第3話
第3話
石の床の冷たさが、背骨を伝って後頭部まで駆け上がった。
カイは短剣を握ったまま身を起こした。掌の汗が柄の革に染み込み、握り直すと微かに軋んだ音を立てる。地下の空気は昼の納屋とも夜の外気とも違って、湿った鉱石のような匂いがした。吸うたびに肺の内側が冷えていく。千年の沈黙が喉の奥で溶ける、そんな感覚だった。
目が闇に慣れるにつれ、石壁の陰影がゆっくりと輪郭を取り戻す。天井は見えない。足元には苔とも黴ともつかぬ薄い膜が石畳を覆い、踏むたびに微かな湿りを伝えてきた。どこかで水滴が落ちる音がする。一定の間隔で、ぽつ、ぽつと。その音は、自分の鼓動と拍を分け合うように、胸の内側で重なって響いた。
三つの影は、五歩ほど先の壁際に並んでいた。
一人は背の高い女だった。腰に届くほどの長い髪は、闇に沈んでもなお朱色と判る深い紅で、額には白銀の細い輪を巻いている。杖を携えているわけではなかったが、その指先には細い火花が走っていて、火花が散るたび、女の瞳の琥珀色が夜気の中に浮かんだ。纏う外套の裾は地面に触れぬ高さで揺れ、歩き慣れた旅装の色をしていた。
もう一人はそれより頭一つ高い、獣人の男だった。耳は虎のそれに似て、腕の露出した肩から肘にかけて刺青のような縞が走っている。腰を落とした姿勢からして、拳闘の構えだとカイにも分かった。握られた両の拳が、鎖骨の上あたりで静止している。呼吸に合わせて肩の縞が緩やかに伸び縮みし、肉食獣の気配がその一挙動ごとに漏れ出ていた。
最後の一人は、二人より小柄で、外套の頭巾を深く被っていた。竪琴らしきものを肩から提げているが、その佇まいだけが、何かの下に別の形を隠しているように見えた。
「……面白い。こんなところに、人の子が落ちてきおった」
先ほどの声は、竪琴を提げた者のものだった。
短剣を握る指が、無意識に強張っていた。喉が乾いて、声を出そうとして咳が出る。鉄の味が再び滲んだ。
「落ちた……」カイは辛うじて言葉を繋いだ。「村の北端で、路地が崩れて」
「崩れたのは路地ではない」紅い髪の女が、指先の火花を払うように掌を閉じた。「この迷宮の天井だ。地上の岩盤が耐えきれず、あちこちで抜けておる」
迷宮、という単語が頭の奥で反響した。ハグレ村に伝わる古い伝承には、北の山脈の底に「喰らいの回廊」という名の穴があると、老人たちが火を囲む夜にぼそりと語っていた。子供を脅すための作り話だと、誰もが笑っていた——はずだった。笑いの裏で、誰かが必ず目を伏せていたことを、今になって思い出す。
女の視線が短剣に落ちた。刃こぼれした粗末な刀身。王都の洗練された目から見れば、薪割り用の鉈にも劣る代物だろう。女の眉がわずかに動いたが、嘲る色はなかった。観察する者の目だった。
「リーネだ」女は名乗った。「向こうが獣人族のガルド。頭巾を被っているのがシオン。大陸を渡ってきた。この迷宮の噂を追ってな」
「噂……」
「半月ほど前から、東方の各街で奇妙な話が出回っていた。北の辺境で、古い迷宮が目覚めかけていると」ガルドと呼ばれた獣人が低い声で継いだ。「着いてみたら、今夜だ。ちょうど目が覚めやがった」
その時、闇の奥で粘ついた鳴き声が上がった。
先刻、路地で相対した岩塊を背負う魔物の仲間と思しき気配が、三体、四体——数えきれぬ数、回廊の先から這い寄ってくる。裂け目のような口から漏れる赤い燐光が、壁の苔に反射して不吉な絨毯のように床を染めた。湿った石を擦る鈍い音と、何かを咀嚼するような低い唸りが、幾重にも折り重なって迫る。
カイは反射的に短剣を構えた。膝が再び笑いそうになる。三体までなら、あるいは走って逃げきれるかもしれない。だがこの数は——
リーネが、面倒そうに前に出た。
彼女が右の掌を肩の高さに翳し、指を開いた。その所作だけだった。呪文らしきものも、杖の振り下ろしもない。ただ、空気が鳴いた。
次の瞬間、回廊の半ばから先が、白い焔に包まれた。
熱の塊が顔に当たり、カイは思わず腕で目を庇った。睫毛の先が微かに焦げる匂いが鼻を掠め、頬の皮膚が一瞬で乾ききるのを感じた。焔の中で魔物たちの岩塊が罅割れ、鉱物の爆ぜる音が幾重にも重なる。赤い燐光が一瞬だけ強く燃え、そして消えた。焔が引くと、そこには黒く焼け焦げた輪郭が、溶けた鉱石の染みとともに残っているだけだった。
五秒、なかったかもしれない。
「……っ」
