚、別の層が重なっただけだった。

 短剣を抜いた。刃こぼれした刀身が、遠い篝火の光を受けて鈍い橙色に映える。三年間、毎朝振ってきた刃だ。握り方だけなら、誰にも負けないつもりだった。

「こっちだ」

 声は掠れていた。それでも、魔物の裂け目のような口がぐるりとカイの方へ向き直る。赤い燐光が一段強く灯った。口の奥から、湯気のような熱気が漏れ出し、夜気の中で揺らいで見えた。

 カイは走った。

 路地の反対側、家屋から遠ざかる方向へ。魔物が追ってくる足音が、不規則な四拍子で石畳を打った。速い。体の作りからは想像できないほど速い。カイの足は山裾の獣道で鍛えられていたが、平地の直線では分が悪かった。背後から生温い息が迫り、首筋の産毛が逆立つ。

 路地の曲がり角を折れようとした、その時だった。

 足元の石畳が、沈んだ。

 一瞬の浮遊感。カイは石畳が割れる音を聞いた気がした。あるいはもっと遠い、地の底で何かが崩れ続けている音だったかもしれない。体が傾ぎ、肩が石壁に擦れ、視界が回転する。星が流れた。いや、流れたのはカイ自身だった。

 落ちていた。

 短剣の柄を握る指だけが正確に働いていた。宙に投げ出された体は、どこまでも落下していく。路地の下に、こんな空洞があったのか。いや、これはきっと、昼間感じた地鳴りの続きだ。裏山の崩落が地下の何かを露わにし、その亀裂が村の北端にまで及んでいたのだ。

 耳の奥で風切り音が渦を巻き、頬を冷たい空気が何度も打った。世界が上下の感覚を失い、どこが天井でどこが底かも分からない。

 背中から何かに打ちつけられた。空気が一瞬で肺から追い出される。喉の奥に鉄の味が滲んだ。しばらくの間、息の吸い方を体が忘れていた。咳とも呻きともつかぬ音が、自分の口から漏れるのを他人事のように聞いた。

 目を開くと、頭上の落下口が、遠い小さな星のように見えた。篝火の赤い光がそこだけ点っている。ここは地の底だった。

 空気が冷たかった。昼の納屋とも、夜の外気とも違う、湿った石の匂い。千年のあいだ誰の息もかかっていなかった空気の、独特の重たさ。肺に入るたび、胸の内側にひやりとした石を置かれるようだった。

 視界が暗闇に慣れる。カイは短剣を構え直し、身を起こした。

 ——何かが、いる。

 闇の奥、石壁の陰に、人の背丈ほどの影が三つ。息遣いが聞こえた。魔物の荒い吐息ではない。整った、抑制された、人間の呼吸。

 そのうちの一つが、低く呟いた。

「……面白い。こんなところに、人の子が落ちてきおった」

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