カイの喉から、意味にならない音が漏れた。短剣を構えた腕が、自分でも気付かぬうちに下がっていた。三年間、夜明け前の獣道で振り続けてきた刃の重さが、急に嘘のように薄っぺらく感じられた。掌にこびりついた革の匂いも、兎を仕留めた時の血の温度も、この一瞬の焔の前では、夜露ほどの記憶にしかならなかった。
これが、魔力だ。
下限未満と告げられた測定石の灰色が、網膜の裏に蘇ってくる。自分と彼女の間に横たわるものの正体を、カイは生まれて初めて、目で見て知った。それは距離ではなかった。壁でもなかった。もっと根の深い、生まれた場所の違いのようなものだった。
「リーネ」ガルドが短く呼んだ。「撃ち過ぎだ。奥まで響くぞ」
「これくらいせねば、この子が飲まれる」リーネは焔の残滓を踏まずに避けながら振り返った。「名は」
「……カイ」
「カイ」彼女は一度だけ頷いた。「上に戻りたかろう。案内する。だが、その前に一つ聞け」
琥珀色の瞳が、嘘を挟ませない強さでカイを見据えた。
「この迷宮の最深部には、魔物を産み出しておる核がある。シオンが碑文を読んで、此処へ辿り着いた。核を潰さねば、魔物の噴出は止まらぬ。今夜の出来損ないの群れは、前触れに過ぎん」
カイの背に、ひとつ冷たい汗が伝った。前触れ、と彼女は言った。あの裂け目のような口と赤い燐光が、あれで前触れだというなら、本番はどれほどのものになるのか。
「村は……」声が掠れた。「ハグレ村は、無事ですか」
「半壊、死者は今のところ聞いておらぬ」答えたのはシオンだった。頭巾の奥から覗く口元が、僅かに動いた。「落ちてくる前に、ガルドが上の様子を見てきた。避難は進んでいる」
安堵の代わりに、膝の力が抜けかけた。カイは壁に手をついて耐える。濡れた石の冷たさが、手首まで染み込んでくる。死者は出ていない。まだ、出ていない。その二文字に、今夜のすべてを繋ぎとめる綱を見た気がした。綱は細く、指に巻きつけた途端に切れそうだったが、それでもまだ繋がっていた。
「案内する、と言ったな」カイは顔を上げた。「上に戻れるなら、今すぐ戻りたい。村に——伝えねばならんことがある。避難してる連中に、誰か残っているかもしれん。子供を、広場まで運びきれていないかもしれん」
リーネの眉が、今度ははっきりと動いた。横でガルドが鼻を鳴らす。獣人の男の口元には、半分は嘲り、半分は——何か別のものが混ざっていた。
「下限未満だろう、おまえ」ガルドが言った。カイは息を呑んだ。見ただけで分かるのか、と思い、次に、身に着けた布の貧しさと短剣の刃こぼれで察したのだと悟った。「その手の村で、魔力のない小僧がどう呼ばれるかくらい知っとる。——だが、今夜は走ったな。走って、子供を引っ張り出したな。顔に付いとる煤が、そう言うとる」
カイは顔を拭おうとして、止めた。煤の痕は、今夜の自分が確かに動いたという、たった一つの証だった。拭えばそれごと消えてしまう気がした。
「シオン、案内しろ」リーネが短く命じた。「最短の抜け道で上まで。ガルドは後ろを守れ。私は二人目の噴出を牽制する」
「承知」シオンが初めて動いた。竪琴の背に隠されていた左腕が、軽く振られる。掌から淡い光の糸が漏れ、それが石床に矢印の形で這った。出口への印だった。吟遊詩人の技ではない。カイには理屈は分からなかった。ただ、この男もまた尋常ではないと、その光の糸が告げていた。
四人で走り出した。
カイの呼吸は乱れていたが、足は前に出た。朝の獣道で鍛えた速さは、此処でも役に立った。少なくとも、三人の歩調に遅れない程度には。前をゆくシオンの光の糸が、右の分岐を示し、次に左の階段を示す。背後では、ガルドの足音が影のようにぴたりと付いてきた。
途中、リーネの焔が二度、背後で膨らむのを感じた。二度とも、振り返らなかった。振り返れば、今度こそ膝が止まると分かっていた。
やがて頭上に、小さな星が見え始めた。
落下してきた穴の反対側、別の出口らしい。夜明けが近いのか、光は赤ではなく、青白い。村の篝火ではなく、空の色だ。
「上に出たら、覚悟しておけ」リーネの声が、背後から追いついてきた。「半壊した村と、止まらぬ魔物と、それから——おまえ自身の選択が、待っておる」
カイは答える余裕がなかった。ただ、短剣の柄を握り直した。父の形見の刃が、地の底の冷気を吸って、これまでより少しだけ重くなっていた。